「足利義満の次男、足利義嗣について」

              



   室町三代将軍足利義満の次男である足利義嗣は、兄である四代将軍足利義持との権力闘争により殺害された。

   これは、横浜市立大学助教授、今谷明氏の著書『室町の王朝』「足利義満の王権簒奪計画」や井沢元彦氏の著書『天皇になろうとした将軍』「それからの太平記、

   足利義満のミステリー」においても記載されているが、足利義満は長子足利義持より次男足利義継を偏愛しており、1408年(応永15年)4月25日宮中で内大臣が

   加冠する親王並みの形式(関白太政大臣以下の公家に礼をとらせる皇族としての)元服式を行い従三位参議となった。その五日後、父足利義満は急死(毒殺とも

   言われる)したので、将軍である兄足利義持は弟足利義嗣を北山第から追い冷遇した。

   しかし、弟足利義嗣は同年7月23日には権中納言、翌年1月5日には正三位、1411年11月21日には従二位、同月25日権大納言、1414年での官位は正二位と兄

   である将軍義持の官位を大きく上回っていった。

   このことは、公家や幕府の武家達の間でも弟足利義嗣が足利家の棟梁であると思われていたことの現れであり。 ここに、兄弟間の権力闘争が始まるのである。

   1418年、将軍である兄足利義持の命を受けた富樫満成により足利義嗣(25歳)は殺害されたのである。(戒名:圓修院殿孝山道純大居士)


   そして、彼の遺児の一人である次男(嫡子)足利直明(六歳)が鎌倉の同族一色長兼の養子となり嫡子となった一色直明である。  以後、彼の子孫は鎌倉一色家

   ・古河一色家として、鎌倉公方・古河公方家の奉公衆の中心として地位を固めることとなる。  よってこの20年後、1438年の将軍足利義教と鎌倉公方足利持氏の

   対立により、引き起こされた「永亨の乱」における足利持氏を守り立てる関東一色家の反将軍家としての動向は、当然のことであると理解できる。また、これに敗れ

   旧領である三河の一色郷に落ち延び、国主丹後一色家(四職家)に庇護された、一色持家(時家)であるが、本来ならば彼が、一色長兼の嫡子であったのかもしれ

   ない。 (甥であるともいわれる)  そして、三河における一色持家への庇護が四職家であった丹後一色家の衰退と滅亡をもたらしたともいわれている。




    << 関係文書 >>


   幸手市教育委員会発刊「幸手一色氏」(系図から伝承まで)一色さだ子氏の家に残された系図に下記の記録がある。



          直明 一色宮内大輔 従五位下、正四位侍従、八郎

          一色左京大夫養子、実権大納言源義嗣卿二男

          京都御代官御旗ヲ頂戴、在鎌倉持氏依御入魂

          山内上杉安房守以讒言被誅之、直明子共為

          御引汲五山之間被隠置之、杉本観音石坂右方

          館也、左方将軍御座所也、代々於八幡宮為元

          服故号、八郎

          法名大林寺鏡心道勲居士於鎌倉下云々



      概訳
          一色宮内大輔 従五位下、正四位侍従、八郎

          一色左京大夫の養子、実は権大納言源義嗣卿の二男。京都御代官から御旗を頂戴、鎌倉公方の足利持氏の御意向で山内上杉安房守憲基は処刑し殺した

          と偽り、直明は子供であったので鎌倉五山で隠して育てた。 館は杉本観音石坂の右方で、左方は旧将軍家の館であった。 代々八幡宮で元服のため八郎

          と呼ばれた。


               (注、一色直明の養父は一色左京大夫であると記録されているが、一色直明の諱となる「直明」の文字に養父長兼の「長」が使われず「直」が使われ

                  官位は正五位・宮内大輔である。一色直明の養父を一色宮内少輔氏兼・従五位下の次男である幸手領主の一色左京大夫長兼・正五位とする

                  と、おかしなことに長兼は息子の諱に実弟の宮内少輔直兼・従五位下から「直」の字を賜ったことになり。 古来諱は目上の者から戴くという仕来

                  りに矛盾する。おそらく、一色直明の本来の養父は鎌倉府の奉行衆筆頭で俗名八郎と呼ばれた三浦郡の逗子葉山領主一色宮内少輔直兼であ

                  ったと考察する。




       また、幸手一色家の系譜にある一色直明の記録で「実権大納言源義嗣卿二男」の部分は、江戸幕府が編纂した「寛政重修諸家譜」では、幕府の編集者が足利

       義嗣の死去年齢二十二歳から二人の男子を設けたことは疑わしいとのことで、削除されているが、天皇家の日記を徳川幕府の役人が見れる手立てもないので、

       致し方ないこととは思うが、下記の「看聞御記」(後崇光院太上法皇の日記)には、「亞相宅二六歳男子嫡子。二歳男子等。」と二人の男子の存在が確認できる。


       罪人の嫡男に再興など有り得ない時代である。 「六歳男子嫡子。」が「次男嫡子」で一色直明のことで、後に 再興され鞍谷公方となるのが三男で「二歳男子」

       の方と考察する。



       「看聞御記」(後崇光院太上法皇の日記)


