『喜連川家由緒書』の訳と解析


                              メインページ喜連川騒動における一考察

    慶安元年(1648)に幕府により評定が下された喜連川騒動事件の真実を知るために旧喜連川町が編纂した明治44年の『喜連川町郷土史』に載せられた、

    喜連川騒動を語る「狂える名君」と昭和52年に発刊した『喜連川町誌』に載せられた、同じく「喜連川騒動の顛末」の基礎史料であった『喜連川家由緒書』

    原文を当ページ作成者である私が、その記述内容を変えずに矛盾点もその侭に訳してみます。


    このことにより、原文の読み方が解らない方であってもその矛盾に気付いていただけるかと思います。

    また、「狂える名君」では、事件の藩主を4代喜連川昭氏として記述されているが、「喜連川騒動の顛末」では3代喜連川尊信として記述されています。

     一方、

        @ 『寛政重修諸家譜』 幕府の公式文書であり、喜連川尊信の項

        A 『喜連川文書』    事件の評定を担当した幕府老中から連判で4代昭氏の後見人となった榊原忠次に宛てた事件評定内容を知らせた手紙

                        を収録した文献


        B 『及聞秘録』      江戸在住の人物により書かれた文献、尊信公事件についての記録と喜連川の一色家と三家老のその後の件までが記述

                        されている。


        C 『徳川実紀』      大猷院殿実紀、徳川将軍家の日記(徳川家光の日記)で慶安元年七月三日条に関連記述が残されている。


        D 『喜連川義氏家譜』 最後の喜連川藩主喜連川聡氏により作成、喜連川家の系図と家伝書、先頭部に三代尊信の事件について事件詳細が残

                        されている。


        E 『喜連川判鑑』    12代喜連川藩主喜連川縄氏の生家、水戸徳川家が写し取った、喜連川家の系図と家伝書。4代昭氏の相続について、記録

                       が残されている。

        F その他の文献資料 東京大学史科編纂所の喜連川尊信の事件に関する網文記録、参考出典として『人見私記』、『慶延略記』、『慶安日記増補』

                       、 『寛明日記』、『足利家譜(喜連川)(按)(又按)』、『及聞秘録』があげられている。



     上記の計13点、上記の喜連川家内外の古記録の全てが、


     「喜連川騒動事件の藩主、3代喜連川尊信の「狂乱」は紛れなく、三人の家老達が右兵衛督尊信を「押籠」とし、永く幕府には通常の病として届けていた。

     その後、高四郎左衛門と梶原平右衛門の二人に不始末があった為、追放していたが、後に二人がこれを恨んで幕府に直訴したので、御目付の花房勘右

     衛門と三宅大兵衛の二名を遣わされ、評定所にて吟味され高四郎左衛門等は言葉折したので、三家老は高・梶原共々伊豆の大嶋へ流され、大猷院殿(

     徳川家光)の命により尊信は隠居、実子昭氏(七歳)が白川藩主榊原式部大輔忠次を後見として相続した。三家老の男子と家族は、それぞれに、大名家

     預かりとなった。」(概訳)


    と記述または関連記述を残していることを、頭に残して読み込んでいただきたい。このことにより、明治と昭和の時代を生きた「狂える名君」「喜連川騒動の顛末」

    のそれぞれの執筆者が「自称にて事件の直訴を行ったとする五人の百姓」が記述した『喜連川家由緒書』を読み解き、いかに歪曲編集したのかを明白にして行き

    ます。

    ”自称”=多くの第三者文献の記録と記述内容が一致せず、その記述文中においても、多くの矛盾を含む記録を残しており、しかも五人の百姓当人等による記録で

    あるとしているので、あえて「自称」という表現を使わせていただきました。しかも、当人であることも疑わしい記述内容ですので、悪しからずご理解いただければ幸

    いです。



    そして、下記の『喜連川家由緒書』を読み解く鍵は、

     @ ここに、書かれた記述を西暦の年表に直し検証すること。

     A 「罪を罰すること」と「罪を許すこと」、この二つの権利は、「罪を犯された側」にあることです。


        つまり、この事件の場合、幕府と喜連川家が「罪を犯された側」となります。

        よって、喜連川家は事件における幕府への控訴(直訴)加担者への帰参命令や幕府の沙汰により白河藩へお預け中であった二階堂主殿の幕府への帰参

        願いは全て彼等を喜連川家の追放刑から許したことでもあると、とらえるならば、この事件記述は正しく記述された部分もあるということです。


        徳川幕府への罪は、1)「武家諸法度」を犯したこと。

                     2)偽証の控訴を起こしたこと。

        喜連川家への罪は、1)旧将軍家、関東公方家の末裔である喜連川(足利)家の威厳を落としたこと。

                     2)三代尊信の狂乱を世間に示し辱めたこと。

                     3)身勝手な偽証により直訴を起こした上、喜連川家の名誉を守りつつ、家臣達とその家族の生活を重んじ、やむなく藩主尊信を「押籠」

                       としていた足利家の同族、庶家であり本来の忠臣であった、一色刑部等三家老とその家族を罪に落としいれたこと。


     B この『喜連川家由緒書』は、元旧領主塩谷家の家臣であった、四人の「長百姓」(関伊右衛門・飯島平左衛門・岡田助右衛門・簗瀬長左衛門)と一人 の「古百

       姓?」(金子半左衛門)の誰かが、事件評定があった慶安元年(1648年)からに23年後にあたる寛文十一年(1671年)に、この事件記述の後に追加添付されて

       いる歪曲文書(『五人の由縁書』と『松平伊豆守の書付の件』)及び、事件記述中の『五人の百姓への尊信の命令書』を残した。


       そしてこの古文書(尊信の命令書)をさらに、その子孫が「及び聞いたこと」や当時残されていた文献などから、先祖が残した古文書(尊信の命令書)に沿うよう

       都合よく捏造し、「冒頭部からの事件記述」を追加して編纂したものであるとするならばこの『喜連川家由緒書』に多数存在する矛盾は、すべて解明されるので

       す。当然、真実の記述もされている文献であることは、他の文献等と対比検証することにより認められます。


       寛永十年の『長百姓姓名書上』は、この『喜連川家由緒書』記述中にある五人の百姓の一人、飯島平左衛門の子孫と思われる、葛城村の佐野家の所蔵であ

       るが飯島から佐野に姓を変えられた経緯は、この『喜連川家由緒書』の後部、飯島平左衛門の由緒書を読むことにより理解できる。「佐野信濃の甥、佐野越後

       で・・・」の部分。


       そして、彼の由緒書きが、『長百姓姓名書上』にある関平三郎の件について「担当の喜連川家家臣」または「彼が住んでいた村の名主」が記録した記述と似て

       いるのは、『長百姓姓名書上』が佐野家所蔵であることから当然、その可能性が理解できる。

       すなわち、この『喜連川家由緒書』の編纂者が自分の先祖の百姓、飯島平左衛門の由緒書に、『長百姓』関平三郎の記述を、”ぱくった”可能性を残すもので

       もあります。 当然、関伊右衛門と飯島平左衛門が一緒に、居付百姓に頼まれ、用心棒をしていた可能性は否定できませんが、なぜか関伊右衛門の由緒書に

       はその記述がありません。


       これは、この『喜連川家由緒書』(喜連川家御家)を記述したのが飯島平左衛門本人かその子孫が記述したことを表しているともいえます。



     C 『喜連川町史』第三巻資料編3近世には、実はこの佐野家所蔵の文書が多数載せられておます。なぜこの葛城村佐野家に、これらの古文書が多数所蔵され

        ていたのでしょうか? これは、佐野家が葛城村の名主か大百姓であり、戊辰戦争により喜連川の産業基盤は農業一本になってしまったからとすれば理解

       しやすい。 大名行列がなくなり、喜連川の町が困窮したことは当然のことであり、藩士は一般民(平民)となり、百姓になるには土地が必要となりますので、大

       百姓や庄や・名主の家に旧武家から土地や借金のために色々な物品、古文書などが質入されたことは十分に想像し得ることです。



    以下、翻訳を開始します。


======================================



    77 寛文十一年 喜連川家由緒書 (この文書の表題は下記の喜連川御家)

         喜連川御家

   一、右兵衛督尊信公は寛永七年(1630)に古河よりお引き移りになられました。

      同拾八年(1641)に、ご上意ということで、生来、気性が荒い方でしたので、一色殿・柴田殿・伊賀殿は主意計略をもって一間(一部屋)設けて御押籠め申し上げ

      ました。

      同拾九年(1642)に左兵衛督様(昭氏)がご誕生になられました。


       (注、上記の記述により3代尊信は1641年から1647年夏までの約六年に渡り屋館内の一間にて「押籠」となっていたと筆者が記述したことになります。

          また、4代昭氏は上記の通りで1642年の十月二十四日生まれですが、人間は約十ヶ月と十日で生まれます。よって、3代尊信と側室の欣浄院殿は狂乱中

          の「押籠」中に4代となる昭氏を仲むつましく作ったことも読み取れます。

          したがって、3代尊信の「押籠」は、多くの方々がイメージされる厳重な牢屋に閉じ込めるようなものではなく、藩主の尊厳を保ちながらの以外と緩やかな

          ものであったことが読み取れます。

          なを、『喜連川文書』『及聞秘録』中には、このことを裏付ける「押籠中」の3代尊信の様子なども記述されております。


          さらに、3代尊信の次男氏信の生誕は慶安三年虎年(1650年)ですので彼も尊信が「狂乱中」に正室との間で作ったことになります。この件についてですが、

          喜連川家に残されたいずれの家譜でも幕府の『寛政重修諸家譜』にも確かに、4代昭氏の弟氏信の生母は昭氏と同じとされています。


          しかし、4代昭氏の生母であった3代尊信の側室欣浄院殿の死去日は4代昭氏を生んだ約一月後の12月2日ですので、これは喜連川家を慶安元年(1648年)

