平成19年6月に、さくら市の「喜連川町史編纂委員会」により発刊された「『喜連川町史』
第三巻資料編3近世」に尊信公の一件としてに収録された「喜連川家由緒書」(261ページ)
の内容を下に示す。
77 寛文十一年 喜連川家由緒書(この文書の表題は下記の「喜連川御家」)
喜連川御家
一、右兵衛督尊信公は寛永七年(1630)に古河よりお引き移りになられました。
同拾八年(1641)に、ご上意ということで、生来、気性が荒い方でしたので、
一色殿 ・柴田殿・伊賀殿は主意計略をもって一間(一部屋)設けて御押籠め
申し上げました。同拾九年(1642)に左兵衛督様(昭氏)がご誕生になられました。
正保四年(1647)平三郎村の(関)伊右衛門義は別に訳有の者で、また葛城村
の(飯島)平左衛門と(金子)半左衛門義も上総からの御共の者で由緒ある者の
義であった。
いかがしたことか、この節おうかがいを申し上げることもなく(城)をたずねたところ
一色殿・柴田殿らの取り計らいによって、ご城内に泊まることになったことを申し上
げます。
そのうち内々に夜中に来るようにと、梶原平右衛門殿よりご内通があったので忍ん
で行ったところ、ご同人の案内立会いにより蜜々に直々に殿様から上意を賜り、
これより江戸表へむかいました。
その頃(時?)小入村の(岡田)介(助)右衛門と東乙畑村の(簗瀬)長左衛門
、この両人も古百姓といい志もたのもしき者どもなので、選ばれ御引添になり
五人同様に江戸表に忍び登りました。
この節、大切なご用事を申し付けられて江戸表へ至り、最初に御一門様宅に
お伺いして御上意内容をお伝えし、先達て高野修理殿が池之端にて浪人している
ということで、そこへ伺い相談いたし、島田丹波守様と松平伊豆守様の処へ出向き
お伺い申し上げたところ、御公儀様よりの御上意では百姓からの訴えは受付られ
ないとのことでした。されども、
「百姓が江戸へ登り訴えでるとは不審なことである。何か証拠でもあるのか」
とお尋ねになられ、
「百姓であっても訳有の者であるように見えるが?」
と尋ねられたので、皆の詳細な由緒を書き差上げました。その内、(訴えが可能
かどうかの回答が)引き延ばしになっているようなのでやむなく、(喜連川へ)帰国
したところ、殿様より厚き信頼を得ている梶原平右衛門殿から、
「うまくゆけば葛城村の両人の者共(飯島平左衛門と金子半左衛門)は後々
知行も与えよう(家臣にしよう)他の者には領内に土地を与える。ただし、この度
の件を首尾よく勤めればのことだが、いずれ沙汰があるであろう。」
とお達しがありました。その内、梶原平右衛門殿はご浪人と成りました。
この節、お味方連判の者の中に心変わりした者もあったようで皆、互いに心が
離れたため、直訴は引き延ばしになっていたところ。
慶安元年(1648)の春、二階堂又市殿・武田市郎右衛門殿・猪野嘉右衛門殿・
高瀧清兵衛殿・小関嘉之介殿・高野修理殿・梶原平右衛門殿からお指図を得て、
武田殿と高瀧殿がご当番の節、お側近くから(殿様直々に)書付をいただきました。
お案文には、
一、 この度江戸へ用事申し付ける。首尾よく相達は、本田地を持たせ無役
とすること相違ないもの也
尊信
正保四年八月十日
伊右衛門へ
平左衛門へ
介右衛門へ
長左衛門へ
半左衛門へ
右の通りの御書付をいただき尊信公様のため御名代(万姫?)を御一間より忍んで
お連れしました。
お供の諸士は富川雲右衛門・星佐右衛門・忍田新左衛門・善左衛門・所左衛門・
清左衛門・御草履取りの重三郎でした。
お味方の御家中の五人の者は、(尊信の)御誕生いらいこの節まで、この事に共に
心を痛め、尊信を助けるために、連判状に署名したものの、不義か忠義か悩んで