      応永二十五年正月


       廿五日 晴・・・・夜前丑刻輪光院炎上。

       押小路亞相入道叛逆巳後被押籠在所之間騒動。

       諸大名室町殿へ馳参。亞相令自焼被没落之間。

       奉討之由有披露。則取頭冨樫宿所へ持参。

       躰等持寺へ被渡伝々。密議者室町殿冨樫二被仰付。

       加賀守護代山川。山川舎弟奉討取頭伝々。

       楯世者一人同被討了。其後寺家二放火焼佛伝々。

       焼亡最中亞相 宅二六歳男子嫡子。二歳男子等。

       母儀乳母懐抱之處押寄奪取伊勢宿所へ被渡。母儀乳

       母叫喚。其有様平家六代御前召捕時も奴然興伝々。


      <現代語約>

             ・・・・「夜前丑刻に輪光院が炎上した。 押小路亞相入道(足利義嗣)が反逆の後、押し込められていた時の騒動で。諸大名は室町殿に馳せ参じた。亞相令

       足利義嗣が自ら火を点け逃げ出そうとしている所を討ち取ったと報告され、直ちに首は冨樫宿所に持参され、躰は等持寺(足利将軍家菩提寺)に渡されたと伝えられ

       たが実は密議の上、室町殿が冨樫に仰付たもので、加賀守護代の山川。山川舎弟が斬首したとも伝わる。楯突く世者一人を討ち、その後、寺家に放火して仏を焼い

       たと伝えられる。 火災の最中に、亞相宅(足利義嗣の家)には六歳男子嫡子と二歳男子等があり、母と乳母に抱えられているところを押し寄て奪い取り、伊勢の宿所

       へ渡された。母親と乳母は泣き叫んでいた。その有様は平家六代の御前を召し捕る時もそのようであったそうだ。」

        (伊勢宿所=伊勢政所執事伊勢貞経=北条早雲の親?、応永23年(1416)10月 5日時点、義嗣の警固役は侍所の一色義範であった。)



       廿八日 雨降。椎野。三位。重有朝臣。長資朝臣。阿賀丸。

       寿蔵主。正直。行光禅啓。廣時等候。仰聞。押小路亞相禅定門嫡子可

       被討興不評定。然申請人被免死罪被喝食伝々。泉涌寺長老為弟子伝々。



      <現代語約>

      「椎野。三位。重有朝臣。 長資朝臣。阿賀丸。寿蔵主。正直。 行光禅啓。廣時等候。 仰聞いたところ。 押小路亞相禅定門(故足利義嗣)の嫡子は評定により討たれ

      ることはなかった。然れども、死罪にはならなかったが喝食となり、泉涌寺長老の弟子になるという。」




      応永二十五年四月

       五日 晴・・・・仰押小路大納言入道子息泉涌寺入屋成喝食了。爲謀

       反人子息之間。彼寺居住不可然之由。自仙洞披仰。 此間召返冨樫ニ

       披預云々。世以不便御沙汰之由申云々。



      <現代語約>

       「・・・・足利義嗣の子息が泉涌寺に入って喝食となっていることを聞いた仙洞(後小松天皇)が自ら「謀反人の子息であるので、かの寺に居住させることは良くない。冨樫

       に召し返させたという。世にもふびんな沙汰であったそうだ。」





       仙洞(後小松天皇)は息子の称光天皇に譲位することで、仙洞(上皇)となり院政を引いていた人物である。 そして、足利義満の南北朝統一のおかげで天皇になれた

       こともあり、義満には頭が上がらず、義満の突然死により息子の称光天皇へ譲位が出来た。


       生前、足利義満は金閣寺で次男義嗣の元服式を行うにあたり、後小松天皇を烏帽子親として、関白太政大臣以下の公家たちを目前にひかえさせた皇太子の任命式

       に準じる様式をとっていた。  つまり、公家や武家の間では、次の天皇は義満の次男、義嗣であろうと目されていたことが、後小松天皇の足利義嗣親子への冷遇に

       つながっていたのかもしれない。


       また、伏見宮貞成親王=後崇光院太上法皇にしてみれば、称光天皇に阻まれて天皇にはなれず、自らは隠居して息子を皇太子にすることで息子(後花園天皇)の親

       となり上皇になった人物。このこともあり、後小松天皇には批判的で、義嗣親子には同情的であったようなふしがこの「看聞御記」から考察される。