          の事件評定で側室の子昭氏が相続したこともあり、藩内のさらなる騒動の種を亡くすという都合による喜連川家のやむおえない歪曲であったといえます。


          話をもどしますが、この頃の一般的な大名家の家臣による主君の「押籠」は主君(藩主)が暴君であり素行が悪く、藩の取り潰しにつながりかねないと判断され

          る時、主家の存続と家臣達の生活を考慮し家老達が合議して主君(藩主)を謹慎扱いとして、執行するもので、当然、主君(藩主)が改まればこれが解除される

          ことになります。


          この場合、反省書を主君(藩主)に書かせ家老達の身分と安全を約束させる形の書面を書くことなります。室町時代や江戸時代に存在した家老達の権利であり

          役目で慣習です。 ゆえに「押籠」という言葉が存在するのである。そして、室町時代の大名家と家臣の関係は、戦乱のない江戸時代とは異なり、武家と武家

          の領地的利害関係で結ばれた連合体であるといえ主君(御館様)である者の素行が悪いと、この連合体の崩壊につながるため「押籠」が執行されます。そして、

          主君(御館様)が最後まで改めない場合、「下克上」につながるわけです。


          一方、江戸時代の場合は戦乱のない時代ですので、室町時代のそれとは異なり、この時代は主君(藩主)と家臣が完全に忠義・忠誠・忠節という朱子学の価値

          観でつながった社会です。 つまり、この時代の大名は、『武家諸法度』による幕府の地方自治の執行官ですので、「押籠」を執行する家老達の目的は主家(御

          家)の安泰と家臣達とその家族の生活を考え、幕府の「御家取潰し」を避けることが目的でした。


          しかし、尊信の場合は後に幕府も認めた「狂乱」が理由ですので嫡子となる昭氏が元服するまでの間は、一色刑部等三家老は、主君尊信の尊厳を守りつつ、狂乱

          した尊信が城下や領内を歩きまわり、町人や農民に藩主の狂乱が知れ渡り、領外に尊信の「狂乱」のうわさが流れ主君尊信の名誉と足利家の名誉が地に落ち、

          しいては尊信の狂乱が幕府に知れ「主家の取潰し」になり、藩内の多くの家臣達とその家族が流浪することを防ぐために不本意ながらも主君尊信をやむおえず「押籠」

          としていたと判断できます。 そして、この三家老の「押籠」処置は、喜連川家および藩内の家臣達の多くが認めるものであり、江戸での控訴(直訴)事件は、藩内の

          大多数の藩士(家臣達)の肝を冷やさせたことだったのではなかったか? このことは、実はこの『喜連川家由緒書』のこれ以降の記述にある、


             @ 幕府評定後の五人の百姓の領外逃走と行動および慶安元年の事件評定から21年後の帰参命令と褒美

             A スムーズな万姫(七歳)の帰国。

             B お供として江戸に登った同心達の多くの帰国の事実。 喜連川足利家臣団の家禄&役責取り決めと平成19年3月30日出版された『喜連川町史』第三巻資料

               編3近世に収録されている『喜連川家分別帳』参照

             C 直訴に加担した家臣達の評定前(慶安元年春)の領外逃走と、高瀧・高瀬への21年後の喜連川家からの帰参命令

             D 直訴を計画した、当時15歳であった二階堂主殿に対する23年後の4代昭氏から幕府への帰参願いと白河からの帰参。


          などの直訴派に対する喜連川家(藩)の動きと対処の記録が、このことを表しています。そして、『及聞秘録』の記録により喜連川尊信の「押籠」と「狂乱」を幕府に隠して

          いた一色刑部等三家老のほうが、直訴派より五年以上早く幕府から許されていることが、事件の真相を表すものといえます。


          幕府は一色刑部等三家老よりも直訴派の方を五年以上、重く罰しており、しかも主家の喜連川家は幕府による三家老の遠流を惜しみつつ高四郎左衛門、梶原平右衛門

          等の直訴派家臣と「五人の百姓」だけを罰していたことを示すことになります。


          さらに、この『喜連川家由縁書』には、「尊信が生まれつき気性が荒いので一色刑部等三家老は、尊信を「押籠」とした。」と記録されており江戸評定所の記述においても

          「御上使の報告では相違ない」と記述されているだけで、すなわち、この『喜連川家由緒書』の筆者はいっさい「狂乱」という3代尊信の発狂を表す文字は記録、記述して

          いないのです。


           それでは、なぜ『喜連川家由緒書』の記述を元にしていた、明治44年の「狂える名君」の筆者、と昭和52年の「喜連川騒動の顛末」の筆者である二名は、この記述を

          参考にしただけで、「偽狂乱」の文字を思いつけたのでしょうか?(ありえないことです。)


           つまり、この二名の筆者は、『喜連川家由緒書』以外の史料にもあたり、喜連川尊信の「狂乱」の事実を知っていたとしか考えられないのです。

          尊信の「狂乱」を示し、高四郎左衛門と梶原平右衛門の偽控訴を記録した古文書は、現在の所、私が先に述べ表示した、喜連川町内外で所蔵されていた13点の古文書

          です。

           よって、旧喜連川町の明治44年の「狂える名君」の筆者と昭和52年の「喜連川騒動の顛末」を執筆した二名は、この喜連川騒動に関する上記の13点の古文書史料の

          いずれにも記録された、「尊信の狂乱の事実」と「高四郎左衛門と梶原平右衛門らの直訴内容が幕府評定所において、現地調査にあたった幕府御目付二名を交えて詮議

          され、高・梶原の二名が”偽直訴であったこと”を認め伊豆大嶋へ流刑となった」の記録を知りながら、あえて高野修理と梶原平右衛門そして、五人の百姓を事件のヒーロー

          に仕立てるために、旧喜連川町の公的発刊物である『喜連川町郷土史』と『喜連川町誌』に、自分に都合よく、記述し歪曲した文献を載せていたことになります。


           なお、慶安元年の事件後の喜連川には、当然「高家」も「梶原家」も領外に追放された家ですので、明治44年・昭和52年の頃には、当然存在し得ない家ということになりま

          す。しかしなぜ、明治44年と昭和52年の執筆者二名は、ここまでして、この喜連川騒動事件の歪曲にこだわったのでしょうか?


           この理由は、『喜連川家由緒書』の事件記述で登場する、”高野修理”の姓名と平成19年の『喜連川町史』第三巻資料編3近世に編纂添付されている『長百姓姓名書上』

          と『喜連川家分別帳』の二つの古文書に記録された姓名を対比、参照すれば、簡単に理解できることといえます。


           『喜連川家由緒書』の記述ではあまり記述されていない、江戸池之端在住の浪人”高野修理”がなぜか?「狂える名君」「喜連川騒動の顛末」では、”高野修理”が事件

          解決のの中心的ヒーローとして記述されたことに注目すれば簡単なことです。


           そして、この尊信の「押籠」の開始年を記述した、上記の記録によりこの『喜連川家由縁書』をもとに書かれた明治44年「狂える名君」の3代尊信は偽狂乱を自分の意思で

          6年間も続け通したことを示すことになります。(ありえないことです。)

           すなわち、明治44年の筆者は、自己の意図を持って一色刑部等三家老を逆臣に仕立上げるために、この『喜連川家由緒書』に記述された藩主尊信の「押籠」の始まりの

          記録を隠したようです。


           また、この『喜連川家由縁書』を元にした「喜連川騒動の顛末」を執筆した昭和52年の筆者は、明治44年の「狂える名君」の矛盾を補填するがごとく、自己の意図をもって

          一色刑部等三家老を逆臣に仕立て上げる
          為に、

          「正保四年(1647)の夏から尊信は「押籠」られた。」 などと悪意をもって記述し『喜連川家由緒書』の記録を歪曲していたことも明白となる。さらに、この『喜連川家由緒書』

          の冒頭部の 「同拾九年(1642)に左兵衛督様(昭氏)がご誕生になられました。」


          とある4代昭氏の生誕年の記録と幕府の事件評定後の記述となる最終部にある

           「4代昭氏公7歳の時、江戸に登り〜 これより御代成り」

          の記録が、慶安元年(1648年)の幕命により、若い3代尊信(29歳)は強制隠居となり、慶安二年には4代喜連川昭氏(7歳)の相続があったことを示している。つまり、1642

          年の7年後は1649年で慶安二年となるので四代喜連川昭氏の相続は慶安元年の幕命による三代尊信の押込と隠居が起点であったことが記録されていることになる。)





        *長くなりましたが翻訳を再開します。



      正保四年(1647)平三郎村の(関)伊右衛門義は別に訳有の者で、また葛城
      村の(飯島)平左衛門と(金子)半左衛門義も上総からの御共の者で由緒ある
      者の義であった。

      いかがしたことか、この節おうかがいを申し上げることもなく(城)をたずねた
      ところ、一色殿・柴田殿らの取り計らいによって、ご城内に泊まることになった
      ことを申し上げます。

      そのうち内々に夜中に来るようにと、梶原平右衛門殿よりご内通があった
      ので忍んで行ったところ、ご同人の案内立会いにより蜜々に直々に殿様から
      上意を賜り、これより江戸表へむかいました。

      その頃(時?)小入村の(岡田)介(助)右衛門と東乙畑村の(簗瀬)長左衛門
      、この両人も古百姓といい志もたのもしき者どもなので、選ばれ御引添になり
      五人同様に江戸表に忍び登りました。


        (注、 ここで注意すべきことは、城内に泊まった関伊右衛門は「訳有の者
           」で飯島平左衛門と金子半左衛門の二人は上総(小弓)からのお供
           の者」で岡田介(助)右衛門と簗瀬長左衛門の二人は「古百姓」であ
           ると記述されていることです。

            この『喜連川家由緒書』が「尊信公一件」として掲載提示された平成
           19年3月30日発刊(6月から発売)の『喜連川町史』第三巻資料編3
           近世の第四章村の生活には、寛永十年(1633年)に喜連川家の担当
           家臣により書上げられた「長百姓姓名書上」が提示されています。

            『喜連川家由緒書』ページの最後に、この原文を紹介し解説しておき
           ました。

            この古文書には、五人の百姓に対応する人物の姓名を確認すること
           ができるのです。「長百姓」とは喜連川家(足利家)の入領の時に、旧
           塩谷家家臣で旧領内に残り、百姓となった者のことで、45名が記録さ
           れています。

            この書上には城下で町人となった者や領内で浪人となった者も含ま
           れます。

            以下に「長百姓姓名書上」から五人の百姓の関係人物の姓名の
           記録を抜き出しました。

            塩谷在家者、居附百姓ニ御頼申候ニ付、
            他え能出候共百姓ニ成共勝手次第ニ被仰渡候  関 平三郎

            (訳)塩谷在家の者で、居付百姓に頼まれて
               いると申しているので、この者には他領
               へ出るも百姓になるも勝手次第である
               といっておきました。

                                        小入村
                                          岡田 新九郎
                                        東乙畑村
                                          簗瀬 伊 賀
                                        阿久津内
                                          飯島平左衛門

            下記は、この書上から抜出した五人の百姓の関係人物です。

             関 平三郎===>平三郎村  関 伊右衛門
             岡田新九郎===>小入村  岡田助右衛門
             簗瀬伊賀 ===> 東乙村  簗瀬長左衛門
             飯島平左衛門==>葛城村  飯島平左衛門
               ??    ==>葛城村  金子半左衛門

            このように対応させると解りやすいのですが、ほぼ対応していること
           が理解でき、金子半左衛門以外の4人が元旧塩谷家家臣であるか、
           その末(子供)であることが理解できます。

            そして、この『喜連川家由緒書』には、五人の百姓は松平伊豆守に
           提出した由緒書を添付していますが、ここで記述された内容と矛盾する
           記述が見られます。)

        *長くなりましたが翻訳を再開します。



      この節、大切なご用事を申し付けられて江戸表へ至り、最初に御一門様宅に
      お伺いして御上意内容をお伝えし、先達て高野修理殿が池之端にて浪人して
      いるということで、そこへ伺い相談いたし、島田丹波守様と松平伊豆守様の処
      へ出向き、お伺い申し上げたところ、御公儀様よりの御上意では百姓からの訴
      えは受付られないとのことでした。

      されども、

      「百姓が江戸へ登り訴えでるとは不審なことである。何か証拠でもあるのか」

      とお尋ねになられ、

      「百姓であっても訳有の者であるように見えるが?」

      と尋ねられたので、皆の詳細な由緒を書き差上げました。

      その内、(訴えが可能かどうかの回答が)引き延ばしになっているようなので
      やむなく、(喜連川へ)帰国したところ、

      殿様より厚き信頼を得ている梶原平右衛門殿から、

      「うまくゆけば葛城村の両人の者共(飯島平左衛門と金子半左衛門)は後々
       知行も与えよう(家臣にしよう)他の者には領内に土地を与える。」

      「ただし、この度の件を首尾よく勤めればのことだが、いずれ沙汰があるであろ
       う。」

      とお達しがありました。

      その内、梶原平右衛門殿はご浪人と成りました。

      この節、お味方連判の者の中に心変わりした者もあったようで皆、互いに心が
      離れたため、直訴は引き延ばしになっていたところ。

      慶安元年(1648)の春、二階堂又市殿・武田市郎右衛門殿・猪野嘉右衛門殿・
      高瀧清兵衛殿・小関嘉之介殿・高野修理殿・梶原平右衛門殿からお指図を得
      て、武田殿と高瀧殿がご当番の節、お側近くから(殿様直々に)書付をいただき
      ました。

      お案文には、

     一、 この度江戸へ用事申し付ける。首尾よく相達(連?)が、本田地
        を持たせ無役とすること相違ないもの也

         尊信

         正保四年八月十日
                                        伊右衛門へ
                                        平左衛門へ
                                        介右衛門へ
                                        長左衛門へ
                                        半左衛門へ


       (注、 ここでの問題点は、上記の通り慶安元年(1648)の春に五人の百姓が
          受け取ったとする、上記の「尊信の書付」の日付です。

           なんと、昨年の正保四年(1647)八月十日と記録されています。

           このことは、五人の百姓が、この書付を昨年受取ったことを、しめすこと
          になります。

           しかしそうなると、この『喜連川家由緒書』の正保四年(1647)の五人の
          百姓達の行動記述と、かみ合わない。

           すなわち、昨年の正保四年八月に松平伊豆守と島田丹波守に相談に
          伺ったという記述は、歪曲記述で実は直訴に至っていたことになり、この
          「尊信の書付」と「五人の百姓の由緒書を提出するだけで幕府への直訴
          は、この時すでに成立していたことになります。

           しかし、問題は江戸で待つ五人の百姓と国元の喜連川家に幕府から
          何の沙汰も無かったので、秋の収穫期を前に百姓が家を留守にするこ
          とは、怪しまれるので国元に帰ったということではなかったか・・・・?