破棄しようと共に語らっていたが、五人の百姓と共に江戸表へ向かいました。
この節の後で武田殿・高瀧殿はご浪人となられました。
江戸へのお供の者どもを成敗すべく、家老達の命令により大勢の同心が差し出され
(国)境にみな打ち放たれたようで、その様子を聞かされました。
親類共からも人が出されたので知りえたことだそうです。
途中で、この場を逃れた方が良い(領内には入らない方が良い)と一同相談し逃れ
たと申していました。
重三郎は、その様子をしらずに帰り、国許に入ってから様子を知り、蓮光院へ駆け
込んだところ、許されることなく成敗されました。
江戸表においては、(高野)修理殿・(梶原)平右衛門殿・五人の百姓は御万姫様に
付き添い、御老中は酒井雅楽頭(忠清)様・松平伊豆守様・土井大炊頭様・阿部豊後
守(忠秋)様が審議評定を担当され、評定所役人には酒井紀伊守(忠吉)様・杉浦
内蔵充(正友)様・曽根源左衛門(吉次)様・伊丹順斎(康勝)様でした。
御一門の方では、榊原式部大輔(康政)様・島田丹波守様が出られ、江戸御手引き
は早川内膳正様・今川刑部(高如)様・吉良若狭守(義冬)様で評定所役人の一人、
杉浦内蔵充様へ御万姫様から委細を話されました
(高野)修理殿は池之端の町名主の家にお預けとなり、(梶原)平右衛門殿は
御旗本衆へお預けとなりました。
尊信公も心配なされてか、御飛脚同心の覚左衛門を江戸に登りつかわされましたが
御万姫様と五人の付き添いの者は御評定所役人の酒井紀伊守様・杉浦内蔵充様・
曽根源左衛様・伊丹順斎様にお預かりであったので、覚左衛門は町家にて評定を
待つことになりました。
同年(慶安元年1648)七月十一日喜連川へ幕府も御上使の御三人が下向し、
同十三日お着きになり、甲斐庄喜右衛門様・野々村新兵衛様・加々爪弥兵衛様の
御宿は慈光寺と源左衛門宅と新左衛門宅でご馳走人(接待役)は、黒駒七左衛門殿
・渋江甚左衛門殿・大草四郎左衛門殿で同十七日に喜連川をお発ちになられました。
よって、江戸表にて御万姫君様・五人の者は度々召しだされ、御評定所にて尋ねられ
たので、国元の様子を残さず申し上げました。
御上使様よりも、相違ないことが報告されたので喜連川家御家老の一色刑部殿・
御子息左京殿・石堂八郎殿・伊賀金右衛門殿・御子息宗蔵殿・柴田久右衛門殿には
伊豆の大嶋へ流人のおうせつけがありました。
御子息方は御大名家・御旗本方へお預けにあいなりました。
この節、二階堂家の義のお尋ねがあったので、若年であるむねを申し上げましたが、
若年で十五歳とはいえ家柄であるので、この度のことは不行届の件であるので、白河
城主本多能登守(忠義)様へお預けにあいなり、御付の同心の金平も一緒におおせつ
かりました。
御万姫君様には五人の者が付添い、世話になった御老中・御一門・御評定所役人宅
へ御礼廻りをされるので、御国元には御奉書(報告書)を送り、七月二十五日には、
この御奉書は届きました。
尊信公様は押込の間(部屋)から開放されました。その節、御家老には黒駒七左衛門
様・大草四郎右衛門様・渋江甚左衛門様がなりました。
御付けの諸士と五人の者は御万姫様のお共をし、十一月二十六日に帰国の徒に付き
ましたが、途中一色殿・伊賀殿・柴田殿の申し置きを得た、同心達が登ってきている
ことを追々お味方の者より内々で聞いていたので、帰国の徒も心もとなかった。
そこで、五人の者は相談して先に重ねた御用も首尾良くつとめたことでもあるので、
右の心配事もいずれ晴れると存じるゆえ、家内を召き連れ一家共々領外に逃れてい
たところ、御上意にて早々に帰るよう再三の命令もありました。
しかし、一色殿・伊賀殿・柴田殿に加担の者が両三人も残っていることを知っているの
