源義国
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足利義康 新田義重
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義兼 義兼
義俊 義範 義季 経義
┣━━┓ ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ (里見) (山名) (得川)
(額戸)
義氏 義純 ━┳━女(来王御前) (足利義純 安元元年(1175年)〜承元4年10月7日(1210年)、36歳で病没。
) 義房
┃ (畠山) ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━┓
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頼氏 岩松時兼(岩松郷地頭職1224年(貞応3)?)田中時朝 岩松綱持(長庶子?下野国七井三王~社神官)政義 新井覚義 甘粕重兼
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家時 経兼 経氏 長義 氏兼 頼兼 朝兼 経国 政氏 大館家氏 堀口家貞 信氏 経光 助義
┃ ┃ (田部井) (金井) (寺井) (村田) (薮塚) (田島) ┣━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━━┳━━━━┓
貞氏 政経 基氏 細谷国氏
下細谷知信 西谷重氏 安養寺快義 安養寺貞氏 今井惟氏
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尊氏@ 義政 経家 直国(岩松五郎)(岩松禅師頼宥) 足利氏に属
朝氏 満氏 義量 今井惟義
┃ (越後岩松)(新田属)┣━━━━┓ ┣━━━━┓
義詮A 泰家 岩松匠作行人?(寄居・釜伏山修験者) 義貞 脇屋義助
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義満B 新田義宗室 満国 義綱 (以後武蔵国寄居・釜山神社神官)
道長 義顕 義興 義宗(妻は岩松満国の妹・墓は武蔵国寄居・釜山神社)
┣━━┳━━━━━┓ ┣━━┳━━┳━━━━━┳━━━━━━┓ (原沢)
┃ (断絶) ┣━━━━┳━━━━┳━━━━━┳━━┳━━━┓
義持C 義嗣1 義教E満春 満親 満長 満純(新田岩松)
満氏 義一 満純 貞氏
貞方 義則 義一 義邦
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(新田)
(新田岩松) (横瀬) (光田・堀江) ┃ ┃
義量D ┃ 義勝F義政G持国 ==>持国(京兆家) 家純(礼部家) (岩松家家老) 義邦 重兼
(断絶) ┣━━┓ ┃ ┣━━┓ ┃
┃
直明2 嗣俊 義尚H 成兼 次郎 明純 貞宗
(一色) (鞍谷) | (後閑氏) ┣━━┓
┏━━┫ (断絶) 義植I 尚純
顕純
直清 蔵主3 | ┏━━┳━━┫ ┃ *元久2年(1205)武蔵畠山の領主畠山重忠が北条義時に攻められ戦死すると、岩松義純(31歳)は鎌倉幕府二代目
┃ ┃ 義澄J 覚現 氏淳 昌純 憲純 執権北条義時の娘である、故重忠の未亡人のもとに再入婿 し、畠山氏の名跡を継ぐ。
直頼 氏義4 ┣━━━━━━━┓ |
┃ ┃ 義晴K 義維(阿波公方) 氏純 *元久3年(1206)新田義兼(67歳)が死去。
直朝 氏久5 ┣━━━┓ ┃ ┏━━┫
┃ ┃ 義輝L 義昭N 義栄M 守義 守純 *畠山義純 承元4年10月7日(1210年)、36歳で病没。
義直 義久6 (断絶) ┣━━┓ ┏━━┳━━┫
| ┣━━┓ 義喬 義在 重政 豊淳 清純 *下野国七井の三王~社に「建保四年1216六月に岩松新六郎綱持 本社再建す」とある。 岩松新六郎綱持は社伝
直氏 崇利8 崇貞7 (一色)(永山) ┣━━┳━━┓
の誤りで、七井綱持ではないか?との説もあり、この場合この三王神社の累代の神官である岩松氏は南北朝期に
┃ ┃ ┣━━┓ ┃ (断絶) 秀純 義勝 貞常
七井に来たらしい。とはいえ、七井は宇都宮氏の勢力下であるので「綱」の字は偏諱をうけたのかもしれない。であ
直房 直房9 左京 八郎 義房 ┏━━━┫ れば、一概に社伝の誤りと言い切ることは危険であり、その場合、七井綱持が実在することを示さねばならない。
(一色)(根岸) (断絶) (断絶) ┃ 大久保忠喬 富純
┃ (岡崎一色家) 義邵 ┃ *岩松綱持と岩松匠作行人は、いずれも新田岩松系図に現れない人物。身分の低い女(白拍子)などに生ませた子
丹右衛門10 (坂本) 慶純
ゆえに所領の相続もなく、野伏の修行の末に神官となったのかもしれない。
┃ ┃
丹右衛門11 ( 足利将軍家 ) 基純 *新田義兼の未亡人だった新田尼は離縁となった娘孫の時兼を哀れみ新田荘岩松郷周辺の諸郷(田島郷、村田、
┃ ┃
高島、成墓、二児墓、堀口、千歳、 薮墓、田部賀井、小島、米沢、上今居)を分け与えた。 ただし、岩松時兼の
丹右衛門12 孝純
岩松郷地頭職は1224年(貞応3)であるので、父である岩松義純が岩松家を去り、畠山家を相続した時、時兼が2
┃ ┃ 〜3歳の幼年であったことが伺える。
三代略 成純
┃ ┃
*また、足利義純は、安元元年(1175年)に生まれであるので、岩松新六郎綱持の生誕を、足利義純が16〜20歳の
丹右衛門16 教純 時と仮定するならば、岩松義純が岩松家を去り、畠山家を相続した時、長庶子の岩松綱持の年齢は11歳〜15歳と
┃ ┃
仮定でき、新田家の血を引かない庶子の岩松綱持がこの頃、出家して11年に及ぶ修験道に励み、神道を学び、
丹右衛門17 時純
22歳〜26歳の時、下野国七井に移り、源義家に従い奥州征伐を果たした藤原系の宇都宮氏か重臣の芳賀氏の
┣━━━━━┓ ┣━━━┓ 後ろ盾を得て、「三王神社」の神官となった事を、累代の神主岩松氏が「再建」と社伝に記録したと思われる。
丹右衛門18 裕次郎(断絶) 徳純 俊英
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丹一郎20 丹右衛門19 道純 立花義勝 義裕 立花直顕 岩井義一
┃ (断絶) ┃
元吉21 新田俊純
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須弥雄 弥寿雄22 裕治 忠純 義誉
┃ ┃ ┃ ┃
敏夫 剛弥23 裕孝 義美
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剛健24 陽子
( 幸手&喜連川一色家 ) ( 新田・岩松家 )