           だとすると、問題はその後の正保四年の秋〜冬の梶原平右衛門の
          浪人と藩内の直訴に連判した同士達の動揺と翌年、慶安元年春の武田
          市郎右衛門・高瀧清兵衛の浪人の件である。

           なぜ、彼等は喜連川を離れねばならなかったのか?

           彼等の行動は、いかなる事態の変動によって行われたのかが
          問題となる。

           予想するに直訴が成立したので、いずれ幕府から沙汰があることは
          明白であるので「梶原平右衛門の浪人」は、江戸の高野修理(本当は
          高四郎左衛門)との今後の詳細な打ち合わせのためであり、他の二人
          、武田・高瀧の浪人は、慶安元年春に幕府からなんらかの沙汰(連絡)
          があり、どうも自分達の旗色が悪そうなので、領外に逃走したのかもし
          れません。

           いずれにしても、この編纂の仕方から判断できることは、

           この『喜連川家由緒書』の編纂筆者が和暦を正しく知っていたならば
          、この正保四年の「尊信の書付」を、ここに提示して編纂することはない
          ので、知らなかったということ。

           また、この正保四年八月十日の「日付を変えなかったこと」から、この
          書付の存在自体は、尊信の実筆であるか否かは別として、五人の百姓
          がいただいた物であることは、事実と判断できます。

           筆者の創作物であれば、日付は当然、慶安元年春の物として作られ
          るはずだからです。

           よって、下記の書付の「首尾よく相達」の部分の記録は、誤記ではなく
          このままで正しくなり、意味は「守備よく目的を達せれば」の意味になり
          ます。

           そして、このことは昨年の五人の百姓の行動記述から「万姫を連れて
          行け」の意味ではなくなりますので、

           慶安元年の五人の百姓の行動記述の信憑性を肯定する証拠がなく
          なり以後の記述が疑わしいものとなります。

           もっとも、否定する材料もないのですが。

           しかし、この『喜連川家由縁書』の執筆者、または家に残された古文書
          をもとに、「万姫の登場」を証拠付けるべく、この書付をここに配置した
          編纂者は、矛盾をしらずしらずに起こしてしまったことは明らかです。

           当然、この正保四年の「尊信の書付」は写し(覚え書き)ですね。

       *翻訳を再開します。



      右の通りの御書付をいただき尊信公様のため御名代(万姫?)を御一間より
     忍んでお連れしました。

      お供の諸士は富川雲右衛門・星佐右衛門・忍田新左衛門・善左衛門・所左衛
     門・清左衛門・御草履取りの重三郎でした。


         (注、上記の家臣は計七人のよですが、下記では五人ですので、二名は
            書付の命令に従っただけで悩んでいなかったということか?)

       *翻訳を再開します。



   一、 お味方の御家中の五人の者は、(尊信の)御誕生いらいこの節まで、この事に
      共に心を痛め、尊信を助けるために、連判状に署名したものの、不義か忠義か
      悩んで破棄しようと共に語らっていたが、五人の百姓と共に江戸表へ向かいま
      した。

      この節の後で武田殿・高瀧殿は、ご浪人となられました。


          (注、上記の「・・不義か忠義か悩んで破棄・・」の記述を昭和52年
             「喜連川騒動の顛末」の筆者は、記述していません。

             原文「御身方之御家来中五人者、御誕生以来此節ニ至、
                 心痛之事共誠に難尽筆紙儀共砕肝胆、不義・忠義之
                 境、難顕筆語、委事口伝、五人之百姓同様ニ江戸表
                 え御供仕、・・・・」

             上記の原文内容を、記述せずに、「喜連川騒動の顛末」では、

             「これに密かに従う者には、同心富川定右衛門、星作右衛門
              恩田新左衛門、高塩清左衛門、高橋善左衛門、草履取り十
              三郎ら六人が選ばれている。
              罪の及ぶことを恐れた高瀧、武田両名のほか二階堂又市も
              も出奔している。」

             と上記の原文記述が省かれて記述されています。

              これは、昭和52年の「喜連川騒動の顛末」の筆者が「尊信が正常
             であり偽発狂であった。」とし、一色刑部等三家老達を彼の意図する
             目的(歪曲)のために、逆臣と仕立て上げ、高野・梶原等を忠臣とす
             る為には、この記述は都合が悪いので、あえて記述しなかったと思
             われます。

              しかも、原文にない昭和52年の『喜連川町誌』編纂協力者であっ
             た人物の姓「高塩」「高橋」をあてこんでいます。

              なんらかの裏付史料があったのでしょうが、「所左衛門」が抜けて
             おり、本来7名が6人になっています。

              また、二階堂又市はこの時は出奔していなかったことを記録した、
             『喜連川文書』の事件評定にかかわる、幕府老中達から、白河藩主
             榊原(松平)式部大輔忠次に宛てた三通の手紙が残されています。


             @ 「喜連川右兵衛督を押籠ているが、お付の者よりすぐに這い出
               てしまうと申しており、今程も出てきてしまった。
               といってきている。
               先如(さきのごとく)前々押籠、番の者に堅付置(かたくつけおい
               ている)のだが、彼家来(尊信の家来?あの家来)ではなく、貴殿
               の家来を一人當地(喜連川)へやってもらいたいので書付致す。」
               恐々謹言
                                       阿部豊後守(忠秋)
               (慶安元年)九月七日
                                       松平伊豆守(信綱)
                松平式部大輔殿(榊原忠次)


             A 「喜連川右兵衛の家来、二階堂を(江戸に)召寄せているので
               、主殿は不有候(いないので)、だれでも似合いの者を一人(喜
               連川に)参らせるように申し遺(のこ)す。」
               恐々謹言
                                       阿部対馬守(重次)
               (慶安元年)九月十二日
                                       松平伊豆守(信綱)
                松平式部大輔殿(榊原忠次)


             B 「喜連川右兵衛督(尊信)のことであるが、狂乱であることは
                紛れないことで、これを隠しおいたことは不届きである。
                領地没収となるところではあるが、他家とは異なる義のこと
                であるので、ご赦免となった。
                息子の梅千代(昭氏)が幼少の間は、その方に万事まかせる
                ので、家来共と守り立てるようにとの(上様の)おうせであるの
                で、出てくるように。(登城するように。)
                つぎに、一色刑部・柴田久右衛門・伊賀金右衛門のことであ
                るが、右兵衛督(尊信)の乱心を隠しおき、江戸へ申し上げな
                かったことは曲事であると思い召くので、大嶋へ流罪とした。
                かの者と男子の分者、所々へ御預けとした。
                よって二階堂主殿は代替につき、その方へお預けとする。
                その意を得るように。  恐々謹言
                                        阿部対馬守(重次)
                (慶安元年)十一月十八日
                                        阿部豊後守(忠秋)
                                        松平伊豆守(信綱)
                松平式部大輔殿(榊原忠次)

                注)上記の幕府老中達は、二階堂が主犯の一人とするも、若年
                  (15歳)であり、高・梶原等にたばかれただけなので、一色刑
                  部等家老の男子同様、代替であるので松平忠次に預けたの
                  である。
                  「その意を得るように」は、二階堂又市に「武士としての本来
                  のあり方」を教育するよう依頼したのではなかったか?
                   当然、喜連川家には古河系家臣と小弓系家臣の融合とい
                  う課題が残っているので、古河系家臣の代表である三家老
                  の男子(代替)は他の彼等に縁有る譜代大名家へ、小弓系
                  (上総)家臣の代表格であるので、二階堂を近藩であり親藩
                  でもある榊原(松平)家へ預けたと推測ですが考えられ、これ
                  が幕府安泰の道理でもあると思えます。
                   つまり、関東公方家の本家家臣家をこれを機に分散させた
                  ともとれます。(幕府にとって古河系上級家臣を喜連川家から
                  分散させることは上策であると判断したのかもしれません。)



              上記の文書により、尊信の「狂乱」と幕府の「押籠」、そして二階堂
             主殿(又市15歳)が評定所に召寄せられていることを示す手紙が白河
             藩主松平(榊原)忠次に宛てられていることが解ります。

              そして、九月七日の文書から始まる3通の手紙の日付に注目したい。
             この『喜連川家由緒書』では、これより下の記述になりますが、

              「万姫から評定結果の報告書が江戸から喜連川に届けられ、
               七月二十五日には到着したので尊信は座敷牢から開放された」

             と記述されていますが、この手紙はこの『喜連川家由緒書』の

                @ 幕府評定の終了日
                   七月二十五日に報告書が届くということは、徒歩による江戸
                   から喜連川までの所要日数は3〜4日であることから、飛脚
                   早馬の使用も考慮すると七月二十一日〜二十三日)

                A 尊信のいわれない押籠(正常な尊信の押籠)

                B 上記の尊信の押籠の間(部屋)からの開放

                C 二階堂主殿又市の本多能登守(忠義)へのお預け

              などの五人の百姓が万姫に従い評定所にいたという記述を完全に
             否定する本物の花押付きの歴史的に価値のある一次史料なのです。

              また、「二階堂主殿(又市)にも幕府の詮議の目が向けられ、江戸
             に呼び出され喜連川には、いないと読み取れます。

              また、喜連川尊信が江戸で「押籠」となっているようにも取れる
             記述ではありますが、「狂乱中」の尊信を江戸に招くことは考えずら
             いので、當地=喜連川と訳しました。

              よって、二階堂は江戸に「召寄」ですので、喜連川には不有=
             「いない」と訳すのが正解です。不有を「ダメ」と訳すのは意図を
             もった強引な訳になります。

              もっとも、尊信が江戸で「押籠」であれば、幕府の処置ですので、
             彼の「狂乱」は奥州街道を始め、江戸の多くの人々に見せしめられ
             たことになり、現実的ではありません。

              そして、話を戻しますが、『喜連川家由緒書』原文に記述された
             ように、生誕以来、尊信を見て来た、この5名の家臣が不義か
             忠義か悩んだ原因は、どう彼等5人から見ても藩主尊信は「狂乱」
             であり、自分達の行動は尊信を隠居に貶め、藩主尊信の「狂乱」を
             世間に知らしめることであることも理解していたのである。)

        *翻訳を再開します。



      江戸へのお供の者どもを成敗すべく、家老達の命令により大勢の同心が差し
      出され、(国)境にみな打ち放たれたようで、その様子を聞かされました。

      親類共からも人が出されたので知りえたことだそうです。

      途中で、この場を逃れた方が良い(領内には入らない方が良い)と一同相談し
      逃れたと申していました。

      重三郎は、その様子をしらずに帰り、国許に入ってから様子を知り、蓮光院へ
      駆け込んだところ、許されることなく成敗されました。

      江戸表においては、(高野)修理殿・(梶原)平右衛門殿・五人の百姓は御万姫
      様に付き添い、御老中は酒井雅楽頭(忠清)様・松平伊豆守様・土井大炊頭様
      ・阿部豊後守(忠秋)様が審議評定を担当され、評定所役人には酒井紀伊守(
      忠吉)様・杉浦内蔵充(正友)様・曽根源左衛門(吉次)様・伊丹順斎(康勝)様
      でした。

      (注、酒井雅楽頭(忠清)とあるが、彼が老中となったのは四代徳川家綱体制
         の時で、承応二年(1653)六月のことです。

          この時期なら大老の「酒井讃岐守忠勝」ですね。酒井雅楽頭忠清は
         下馬将軍といわれ有名人物ですが三代徳川家光の時代はまだ若年寄
         です。