で、心もとなく帰れないと申し上げていたので、上様(尊信)には不届きと思われたで
しょうが、仕方なく帰国は引き延ばしていました。
梅千代様が御七歳の時、左兵衛督昭氏公と申し上げました。江戸表へお登りあそば
れて、御共には大草四郎右衛門様で御老中に挨拶に廻られました。
(この節より?)尊信公様は江戸の御参府することはなく、これより(四代?)昭氏公
様の御代に相(あい)なりました。
御万姫君様は佐久山の福原内記(資敏)様へお腰し入れされました。
尊信公様は承応二年(1652年)三月十七日に死去されたので五人の者は領外に
逃げていましたが城下の龍光院(喜連川家菩提寺)様へ出向き尊信様の御見送り
をしたいむねを申し上げたくとも先達ての江戸から帰国の際伊賀殿・一色殿・柴田殿
の配下である者や同心の内の三名がいたので、沙汰を待たずに引き上げました。
再三、帰参のおうせがあったが引き延ばしており、この節にいたって尊信公の見送り
を願い出たが龍光院様からの沙汰は引き延ばしになっていました。
何としても尊信様の葬儀に参加したいので、私共は覚悟を決め、願いが届かぬ以上
やむ終えないと、専念寺(昭氏の生母「欣浄院殿」の菩提寺)に出向いて剃髪し僧侶
となつて龍光院様へあいつめ、御七日中には御焼香を済ませることができました。
関
伊右衛門無心
飯島平左衛門周良
岡田助右衛門宗喜
簗瀬長左衛門全久
金子半左衛門清庵
右の者共に御老中から御内意がありました。那須雲巌寺と森田の御領地である
田野倉村の安楽寺の二寺から控訴がありました。この件を幕府が御聞済でないよう
で、やむなく明暦三年(1657年)に江戸へ登り松平伊豆守様へ伺いし御書付を頂い
て来ました。
万治四年(1661)にも書付にて控訴申し上げていたので、五人の者に寛文二年
(1662)に帰参するよう藩からおうせつけがありました。
事件の御共の諸士と同心衆の義にも同八年(1668)に帰参するよう藩からおうせつ
けがありました。
寛文九年(1669)三月十七日、瑞芳院殿(尊信)様の御法事の節、龍光院に(出向
き)右兵衛督(尊信)様の御前にめしいでて、御見目(焼香)するようにおうせつけら
れ、御流れを頂戴いたしました。
そして、先祖の持分は御書付の通りで間違いないぞといわれ。その上先達っての
江戸での控訴費用をいただき、逸見主計殿と海上九郎左衛門殿の御取次ぎにより
渡されました。
また、当座の御褒美として一代(のみの)家臣の扶持をくだされ、果報者の子供には
籾(もみ)一俵をくだされました。
右の件は、約束の褒美に重ねていただいたものです。
寛文九年(1669)に高瀧六郎殿・高瀬九郎右衛門殿に帰参するよう藩からおうせつ
けがありました。
同十年(1670)五月二日、左兵衛督様(昭氏)が御遠行あそばされた時に、右の
五人の百姓は、(昭氏と対面し)二階堂主殿様の御帰参を願い出たところ、御所様
(昭氏)から御公儀様へお願いあそばし、大森信濃守(頼直)様の御取持ちにより
同十一年(1671)に白河の城主本多能登守様より御帰参あそばされました。
その節、葛城村の(飯島)平左衛門がお迎えに上がり、お供として帰ってきました。
右の一件のようなこともあって、後に御老中様方をはじめ御役人様方から右五人
の者共は、士分の末とはもうせ、この度の勤功は一民間に落ちたとはいえ稀なる
忠節の者たちであるとおほめあそばされ、松平伊豆守様より、「代々の末に至って
でもこの一紙を差出せば百石にて取り立てる」と書付をいただきました。
帰国の途中に五人の者は色々評議し、もし子孫がこの書付をもって松平家に仕え
たならば、年来の忠節も空となることが道理で、心得違いを起こす者もあろうと
相談の上、栗橋川(利根川?)にて引きさいて流して捨てました。