         また、彼の祖父である酒井雅楽頭忠世と忠行は寛永13年(1633年)に
         相次いで死去しており彼を補佐したのが同族である酒井讃岐守忠勝な
         のです。

          さらに、土井大炊頭といえば当時の古河藩主土井利勝のことですが、
         彼が初代大老であり、老中引退後の名誉職ですが幕府に大事があった
         時出馬し大老としての役を果たしますが現役大老酒井忠勝の上位格です。

          しかも、すでに寛永二十一年(1644)六月に高齢と病にて死去した人物
         です。(徳川家康の隠し子とされる人物です)

          この事件評定は慶安元年(1648)の出来事ですので、ここで彼が登場
         することは、許されない執筆者の追加人物となります。

         つまり、この老中の記録も改ざんであり間違っている。

          また、余談かもしれませんが酒井紀伊守(忠吉)は酒井忠勝の弟で彼
         の娘は吉良若狭守(義冬)の子、あの「元禄忠臣蔵」で有名な吉良上野
         介義央の正室です。

          当然、吉良家から喜連川家と一色家は同族(親族)であるので、”よろ
         しく”、と頼まれていたことは、察しえることです。)

        *翻訳を再開します。



      御一門の方では、榊原式部大輔(康政)様・島田丹波守様が出られ、江戸
      御手引きは早川内膳正様・今川刑部(高如)様・吉良若狭守(義冬)様で
      評定所役人の一人、杉浦内蔵充様へ御万姫様から委細を話されました。

       (注、 上記の「御一門の方」の件ですが、今川刑部(高如)・吉良紀伊守
         (義冬)が一門で、酒井讃岐守忠勝と酒井紀伊守(忠吉)が吉良家との
         婚姻によって、また白河藩主榊原式部大輔(康政)の娘が事件の焦点
         である三代喜連川尊信の実母であるので康政の子の忠次(養子)の
         計3名が姻戚関係となります。

          本来「御一門」とは男系で考えるもので、「ひとつの門から出た家」の
         ことです。源義家を祖とする足利家系図を参照。

          よって、事件の被告となる家老一色刑部・一色左京・石堂八郎(刑部
         の三男)も当然、この「御一門」になります。

          また、この『喜連川家由緒書』の記述にはありませんが、一色刑部の
         長男(側妻の子)相木与右衛門も「御一門」となります。

          左京・八郎は筆頭家老一色刑部の正妻の子です。『及聞秘録』

          そして、榊原式部大輔(康政)の死去年は慶長十一年(1606)五月十
         四日で、この評定の42年前ですので、ここに登場し得ません。

          これは、喜連川町史編纂委員会の編纂者のミスで、この時(1648年)
         の白河藩主は榊原(松平)式部大輔忠次です。『喜連川文書』・『徳川
         実紀』・『寛政重修諸家譜』参照

          そして、この『喜連川家由緒書』の執筆者が、喜連川藩内の人物であっ
         たことは否定できないが、

            @ 筆者が本当に、この時期の人物であったのか。

            A また、筆者が五人の百姓の一人であるなら、本当にこの評定の
              場に参加していたのかが疑われることになります。)

          このへんの疑問は、以後のこの『喜連川家由緒書』の記述と昭和52年
          の「喜連川騒動の顛末」の筆者の記述にある万姫のこの時の年齢の
          矛盾と4代昭氏のこの時の年齢7歳から、解消することができ、後で
          記述する私の注意書きで解説します。

       *翻訳を再開します。



      (高野)修理殿は池之端の町名主の家にお預けとなり、(梶原)平右衛門殿は
      御旗本衆へお預けとなりました。

      尊信公も心配なされてか、御飛脚同心の覚左衛門を江戸に登りつかわされま
      したが御万姫様と五人の付き添いの者は御評定所役人の酒井紀伊守様・杉
      浦内蔵充様・曽根源左衛様・伊丹順斎様にお預かりであったので、覚左衛門
      は町家にて評定を待つことになりました。

       (注、ここで、「尊信から飛脚同心の覚左衛門が江戸に登り使わされた」
          とあります。

          先の記述の中で喜連川における尊信派は二階堂又市をはじめ皆、出奔
          していることが記録されていました。それでは、いかにして押籠中の尊信
          が覚左衛門を江戸にやることが出来たのかを、疑問点として、上げなけれ
          ばなりません。万姫のお供を勤めた草履取りの重三郎が切捨てられる
          ほどの警戒の中です。

       *翻訳を再開します。



      同年(慶安元年1648)七月十一日喜連川へ幕府も御上使の御三人が下向し、
      同十三日お着きになり、甲斐庄喜右衛門様・野々村新兵衛様・加々爪弥兵衛
      様の御宿は慈光寺と源左衛門宅と新左衛門宅でご馳走人(接待役)は、黒駒
      七左衛門殿・渋江甚左衛門殿・大草四郎左衛門殿で同十七日に喜連川を
      お発ちになられました。

       (注、ここで、昭和52年発刊の『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」では

         「幕府の監査官を迎えての一色刑部の胸中はいかばかりであったか」

         と、高野修理と梶原平右衛門等をヒーローに仕立てたい、昭和52年の
         喜連川町の筆者のよけいな一言が入ります。

          なを、高四郎左衛門と梶原平右衛門の一族は、事件以後、喜連川領を
         離れたようで、旧喜連川町においても存在しない家です。
         喜連川足利家家臣(古河・上総の名跡)の家禄&役責取り決めを参照
         ください。(高家も梶原家も足利家譜代家臣家です)

          また、上記御上使の一人、甲斐庄喜右衛門はあの楠木正成の末孫と
         いわれている人物ですが、この時期は長崎奉行で有名人です。
         さらに、野々村新兵衛はわかりませんが、加々爪弥兵衛ですが、この時
         の大目付「加賀爪民部少輔忠澄」または、関係者とも思われます。
          しかし、この「喜連川御家由縁書」が書かれた寛文十一年の3年前、
         寛文八年に徳川家光の十七回忌があり、昭氏は家臣の三浦采女を連れ
         て江戸に出ており、この時の案内役の一人に加々爪甲斐守(社寺奉行)
         がいたことが、龍光院の古文書に記されています。
          さては、この「喜連川御家由縁書」の筆者は、このことを江戸で知っており
         、彼の名から加々爪弥兵衛と甲斐庄喜右兵衛門の名を思いつくままに記録
         したのでしょうか?

          つまり、平成19年3月に発刊された『喜連川町史』第三巻資料編3近世
         に同じく載せられた『喜連川義氏家譜』に事件記述が残されておりますが
         、この時の御上使とは、御目付のことで

          「御目付花房勘右衛門(正盛)と三宅大兵衛の二名を遣わされ乱心(発狂)
          の尊信は咎められた。」(概略)

          と記録されており、花房勘右衛門(目付)の前職は佐渡奉行で実在の人物
         です。

          この「喜連川御家由縁書」に記録された御上使3名が記録されてないこと
         から、この筆者おそらく飯島平左衛門(旧姓佐野越後)かその子孫と思われ
         るが、大物起用が好きなようで、おなじく矛盾を起こした評定所の老中達の
         面々もそうでしたね。つまり、改ざんです。

          そもそも、「御上使」とは、将軍と幕府の決定事項を伝える役目で、
         この場合は、調査役ですから大目付配下の「目付」が正しいと思われ、人選
         も妥当かと思います。昭和52年「喜連川騒動の顛末」の記述にある、御上使
         を接待した宿の話も目付2名であったので、昭和の筆者の創作話ですね。

         そして、この「喜連川義氏家譜」では万姫の活躍はどこにも記録されていま
         せん、「万姫による直訴の真偽」も問われる所です。

         また、『喜連川文書』には幕府老中から榊原忠次へ宛てた3通の連書
         載せられていますが、ここでも尊信の「発狂」の事実が記録されている。)

         そして、徳川家光の日記で『徳川実紀』の「大猷院殿の実紀」には

          慶安元年七月三日条

            「喜連川右兵衛督尊信病に伏しければ、老臣の沙汰として、松平
             式部□輔忠次が家医、関ト養をして治療せしむ。」

         と記録されています。この日付は、上記の幕府の目付けを喜連川に下向
         させた8日前の記録です。

          すなわち、喜連川尊信の「狂乱」は、御目付だけが確認したわけではな
         く、松平(榊原)式部大輔忠次を通して、将軍と老中達は、御目付二人の
         報告より先に知っていたことになります。

          そして、この日記で「狂乱」の文字を使わなかった理由は、この時代の
         喜連川家は、武家の棟梁、源義家の子である源(足利)義国の流れで
         清和源氏(河内源氏)の嫡流であり、系図では徳川家の本家になるので、
         喜連川家に気使い「狂乱」の文字を使わなかったといえます。

          また、記録中の「老臣の沙汰」ですが、この場合「幕府老中の沙汰」とな
         ります。

         これは、松平忠次とは、榊原式部大輔忠次のことで、徳川家四天王家の
         榊原家に養子に入った人物で、徳川家康の姪の子であるので、松平姓も
         名乗っているので、「松平式部大輔忠次が家医」なのです。

          そして、彼に沙汰を出せるのは、将軍か幕府老中以外は存在しないの
         で、この記録の「老臣の沙汰」は「幕府老中の沙汰」となるのです。

          すなわち、喜連川への目付の下向は、形式であり、実はこれより前から
         喜連川家(一色刑部等三家老)と幕府との情報交換がなされていたことに
         なります。

         この辺の事情が、前述の喜連川藩内の直訴に加担した家臣達の出奔
         (領外へ逃げること)につながったのではなたったか?)

          最後に、いつ頃から、五人の百姓と浪人高野修理(高四郎左衛門)の
         直訴について、幕府は喜連川家との連絡を取りだしたのか?についてで
         すが。

          これは、上記の慶安元年春の万姫が江戸に登る前であると推定して
         います。

          なぜなら、この『喜連川家由緒書』の記述では、この年の4代昭氏の
         年齢を曖昧にしていることと、この古文書の最後の文書で、万姫の歳を
         七歳としていること、そして昭和52年の筆者は、この記述を知りながら
         万姫の歳を”十歳”と歪曲していることから推定できるのです。
         (「喜連川騒動の顛末」で確認下さい。)

          すなわち、4代昭氏の年齢と万姫の年齢が同じ7歳の時の事件評定と
         なるのですが、この『喜連川家由緒書』の記述のイメージでは、万姫の方
         が年上なので、尊信の名代として、江戸に登ったようになっており、昭和
         52年の筆者は、万姫の歳を10歳と歪曲することで、当然であるかのように
         読者の理解を誘導していると思われること。

          そして、私が先述した、五人の百姓が持参した「尊信の書付」と提出した
         「五人の由緒書」により、前年の正保四年八月にて直訴が十分成立してい
         ることです。

          これにより、幕府内では、外様ではあるが、旧将軍家の末裔であり徳川
         家の客分大名である喜連川家をどうしたものかと、困窮したことは察しえる
         ことで、そのため、この慶安元年春に幕府から、

          「昨年八月に、五人の百姓と高四郎左衛門から尊信の押籠の件で控訴
           があったので、その真偽について江戸にて吟味するので出向くように」

         と通達があったが、この時代は男社会でもあり尊信の名代は本来嫡子で
         ある昭氏となるが、幕府からの通達では、

          「喜連川家は特別であるので、取潰しまでは考えていない。よって、4代
          となるべき嫡子(昭氏)から評定所にて訴えの真偽を聞くようなことは出
          来ないので、万姫をよこすように。」

         と連絡があったのではなかったか。と推察できる。

          であれば、この慶安元年の評定には、五人の百姓が付いて行く必要は
         なく、万姫達の江戸行きは、公のものであり、お付の家臣達は、役務として
         これに従っただけであったので、喜連川家の罪人であるはずもなく、彼等の
         子孫を代々喜連川家家臣として残すことができた。

             @ 喜連川足利家臣団の家禄&役責取り決め(『喜連川町誌』)
             A 『喜連川家分別帳』(『喜連川町史』第三巻資料編3近世)
              を参照すると多くの子孫が藩内の家臣として残っています。

          当然、五人の百姓は、この時、危険を感じ取り、武田・高瀧同様に領外に
         家族を引き連れ逃亡し江戸に潜んで、評定の様子を外から伺っていたので
         はなかったのかという疑惑が発生します。

          そして、このことは、この前後の記述にある

             @ 万姫のスムーズな帰国(お供を伴っての安全な帰国)
             A 五人の百姓達の家族を伴った、領外への逃亡。
             B 正保四年〜慶安元年春の直訴(控訴)加担者達(梶原・武田・
                猪野・高瀧・高瀬)の領外への逃亡・(浪人と記述されている。)

          など、すべて理解できる記述となります。

          さらに、この『喜連川家由緒書』の記述で、万姫に従って幕府評定に参加
         していたはずの、筆者自身である「五人の百姓達」が、評定所での登場人
         物達の顔ぶれや、事件評定の終了日と3代尊信の「押籠」からの開放など
         多くの矛盾を示す記録を残していることも、このことにより、全ての辻褄が合
         って来るのです。

          すなわち、五人の百姓の幕府への直訴は正保四年八月の一度だけであ
         って、その時すでに、喜連川から家族を呼び出し、江戸に潜伏していたので
         万姫の女籠と行列を確認するだけで、お供の家臣の姓名や帰国日、そして
         江戸での滞在先の記述には矛盾が発生することなく書かれているが、幕府
         が喜連川に遣わした御上使(目付)の姓名や二階堂主殿の預先と万姫が国
         元に送った御奉書の到着日には矛盾を起こしたと判断できる。

          当然、事件後の新家老の姓名などは、20年後に喜連川に帰った時でも
         十分に確認できることです。

          そして、三家老の伊豆大島流刑も評定後に江戸でも喜連川でも確認でき
         るが、三家老の家族(男子)達の預け先は、わからないので、適当に「大名
         家・旗本家へお預け」と記録した。(実は、皆大名家です。)『及聞秘録』



       *長くなりましたが翻訳を再開します。


      よって、江戸表にて御万姫君様・五人の者は度々召しだされ、御評定所に
      て尋ねられたので、国元の様子を残さず申し上げました。

      御上使様よりも、相違ないことが報告されたので喜連川家御家老の一色刑部
      殿・御子息左京殿・石堂八郎殿・伊賀金右衛門殿・御子息宗蔵殿・柴田久
      右衛門殿には伊豆の大嶋へ流人のおうせつけがありました。

      御子息方は御大名家・御旗本方へお預けにあいなりました。

      この節、二階堂家の義のお尋ねがあったので、若年であるむねを申し上げま
      したが、若年で十五歳とはいえ家柄であるので、この度のことは不行届の件
      であるので、白河城主本多能登守(忠義)様へお預けにあいなり、御付の同
      心の金平も一緒におおせつかりました。

       (注、 ここで問題となるのが@御上使の報告内容と判決、とA二階堂又市
          (15歳)の預け先と、Bこの評定所における二階堂主殿又市の存在の
          是非です。


          @幕府御上使の報告内容と判決の件

           まず、御上使の報告では「尊信の狂乱は間違いございません。」で
           あるものが、「相違ない」という表現で歪曲されています。

            そして、高野修理(高四郎左衛門)と梶原平右衛門は、この評定に
           呼出されており、御上使の報告内容から事実を問われ、白状した為に
           大嶋に流刑になっています。『寛政重修諸家譜』より。

            一色刑部等三家老は、徳川家光の十三回忌の時(1663年ごろ)に
           許され、その男子は皆主持で再興されて、一色左京は、岡崎の水野
           監物家(岡崎藩五万石)にて百人扶持、客分扱いと記録されています。
            この水野家とは特別な譜代大名家で徳川家康の生母「お大の方」の
           生家です。『及聞秘録』参照

            喜連川家とは異なり、一般大名家で百人扶持は石高に直しますと、
           二千石〜二千五百石となります。一色家の家格からいえば、これでも
           少ないくらいですが、喜連川時代の二百石から比べれば、幕府の意向
           も感じられます。

            岡崎水野家は五万石譜代ですので、客分扱いであることを考慮する
           とかなり現実的な数字か思います。

           実際十万石格の大名家の家老は、一万石台の大名格の者もざらです
           ので当然といえます。

            また、高(修理介)四郎左衛門・梶原平右衛門が許されたという記録
           は現在の所ありませんので実質、終身刑であったと思われます。

            二階堂主殿又市は、この記述のあとに記録されていますが、白河藩
           から帰参したのは寛文十一年(1671)ですので、事件評定の23年後
           ですので一色刑部等より十年遅く許されたのです。

            一方、昭和52年の『喜連川町誌』の年表では、

              「寛文二年(1663) 二階堂又市帰参し主殿と改む」

            とありますが、この出典が示されていない。

            『及聞秘録』の記述では三家老に二階堂主殿が入っており、男子は
           白川城主本多能登守に預けられたとあり、上記の通りともとれ、

            「三家老は徳川家光の十三回忌(1662〜3年)の時、許され、三家老
           は皆老人だったので、大嶋にて病にて皆死去したが、その男子は皆、
           主取りとして幕府により再興された。」

            と記録されていますので、これが出典であるとすると、昭和52年の
           『喜連川町誌』の年表での矛盾と「喜連川騒動の顛末」の筆者の歪曲
           疑惑が色濃いものとなります。

            すなわち、『及聞秘録』『喜連川義氏家譜』の記録を参照していな
           ながら、それでも筆者は、自分の都合で「五人の百姓」と”高野修理”、
           そして、二階堂主殿又市を事件のヒーローに仕立てたかったことになり
           ます。(上記の二つの文書では、高・梶原は喜連川家から追放した逆臣
           として記録されています。「尊信ははずかしめられた。」)


          A 二階堂又市の本当の預先ですが、前にも述べましたが

           この時の白河藩主は榊原式部大輔忠次(任期は1651年6月迄)で
           、次は播磨姫路藩に転封となったのです。

            また、本多能登守忠義は、この時はまだ、播磨姫路藩主(任期は
           1651年6月迄)で、次が奥州白河藩の転封となりました。

            すなわち、本多能登守忠義が白河藩主となったのは1651年6月から
           ですので、前任の榊原(松平)式部大輔忠次から白河藩主と二階堂
           又市「お預かり」と4代昭氏(この時は9歳)の後見の幕命を引き継いだ
           のです。『寛政重修諸家譜』『喜連川文書』を参照。

            なお、『及聞秘録』の記述の間違いは、あくまで及聞ですので、この
           場合は、許される間違いです。

            二階堂主殿が白河城主本多能登守から帰参したことは事実ですので
           、江戸の作者はそう思ったのでしょう。

            一方、この『喜連川由緒書』の筆者である、五人の百姓の場合は、
           喜連川家に許され褒美ももらい喜連川に戻っていた時に、当然二階堂
           主殿の白河藩からの帰参は確認できます。しかし、幕府評定当時、彼
           等は、藩の「おたずね者」であったので、二階堂の最初の預かり先のこ
           とは、知らなくて当然であった。

         B 二階堂主殿又市の江戸評定所での存在は、先に私が示した「3通の
           幕府老中達から松平(榊原)忠次に宛てた手紙」『喜連川文書』により
           確定しています。

            しかし、この『喜連川家由緒書』の五人の百姓の記述では、この評定
           の場には、いないような記述をしています。

            そして、なぜ事件評定所で万姫に付添った五人の百姓の連判である
           『喜連川家由縁書』において、当時者と語る本人達が、この様な誤りを
           記述したのかは、当然、問われなければならない。おそらく、五人の百
           姓は万姫に付き添っていなかったと判断できます。つまり、万姫は直訴
           の為に江戸に出てきたのではなかったことが疑われる。

            『及聞秘録』の筆者のように、第三者が記録した文献なら許されます
           が。)

        *長くなりましたが翻訳を再開します。



     御万姫君様には五人の者が付添い、世話になった御老中・御一門・御評定所
     役人の宅へ御礼廻りをされるので、御国元には御奉書(報告書)を送り、七月
     二十五日には、この御奉書は届きました。

     尊信公様は押込の間(部屋)から開放されました。その節、御家老には黒駒
     七左衛門様・大草四郎右衛門様・渋江甚左衛門様がなりました。

      (注、ここで@「尊信公様は押込めの間から開放されました。」とありまた、
         A「万姫が事件評定終了後に、国元に御奉書を送り、七月二十五日には
         届いた」という記述されていますが、この記述も、歪曲といえます。


        @「尊信様は押込めの間から開放されました。」の件

         『喜連川文書』では、幕府の担当老中達から喜連川家親族である白河
         藩主榊原式部大輔(松平忠次)宛ての、幕府老中二人から連判で、慶安
         元年九月七日と同年九月十二日に、二通の手紙が掲載されており、この
         概要は、

          「右兵衛督(尊信)の狂乱は相違なく、番の者が何度も押籠ているが、
           破り出てしまうので、だれか相応の者を一人よこすように」

         と記述されています。

          この手紙から解るように、尊信の狂乱は事実であり、当然幕府評定が
         終了したからといつて、上記の記述のように彼が開放されることは考え
         られないことです。

          とはいえ前述でものべましたが、次男氏信をこの時、正室との間で仲
         むつまじく作っていますので、一色刑部等三家老による寛永八年(1641)
         の押籠時から変わらない緩やかな押籠が尊信の承応二年(1652年)の
         死去日まで十一年に渡り続けられたことは察し得ることです。


       A 「事件評定終了後、江戸から万姫が出した御奉書」の件

          『喜連川文書』の記述は、上記の、幕府評定後の五人の百姓の記述で
         ある、

           「万姫様は御国元には御奉書を送り七月二十五日には、この御奉書は
            届きました。尊信公様は押込めの間(部屋)から開放されました。」

         の記述を完全否定しています。

          なぜなら、『喜連川文書』には、幕府老中から榊原忠次に宛てた、3通の
         の手紙が掲載されており、三代尊信の「押籠中」の様子や番人の交代要請
         と幕府評定結果が記述されており、日付は、「九月七日」・「九月十二日」・
         「十一月十八日」の日付の3通だからです。

          すなわち、この3通目の手紙の日付が評定終了日だということです。

          このことにより、「五人の百姓」は、江戸に潜伏して、喜連川家の万姫の
         輿の行列を伺っていただけで、以下の記述の「万姫の帰国」は確認でき
         たので、記述に矛盾が起きなかったと判断できます。

          当然、御付の家臣達がだれであったかは、「輿の行列」を見れば確認で
         きたはずです。

          しかし、武田・高瀧・高瀬などの直訴加担者同様に、「おたずね者」の身で
         あるので当然幕府評定には参加しておらず、想像にて記述したため、幕府
         の評定所メンバーの記述に矛盾を起こしたとすれば理解できる記述です。

          また、3通の手紙は江戸城から江戸白河藩本邸に送られたものと解釈で
         きる。(榊原忠次は一般的譜代大名ですので参勤交代の任があり、当然
         江戸藩邸にて、喜連川家の親族として評定成り行きや結果に係わったはず
         です。)


       *翻訳を再開します。


     御付けの諸士と五人の者は御万姫様のお共をし、十一月二十六日に帰国の徒
     に付きましたが、途中一色殿・伊賀殿・柴田殿の申し置きを得た、同心達が登っ
     てきていることを追々お味方の者より内々で聞いていたので、帰国の徒も心もと
     なかった。

     そこで、五人の者は相談して先に重ねた御用も首尾良くつとめたことでもあるの
     で、右の心配事もいずれ晴れると存じるゆえ、家内を召き連れ一家共々領外に
     逃れていたところ、御上意にて早々に帰るよう再三の命令もありました。

     しかし、一色殿・伊賀殿・柴田殿に加担の者が両三人も残っていることを知って
     いるので、心もとなく帰れないと申し上げていたので、上様(尊信)には不届きと
     思われたでしょうが、仕方なく帰国は引き延ばしていました。

       (注、ここで注意すべき疑問点は二つで、

          @ 万姫が国境から城下までどうやって帰ったのかということです。

           お供の諸士も五人の百姓も国境で三家老の依命を受けた家臣達に
          命を狙われていたので帰国はしていないと記述されています。

           小藩ですので城下も小さく、当然五人の百姓の家は同心達の待ち
          伏せポイントとなり見張りも強固となっていたはずです。万姫(七歳)
          が国境から一人で城まで帰っていったとでもいうのでしょうか?