右の通り相違ないので、代々取り失うことの無いように所持いたすように、以上
平三郎
関 伊右衛門
葛城
飯島平左衛門
同
金子半左衛門
小入
岡田助右衛門
東乙畑
簗瀬長左衛門
一、 由緒書を差出すようおうせられたので、書上げました。
一、
塩谷家の縁家(親戚?)でございましたので、奥方の化粧免をいたしておりまし
た。秀吉公おうせつけにより(古河公方家には)御世続がなく、上総(小弓御所
)から現御家中が御引越しになり、塩谷家中は勝手次第で他領に出て行った者
もありましたが関和泉(平三郎?)は一人在士として残るよおうせがありました。
外の者共は他へ出て行く者も百姓となり家に残った者もあました。以上
平三郎村
関 伊右衛門
一、 上総(小弓御所)から御引き払いの節、(塩谷家)家来の中で(領内に)残らな
かった佐野信濃守の甥で佐野越後で身長六尺二分、大力で武芸が達者でし
たので守り方をおおせつかり、塩谷家家来には、何処でも勝手次第と立退き
をおおせつかったので、領外に出る者も百姓となる者もあったが塩谷の殿と
対面することもなく百姓になってしまうことは腹立たしいことなので、近くの村に
居住したところ、那須家の浪人共がかたらる仇をなし居付百姓が難儀しており
古主ゆえ手向かうこともできないので、防方(用心棒?)をしてほしいとたのま
れ防いでおりました。
塩谷の殿に会いたくて、防方をいたしながら領地の仇をうっておりました。
その時は入江左近と名乗っていました。
その節、塩谷の殿と対面でき、近村におられ知らせずにいたそうです。
小山判官の末で小山小三郎から当時常陸に居住しており、これにお越しくだ
されと申し出があったので、塩谷の殿の同道いたし常陸へお供して来ました。
以上
葛城村
飯島平左衛門
一、 左の三人の者共は、尊信公様の乳母の子です。この度御家来に取立てられ
ましたが、この者共は武士勤めには不向きの者で、百姓であるが願でた塩谷家
以来末々の百姓の名跡である者の末でございます。
この度の義は、両人から申し出があり味方支度に加えた者でございます。
葛城村
金子半左衛門
小入村
岡田介右衛門
東乙畑村
簗瀬長左衛門
右五人の者が松平伊豆守よりおうせられたことは、両人の者は百姓とは異なる
ようの思えるので由緒書を出すよう申し付けたのだが、左の通り、両人の義は
その通りであり、三人の者共は気の毒、心に残る者共であるとおおせわたしに
なりました。
酒井雅楽守様
松平伊豆守様
土井大炊頭様
阿部豊後守様
評定所役人には、酒井紀伊守様・杉浦内蔵充様・曽根源左衛門様・伊丹順斎
様がおられました。
右のような所で御万姫様(七歳)に江戸表の御共五人が付添って仰出て国元
の様子を申し上げました。以上
一、
松平伊豆守様より書付をいただいた両人は、何時なりとも右の書付持参
いたした上は、百石にて召抱える。という書付を拝領いたしました。
以上、
月日
(葛城 佐野正司家文書)
正保四年(1647)に起きた、御家騒動についての記事。喜連川尊信を助
けた五人の百姓の由緒に記録の重点が置かれている。(解説 国士舘
大学非常勤講師 泉 正人)
(注、上記の国士舘大学の先生の解説は、『喜連川家由緒書』原文につ
いての解説です。その記述内容についての正否の解説はしてはお
りません。ここで誤解のないようお願いいたします。)
『喜連川家由緒書』の原文と対比してご確認参照ください。
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この『喜連川家由緒書』の史料批判と解析(記述中の年と登場人物の正合性
の検証)等は『喜連川家由緒書』(筆者訳)にてご確認参照ください。
この『喜連川家由緒書』は明らかな歪曲・捏造文書でした。