           また、

          A なぜ、五人の百姓がここで命を狙われねばならなかったのかで
            す。

           先の記述で、幕府の評定結果は万姫・二階堂・高・梶原・武田・猪
          野・高瀧・高瀬・小関・五人の百姓等の完全勝訴であり、国許には
          万姫の勝訴報告(御奉書)が飛脚同心覚左衛門により4ヶ月前の、
          七月二十四日には届いていたと記述されているのにです

           当然、ここで百姓達とお供の諸士の命を狙う藩士がいるとすれば、
          このことは、お上(幕府)に弓引く者となり、当時の大罪人となるわけ
          で、この記述の裏には、記述されていない事件評定の真実が隠され
          ていることになります。

           すなわち、「五人の百姓」を含め、一色刑部等三家老を幕府に直訴
          することに加担した家臣達は皆、喜連川家の「おたずね者」となって
          いたことが、ここでも理解できます。

           このことは、以降の五人の百姓の行動と他の記述にもあらわされて
          います。

           なを、上記の直訴連判者の内、小関に関しては、慶安元年春より
          前に連判の仲間から抜けていたようです。

          天保十三年の 喜連川足利家臣団の家禄&役責取り決め(『喜連川
          町誌』に載せられた資料)では、この子孫と思われる人物「小関延射」
          家格給人22石、嫡子格近習、として、喜連川藩としては上級家臣格で
          記録されています。

          当然、最後まで直訴派であり、幕府や喜連川家に咎められた高、梶原
          、武田、猪野、高瀧、高瀬の姓を名乗る人物はこの一覧には記録されて
          いません。

       *翻訳を再開します。



     梅千代様が御七歳の時、左兵衛督昭氏公と申し上げました。江戸表へお登り
     あそばれて、御共には大草四郎右衛門様で御老中に挨拶に廻られました。

     (この節より?)尊信公様は江戸の御参府することはなく、これより(四代?)
     昭氏公様の御代に相(あい)なりました。

       (注、「四代昭氏の相続年」の件ですが、この『喜連川家由緒書』の冒頭
          部分で、「寛永拾九年(1642)に左兵衛督(昭氏)様が御誕生になら
          れ遊ばれそうろう。」と筆者は記述しており、ここで七歳で相続の記述
          がされているので、1642年の7年後、の1649年(慶安二年)に相続
          があったことを、筆者自身がこころならずも示している。

           そして、幕府が一色刑部ら三家老を大嶋に流した日付けは慶安
          元年12月22日ですので、実質慶安二年の執行となります。

           3代尊信へのお咎め(隠居)も同時に行われたことは推定できます
          ので、ここで筆者は自分達の直訴により藩主尊信の隠居(当時27〜
          28歳)を暗示したことになります。

           繰り返します。筆者が文中で「発狂ではなく正常であった。」として
          いる、若い3代尊信(27〜28歳)が直訴事件のために隠居させられ、
          以下の記述で、その2年後に尊信は死去したことが示されています。

       *翻訳を再開します。


     御万姫君様は佐久山の福原内記(資敏)様へお腰し入れされました。


     尊信公様は承応二年(1652年)三月十七日に死去されたので五人の者は
     領外に逃げていましたが城下の龍光院(喜連川家菩提寺)様へ出向き尊信
     様の御見送りをしたいむねを申し上げたくとも、先達ての江戸から帰国の際
     伊賀殿・一色殿・柴田殿の配下である者や同心の内の三名がいたので、
     沙汰を待たずに引き上げました。

     再三、帰参のおうせがあったが引き延ばしており、この節にいたって尊信
     公の見送りを願い出たが龍光院様からの沙汰は引き延ばしになっていま
     した。

     何としても尊信様の葬儀に参加したいので、私共は覚悟を決め、願いが届
     かぬ以上やむ終えないと、専念寺(昭氏の生母「欣浄院殿」の菩提寺)に
     出向いて剃髪し僧侶となつて龍光院様へあいつめ、御七日中には御焼香
     を済ませることができました。

                                       関  伊右衛門無心
                                       飯島平左衛門周良
                                       岡田助右衛門宗喜
                                       簗瀬長左衛門全久
                                       金子半左衛門清庵

        (注、ここでの問題は、忠義の百姓であるはずの彼らがなぜ3代尊信の
           葬儀に、坊主に化けなければ参加できなかったのか?です。

            いかに一色刑部等の三家老に味方した家臣が残っていたとしても、
           五人の百姓達が喜連川家にとって「忠義の士」であるならば、如何な
           る家臣であろうと葬儀という公的な場ですので、当然人目も多い所で
           もあります。

            よって、彼等を捕らえ殺害する者など現れるはずもなく彼等は3代
           尊信の葬儀に、なんの問題もなく堂々と参列できたはずではなかった
           か?

            すなわち、喜連川家の彼等への意向は幕府へ3代尊信の狂乱を知
           らせ、かつ隠居に貶め、足利家の威光と藩と3代尊信の名誉を守ろう
           とした、足利家の親族一色刑部と忠臣であった家老達を大嶋に流させ
           た、しかも足利家の威信を辱め、多くの喜連川家家臣達の生活を揺る
           がすことになりかねない直訴行動をとった逆臣達(高・梶原)に加担し
           た憎き百姓共であったことが暗示されているのです。

            しかし、喜連川家からの「おたずね者」として扱われていることを、
           「再三の帰参のおうせ」と表現し記述するところは、意気な表現では
           あります。

            物事の善悪は何時の時代でも同じという考えは誤りなのです。

            この時代は、武家社会です。いかなる藩主個人にも忠義を尽くすこと
           が正しいことではなく、その主家の安泰と繁栄の為に忠義をつくすこと
           が正しい武家のありかたであり、そのことが主家に仕える多くの家臣達
           と家族の生活を守るすべだったのです。

            「元禄忠臣蔵」における大石内蔵助の行動からも解るように、幕府が
             浅野家再興をいかなる形であれ、実現していたのであれば赤穂浪
             士の討ち入り事件は歴史には存在しなかったでしょう。

            なぜか、「狂える名君」「喜連川騒動の顛末」では、この記述には
           ふれていません。

            この暗示に、事件の三家老を逆臣として描いた明治44年と昭和52年
           の喜連川町の執筆者達は気付いていたのかもしれません。)

       *翻訳を再開します。


    右の者共に御老中から御内意がありました。那須雲巌寺と森田の御領地で
    ある田野倉村の安楽寺の二寺から控訴がありました。この件を幕府が御聞
    済でないようで、やむなく明暦三年(1657年)に江戸へ登り松平伊豆守様へ
    伺いし御書付を頂いて来ました。

    万治四年(1661)にも書付にて控訴申し上げていたので、五人の者に寛文
    二年(1662)に帰参するよう藩からおうせつけがありました。


     (注、ここで注目すべき記述は、

        @ 上記の「右の者共に御老中から御内意がありました」です。

         電話も携帯電話もない時代です。居所を明確にできない藩の「おたずね
        者」である彼等がどうやって幕府老中と連絡を取れたのでしょうか?

         しかも、寺の揉めごとに老中の松平伊豆守が係わるとは?
         寺の問題は社寺奉行の職務で老中の管轄外ですよ。

        A これより後の記述で、一色刑部等三家老を幕府に控訴することに加担
          した家臣達への喜連川家の帰参命令が寛文八年(1668年)から次々と
         出されます。

        寛文 八年(1668)  事件の御共の諸士と同心衆への帰参命令。
        寛文 九年(1669)  高瀧六郎・高瀬九郎右衛門への帰参命令。
                      五人の百姓、尊信の法事にて褒美をもらう。
        寛文十一年(1671)  二階堂主殿、白河藩本田家から帰参

         解りやすく年表にすると上記のようになり、すべて慶安元年(1648)の
        直訴事件の20年後の記録です。

         帰参命令とは言い換えれば「罪を許す。」ということです。

        ここで、『及聞秘録』ですが、この文献には事件で大嶋に流した一色刑部
        等三家老とその男子達が徳川家光の十三回忌に許され、三家老は大嶋
        にて高齢であったので、皆病死してしまったので、それぞれの男子達を皆
        主取りとして再興させたと記録されていることです。

          徳川家光(大猷院殿)の死去年は慶安4年(1651)四月二十日であり
        単純にこの12〜13年後は西暦で1663年〜1664年になりますので、事件
        の約14〜15年後のことになります。

         そして、この4年から5年後の1668年から、上記の者達に喜連川家から
        帰参命令が出されたことが解ります。

         つまり、常識として「罪を罰する権利」と「罪を許す権利」は、「罪をおかさ
        れた者」にあるということです。

         このことは、一色刑部等三家老の流刑は、幕府の意向と命令によるもの
        ですので、彼等の罪は「幕府への罪」であり、主家である喜連川家への罪
        ではないのです。

         一色刑部は、古河足利氏女(姫)の菩提寺「徳源院」と喜連川家の
        菩提寺「龍光院」の双方で「翠竹院松山宗貞居士 一色刑部 明暦二年
        (1656)七月 伊豆大島にて逝く」と四代藩主喜連川昭氏公と同じ過去帳
        のぺージ(十一日の紙)に記録され葬られており、ここにも喜連川家の慶安
        元年の事件に対する意向が伺われます。
        *足利家の戒名を参照。

         そして、一色家の存在しない喜連川において、しかも足利家の二つの
        菩提寺で弔われ、「翠竹院松山宗貞居士」という、足利家伝来の戒名を
        付け、彼の墓石を立てたのは4代喜連川昭氏であったことが理解できる
        のです。

         一色刑部がもらった戒名「翠竹院松山宗貞居士」の「山」の位置です
        が、ここで山を使うのは、足利家男子の伝統の戒名なのです。

         当然、4代昭氏と和尚が相談して付けたものでしょう。

         また、一色刑部の嫡子、岡崎藩にて客分で再興された一色左京も、喜連
        川家の菩提寺「龍光院」にて葬られ一色刑部と共に石碑が立てられており
        彼の戒名は「、□□院道山松公居士」で、「山」の位置、「公」の位置は、や
        はり、足利家男子の伝統戒名のパターンになっています。一色家の墓参照

         一方、控訴に加担した者共を事件の20年後に許したのは喜連川家ですの
        で彼等の罪は「主家である喜連川家への罪」であったことも判明します。

         そしてもう一つ、ここで解ることは一色刑部等三家老が許された年
        (1663年)と控訴に加担した家臣が許された年の差は4年〜5年ですが、
        この差が、幕府の意向といえます。

         当然、刑期の長さが罪の重さですので、ここからも幕府と喜連川家の
        事件に関する考えが読みとれるのです。

         つまり、下記の「五人の百姓」の記述が真実であるなら幕府の意向では
        一色刑部ら三家老の罪より、若年の二階堂主殿の罪のほうが五年以上
        重かったことを示すことになります。

         さらに、四代昭氏の幕府への嘆願がなければ二階堂主殿は、いつ罪を
        ゆるされ帰参できたか解らなかったことが示されたといえます。

         どうゆうことでしょうか?これは、幕府は二階堂主殿が直訴派に加担して
        いたことを、評定所での吟味にて、知ったからとすれば理解できます。

         当然、二階堂主殿又市(15歳)が喜連川から江戸へ呼び出されたことは
        理解でき、この事実は、『喜連川文書』の榊原忠次への幕府老中達からの
        3通の手紙からも確認できる。

         一色刑部等三家老の罪は、『武家諸法度』にてらせば、不届けの罪であ
        るが、「本来の家臣のあり方」として、藩主尊信の「狂乱による押籠」を幕府
        へ知らせないことは、主家と家臣達を守る家老として当然のことであろう。

         「一色刑部等三家老達は、幕府のお咎め覚悟で主家と藩を守ろうとした。」

         そして、幕府老中達は幕臣の立場としては奨励はできないが、同じ武家の
        立場で考えるならば、一色刑部等三家老の行為は共感できる行為である。

         しかし、一方、二階堂主殿等の行為は、「本来の家臣のあり方」を考えると
        自己的であり、しかも、主家を守る重臣としては許しがたい行為である。

         「主家や藩のことよりも、自分達の自己的考えで偽りの直訴に至った」

         このような考えと行為を三家老達の罪より重く、罰せねば、幕府が全国の
        諸大名家からの反感をかう事にもなりかねない。

         しかも、幕府の安泰もないと、幕府老中達と将軍家光が判断したのではな
        かったか。

         よって、幕府によって処罰された主犯の老臣、高野修理(高四郎左衛門
        と梶原平右衛門は、大嶋での無期懲役で許されることはなかった。

         さらに、下記の「五人の百姓」の記述で尊信の法要に「五人の百姓」が招
        かれる訳ですが、これも寛文九年(1669)のことですので事件後20年の間
        彼等五人は喜連川家から許されていないことを示したことにになります。

         そして、同年の直訴に加担した、高瀧・高瀬の帰参の事実を確認してから
        、「五人の百姓」は、正保四年八月十日付けの「尊信の書付」の件もあり
        帰国の安全を確証したのではなかったか?

         最後に、喜連川家にとって「幕府に一色刑部等三家老を控訴した者」の
        処罰は「領外追放20年以上の刑」であったのです。

        この時、喜連川昭氏は27歳ですので、感情だけでない物事分別ができる
        人物となっていたことも読み取れます。

         つまり、この時期(1668年〜1671年)に

           @ 上司の命令で動き主犯では無かった者と

           A 主犯であっても当時は若年(15歳)で正しい判断が出来ずに、
              主犯の老臣高・梶原等に乗せられた二階堂又市が許された

         ことも、以後の「五人の百姓」の記述に示されたのです。)
         

      *長くなりましたが翻訳を再開します。



    事件の御共の諸士と同心衆の義にも同八年(1668)に帰参するよう藩からおうせ
    つけがありました。

    寛文九年(1669)三月十七日、瑞芳院殿(尊信)様の御法事の節、龍光院に(出
    向き)右兵衛督(尊信)様の御前にめしいでて、御見目(焼香)するようにおうせつ
    けられ、御流れを頂戴いたしました。

    そして、先祖の持分は御書付の通りで間違いないぞといわれ。その上先達っての
    江戸での控訴費用をいただき、逸見主計殿と海上九郎左衛門殿の御取次ぎによ
    り渡されました。

    また、当座の御褒美として一代(のみの)家臣の扶持をくだされ、果報者の子供に
    は籾(もみ)一俵をくだされました。

    右の件は、約束の褒美に重ねていただいたものです。

    寛文九年(1669)に高瀧六郎殿・高瀬九郎右衛門殿に帰参するよう藩からおうせ
    つけがありました。

    同十年(1670)五月二日、左兵衛督様(昭氏)が御遠行あそばされた時に、右の
    五人の百姓は、(昭氏と対面し)二階堂主殿殿様の御帰参を願い出たところ、御
    所様(昭氏)から御公儀様へお願いあそばし、大森信濃守(頼直)様の御取持ちに
    より同十一年(1671)に白河の城主本多能登守様より御帰参あそばされました。

    その節、葛城村の(飯島)平左衛門がお迎えに上がり、お供として帰ってきました。


     (注、五人の百姓の二階堂主殿の帰参願いの件ですが、上記の記述を否定する
        ものではないが、評定後の幕府の意向では二階堂主殿は、いずれ喜連川
        家に戻すことが決まっていたようです。

         『喜連川文書』の幕府老中達から白河藩主榊原式部大輔忠次に宛てた、
        評定後の手紙には、

         「然者二階堂は代替であるのでそのほうで預かることになった。」

        とあります。)

         また、五人の百姓が二階堂主殿の帰参を願い出たことだけが4代昭氏の
        幕府への二階堂主殿の帰参を願いにつながった直接の要因ではないと、
        私はにらんでいます。

         実は、寛文十年(1670)五月十四日は、4代昭氏の弟であり養子の氏信
        が死去しており、このことが、関係していると思われるのです。

         前にも述べましたが、弟氏信は、実は3代尊信の正室の子である可能性
        の件です。

         彼の生誕日は慶安三年生まれで二十一歳で死去しているのです。
         『足利義氏家譜』など足利家家譜より

         私は、彼は病死であると見ています。4代昭氏の実子菊千代は寛文四年
        (1664)五月四日に亡くなり、その後養子となったことが解ります。

         そして、寛文十年(1670)に病死したと考えると、この2〜3年前ごろから
        体調を壊し、闘病後の死去を考えた場合、そして、実は、氏信が正室の子
        であったと仮定した場合になりますが、

         4代昭氏体制の安定期は、氏信が病床についた寛文七年(1667)ぐらい
        からと想定されまます。

         そして、この『喜連川家由緒書』に記述された、喜連川家にとって慶安元
        年の幕府への直訴事件を引き起こした異端家臣達と五人の百姓に帰参命
        令(慶安元年の罪を許すこと)が出されたのが、この頃からになる訳です。

         忠臣であった三家老の家は、幕府により五年前に許され、しかも皆主持で
        再興されたこともあり、事件から約20年たつことでもあり、かつ藩内にはもう
        御家騒動の種はなくなっていた、そして

         「そもそもけしからぬ者共ではあったが、彼等の直訴があったればこそ、
          その結果ではあるが、今の自分があるのだ。」

        と4代昭氏は考えたのかもしれません。

         そして喜連川家は、まずは寛文九年(1669)に、二階堂の命令で動いた
        高滝・高瀬をゆるし帰参させ、次に「五人の百姓」を、狂乱中ではあったが、
        3代尊信の書付の件もあるので、彼等の褒章により、百姓としての生活基盤
        がたつものとなった。

         とするならば、これらの記録には信憑性もあり、『喜連川家分別帳』にも五
        人の百姓子孫と思われる姓を持つ家臣は、一人も確認できないので「一代
        限りの扶持」の記述も一応ではあるが確認でき、一部の直訴計画に加担し
        領外に逃亡していた家臣高瀧・高瀬の姓を名乗る家臣達の姓名が確認でき
        ますので、このへんの記述にも信憑性が確認できる。

         しかも彼等は皆、慶安元年の事件の経緯もあり、八石以下の下級家臣に
        成り下がっていることが確認できる。

         また、この『喜連川家分別帳』のには『長百姓姓名書上』に見られる高野
        加茂左衛門・高野鴨左衛門のいずれかの子孫と思われる厩番六石の高野
        久平・高野角平の二名の姓名も確認できる。

         上記二名は、旧塩谷家家臣であった者ですが、なんらかの理由で喜連川
        家家臣となったと思われます。

         この『喜連川家由緒書』の記述中の「高野修理」は、本来存在しない人物
        で、五人の百姓の誤記です。

         本来は、古河公方家御連判衆の一人、高大和守氏師の子か子孫の「高
        修理介(高四郎左衛門)」であるものを、耳にて「こうのどの」と聞いていたの
        で、「五人の百姓」の一人である、この『喜連川家由緒書』の執筆者は旧同
        寮であった旧塩谷家家臣、高野鴨左衛門等の姓「高野」と思い込み、彼を
        ”高野修理”と誤記するに至ったものと判断されます。

         武士が胸に名札を付ける訳もないので、やむおえない誤記であったと
        判断されます。

         なを、厩番の家臣としての格付は、草履取りと同格で、百姓や町人から
        選ばれた者です。奴(やっこ)と同格です。

         余談でした。



     *翻訳を再開します。



    右の一件のようなこともあって、後に御老中様方をはじめ御役人様方から
    右五人の者共は、士分の末とはもうせ、この度の勤功は一民間に落ちたと
    はいえ稀なる忠節の者たちであるとおほめあそばされ、松平伊豆守様より
    、「代々の末に至ってでもこの一紙を差出せば百石にて取り立てる」と書付
    をいただきました。

    帰国の途中に五人の者は色々評議し、もし子孫がこの書付をもって松平家
    に仕えたならば、年来の忠節も空となることが道理で、心得違いを起こす者
    もあろうと相談の上、栗橋川(利根川?)にて引きさいて流して捨てました。

     右の通り相違ないので、代々取り失うことの無いように所持いたすように、
    以上
                                      平三郎
                                        関  伊右衛門
                                      葛城
                                        飯島平左衛門
                                      同
                                        金子半左衛門
                                      小入
                                        岡田助右衛門
                                      東乙畑
                                        簗瀬長左衛門

      (注、ここで問題となるのが、明らかに、大名ごとの家政を知らない庶民(町人
         ・百姓)が喜びそうな、松平伊豆守から百石での仕官を約束する書付を
         捨てた件です。

          喜連川家の上級家臣の扶持は10〜200石で下級家臣の場合、これが
         3石から10石となります。同心だと5石〜8石です。

          映画「武士の一分」の主人公の家禄は30石でした。

          下男一人を雇い、妻一人を養い、日々の食事は芋がらの煮付けと味噌
         汁、そして白米です。

          よって10石以下だと下男を雇う余裕はなくなります。

          現代風に考えると、松平家に仕官なら年収360万円であったが忠節の
         ため喜連川家に年収36万円以下で仕官したことになります。

         事件から20年の間、喜連川家が彼等を許さなかったことを考慮する幕府
         の意向もあった為と推察できますので、これは明らかな筆者の自己防衛
         と仮装の記述であることが示されたことになる。

           とはいえ、この筆者は淡々と事件の同士達の帰参記録を残してしまう
         所は意外と生来の人格は正直なのかもしれません。)

      *翻訳を再開します。


  一、 由緒書を差出すようおうせられたので、書上げました。

  一、 塩谷家の縁家(親戚?)でございましたので、奥方の化粧免をいたしておりまし
     た。秀吉公おうせつけにより(古河公方家には)御世続がなく、上総(小弓御所
     )から現御家中が御引越しになり、塩谷家中は勝手次第で他領に出て行った者
     もありましたが関和泉(平三郎?)は一人在士として残るよおうせがありました。
     外の者共は他へ出て行く者も百姓となり家に残った者もあました。以上
                                      平三郎村
                                         関  伊右衛門

  一、 上総(小弓御所)から御引き払いの節、(塩谷家)家来の中で(領内に)残
     らなかった佐野信濃守の甥で佐野越後で身長六尺二分、大力で武芸が
     達者でしたので守り方をおおせつかり、塩谷家家来には、何処でも勝手
     次第と立退きをおおせつかったので、領外に出る者も百姓となる者もあっ
     たが塩谷の殿と対面することもなく百姓になってしまうことは腹立たしい
     ことなので、近くの村に居住したところ、那須家の浪人共がかたらる仇を
     なし居付百姓が難儀しており、古主ゆえ手向かうこともできないので、
     防方(用心棒?)をしてほしいとたのまれ防いでおりました。
     塩谷の殿に会いたくて、防方をいたしながら領地の仇をうっておりました。
     その時は入江左近と名乗っていました。
     その節、塩谷の殿と対面でき、近村におられ知らせずにいたそうです。
     小山判官の末で小山小三郎から当時常陸に居住しており、これにお越し
     くだされと申し出があったので、塩谷の殿の同道いたし常陸へお供して来
     ました。以上
                                      葛城村
                                         飯島平左衛門

      (注、この飯島平左衛門の由緒書きの冒頭の記述ですが、先に私が
         彼等の由緒を確認するために紹介した喜連川家領内の長百姓の
         一覧である『長百姓姓名書上』で記録されている関平三郎につい
         て、担当家臣が書残した記述に似ているようです。

          どういったことでしょうか?

         本来、この由緒記述は「関 伊右衛門」の物ではないのか?という
         疑いが浮かんでならない。

         どうやら、この『喜連川家由緒書』は、何時の時代かは解りません
         が、家の残された古文書を並べて、一つの文書に編集し直した為
         関伊右衛門の由緒を、飯島平右衛門の由緒と交換する形で書き
         写してしまったように思えます。

          もっとも、二人が旧塩谷家家臣であったことには変わりはないよ
         うですが?・・・。

          ただし、ここには矛盾があります。この『喜連川家由縁書』の冒頭
         部分で、この飯島平三郎は「上総(小弓御所)からのお供の者で
         由緒ある者の義です。」と記述しています。)

      *翻訳を再開します。


  一、 左の三人の者共は、尊信公様の乳母の子です。この度御家来に取立て
     られましたが、この者共は武士勤めには不向きの者で、百姓であるが願
     でた塩谷家以来末々の百姓の名跡である者の末でございます。
     この度の義は、両人から申し出があり味方支度に加えた者でございます。

                                      葛城村
                                         金子半左衛門
                                      小入村
                                         岡田介右衛門
                                      東乙畑村
                                         簗瀬長左衛門

       (注、ここでは、まず金子半左衛門の件ですが、「尊信公様乳母の子」
          となっています。

           しかし、この『喜連川家由緒書』の冒頭部では、上記の飯島平左
          衛門と同列で「上総(小弓御所)からのお供の者で由緒ある者の
          義です。」と記述しています。

            足利頼氏が上総から喜連川領にはいったのは、文禄十二年
           (1593年)です。つまり、かれは老人になりますので尊信の乳母
          の子には、なり得ないことになります。

           また、岡田助(介)右衛門と簗瀬長左衛門の二人の件ですが、
          「尊信公の乳母の子」については、否定できませんが「塩谷家以
          来の百姓の名跡である者の末」とありますので、代々百姓であっ
          た純粋な百姓であると記述されています。

           一方、足利家の喜連川入領の時、旧領主塩谷家家臣が領内
          に残り浪人や百姓・町人となった45名の姓名を書上た『長百姓
          姓名書上』の中に二人の関係者らしき人物が記録されています。

           小入村   岡田助右衛門 <==> 小入村 岡田 新九郎
           東乙畑村  簗瀬長左衛門 <==> 東乙村 簗瀬 伊 賀

          上記の関連が事実であるなら、二人の由緒書も矛盾を示してい
          ます。

            もっとも、幕府への控訴(直訴)実現のために適当にもっとも
           らしく書いただけだとしたら、それもまた、ありなのでしょうが。

            ただし、その必要性があったのか?理解に苦しむ記述です。

            また、これより下の記述ですが、これはなんなのでしょうか?

            私には下の月日不明の書付が五人の百姓家に残された本来
           の事件文書であり、江戸時代か明治の初めかは解りませんが
           この文書を元に、他の関係史料を藩内または町の書庫などから
           かき集め、ここまでの『喜連川家由緒書』を筆者が記述編纂した
           のではないか?とにらんでいます。

            それゆえに、信憑性のある記述と創作と思われる記述が入り
           乱れた、おかしな古文書『喜連川家由緒書』ができあがった理由
           と思えるのです。

            当然、以下の文書記述も矛盾だらけの物です。)

      *翻訳を再開します。



     右五人の者が松平伊豆守よりおうせられたことは、両人の者は.百姓とは
     異なるようの思えるので由緒書を出すよう申し付けたのだが、左の通り、
     両人の義はその通りであり、三人の者共は気の毒、心に残る者共である
     とおおせわたしになりました。

      酒井雅楽守様
      松平伊豆守様
      土井大炊頭様
      阿部豊後守様

     評定所役人には、酒井紀伊守様・杉浦内蔵充様・曽根源左衛門様・伊丹
     順斎様がおられました。

     右のような所で御万姫様(七歳)に江戸表の御共五人が付添って仰出て
     国元の様子を申し上げました。以上

       (注、ここで注目すべきは、「御万姫様(七歳)」です。

          昭和52年編纂の「喜連川騒動の顛末」の筆者は、この時の万姫
          の年齢を10歳としています。

           しかし、喜連川家の系図は男系図です。女性の記述は「女」と
          書かれるだけで、まして生誕日が残されているのは、足利氏女
          (氏姫)だけです。

           昭和の筆者は何の意図があってこの『喜連川家由緒書』を
          ベースに「喜連川騒動の顛末」を記述しながら、この様な歪曲
          (間違い?)を記述したのかでしょうか?

           これは、先に述べましたが、慶安元年の「尊信の名代」が万姫
          であった訳に起因しているとにらんでいます。

           実は、五人の百姓は、慶安元年の万姫のお供をしていなかっ
          た上、喜連川家の「おたずね者」であったので、領外に家族共々
          逃亡しており、領内には坊主に変装するなど、忍ぶことでしか入
          れず、4代昭氏に、これを許された事件の二十年以上後に、これ
          まで、その後の結果について聞き及んだことを、記述していたこ
          とに、歪曲を加え、子孫に家伝書として残したのが、この『喜連川
          家由緒書』の元となる古文書数通の正体であり、この古文書を元
          に数代後の子孫が編集したのが『喜連川家由緒書』の正体であ
          るといえます。

           当然、以下の古文書の記述にある松平伊豆守からの百石にて
          召抱えるという、書付もあり得ない古文書だったといえます。

            「せめてこの話、10石ぐらいにとどめていたのなら、誰もが信じ
            たくなる話であったのかもしれません。
            これぐらいの件で100石で仕官させたなら、松平家のこれまで
            戦国の世を通して、主君のために命を捧げた親族家族を持つ
            当時の忠節を通して仕えてきた、100石以下の数多くの旧来の
            家臣達から不満がでることは、あの知恵伊豆と讃えられた松平
            伊豆守なら百も承知のことです。当然、幕命なら別ですが。
             この事件は、江戸幕府の制定まもない、このような時勢に起
            きたのです。江戸後期でさえ能力主義の時代です。最初は、よ
            く見て10石ぐらいからが常識です。」

           さすがに、昭和52年の「喜連川騒動の顛末」の筆者であっても
          この古文書の記録は、記述からはずしたのでしょう。

           しかしながら、明治44年編纂の『喜連川町郷土史』・昭和52年
          編纂の『喜連川町誌』は公官物となる文献ですので、まともな
          史料がない以上、筆者には、ベース史料に忠実な編纂態度が
          のぞまれたはずですが、

           残念ながら、その頃の編纂元となる喜連川町には、そのような
          意識がなかったといわざるおえません。)

     *翻訳を再開します。



  一、 松平伊豆守様より書付をいただいた両人は、何時なりとも右の書付持参
     いたした上は、百石にて召抱える。という書付を拝領いたしました。
     以上、

     月日
                                  (葛城 佐野正司家文書)



     正保四年(1647)に起きた、御家騒動についての記事。喜連川尊信を助
     けた五人の百姓の由緒に記録の重点が置かれている。(解説 国士舘
     大学非常勤講師 泉 正人)

     (注、上記の国士舘大学の先生の解説は、『喜連川家由緒書』原文につ
        いての解説です。その記述内容についての正否の解説はしてはお
        りません。ここで誤解のないようお願いいたします。)
        『喜連川家由緒書』の原文と対比してご確認参照ください。



    << なぜ、「五人の百姓」は、幕府に罰せられなかったのか? >>


     最後の疑問となりますが、なぜ「五人の百姓」は、直訴派家臣にだまされたとは
    いえ、虚偽の直訴を起こし、高四郎左衛門や梶原平左衛門と同様に幕府に処罰
    されなかったのか?です。

     高四郎左衛門、梶原平右衛門の二人と二階堂主殿又市は武家であり、五人は
    百姓であったことに、この理由があったと思われます。

     本来、幕府への百姓の直訴は「御法度」ですので、まして虚偽の直訴であれば、
    「打ち首」ぐらいは覚悟しなければなりません。

     もっとも、これは一般論です。つまり、「五人の百姓」の持参した「尊信の書付」は
    ”本物であった”ということになります。

     さらに、この「狂乱中」の三代尊信が書いた「江戸行きの命令書」をどうとらえたの
    かが、幕府の高・梶原・二階堂を含め、彼等に対する処罰の分かれ目であったとい
    えます。

     本来、3代尊信に対する一色刑部等三家老の「押籠」処置は、主君尊信の「狂乱の
    病」による療養の為の「押籠」であり、この「江戸行きの命令書」は無効としても処罰
    はないわけです。

     つまり、「この部屋から出せ!」と狂乱中の尊信に命令され、これに従っては番人役
    としての喜連川家家臣の勤めは果たせないことになります。

     すなわち、狂乱中の尊信の命令は、本来の彼の意思ではなく、「狂乱」という病が
    発する言葉、行動でしかなく、この場合は、主君尊信の名誉を守るために、無視する
    ことが本来の家臣の考え方であり勤めなのです。

     もし、主君尊信が狂乱の病を克服し、元に戻り復帰した時、将軍を始め、他藩の大
    名家や庶民に「喜連川の御所様は狂乱の病歴がある」と知られることは主君尊信の
    立場と名誉にかかわることになるからです。

     そして、いずれ4代となる昭氏は「狂乱者の息子」と世間に知らしめることになり、旧
    将軍家の末裔である喜連川家の威信さえ、貶めることになりかねないと判断するのが
    喜連川家家臣の当然の勤めといえます。

     当然、一色刑部等三家老は尊信の「狂乱」と「押籠」を幕府に届けないことは、幕府
    が定めた「武家諸法度」に触れることも十分承知の上で、主君尊信と喜連川家の為に
    、その全責任を家老の勤めとして自分達が被ることになることも、覚悟の上であったと
    判断できます。

     このことは、彼等がなんら騒動を起こすことなく、素直に幕府の処罰に従ったことから
    明白です。

     慶安元年七月十一日に喜連川に向かった目付衆の少なさから、この一色刑部等三
    家老と幕府老中達との同年春からの連絡交渉があり、三家老の意思は幕府に伝えら
    れていたことも察しられます。

     一方、高・梶原も一色刑部等三家老と同じ旧古河公方家家臣ですので、このような
    考えは、十分承知の上で、本来の主君尊信の意思ではなく、彼の「狂乱の病」が発し
    た「江戸行きの命令書」を主君尊信の為と偽り、上総(小弓)系家臣の復権をめざす
    若い二階堂又市とその家臣達を騙し、2人の私利私欲の為に彼等を利用し騒動を起こ
    したと幕府は判断したといえます。

     そして、「五人の百姓」は元塩谷家家臣または、その末であったとしても、この時の
    身分は喜連川家領内の百姓でしかなく、いかに見るからに尊信が「狂乱」であっても
    殿様とその家臣に「江戸に行き幕府に知らせろ」と命じられれば、従わざるおえない
    ことは事実でしょう。

     この辺の幕府の判断があったのではなかったか。

     また、喜連川家は一般の大名家とは異なり、外様ではあるが、室町将軍家の末裔
    であるので、御三家に準じる、徳川家の親族かつ客分大名かつ高無で四千八百石で
    無役した。

     よって、喜連川家には、参勤交代の任もなく、領内の百姓は幕府の公共事業に対し
    他藩の百姓とは異なり無役であり、その配慮から、彼等の処罰を判断するのは、喜連
    川家に任されたと考えれば理解できます。

     とはいえ、喜連川家としても、幕府への気使いもあり、彼等の処分には大変悩んだと
    思われます。

     事件後の4代昭氏(7歳)と喜連川家家臣の心は皆、3代尊信と喜連川家を辱め、
    多くの家臣達の生活を脅かした、「憎き五人の百姓共」であったことは、前にも述べ
    ましたが、彼等の事件後の行動記述から、このことは判断できます。

     そして、4代昭氏が成人し、喜連川家家臣の多くが事件を冷静に判断できるよう
    になった頃、事件の約二十年後の、「喜連川家の安泰期」を見て「尊信の法要」の
    時に、五人を許し「狂乱中」とはいえ尊信の約束どうりに褒美をとらせたのではなか
    ったでしょうか。



     ご意見などありましたら下記まで、よろしくお願いします。


                             321-2522
                             栃木県日光市鬼怒川温泉大原270番地
                             喜連川一色家子孫        根岸剛弥


*************************************