喜連川騒動における一考察(メイン)へ
喜連川騒動の登場人物を、派閥別に切り分けました。
< 君 主 > 3代喜連川 藩 主 喜連川右衛門督尊信(幕命により押籠、隠居)
< 一色派 > 筆頭 古系 筆頭家老 一色刑部( 伊豆、大嶋にて高齢により病死))
古系 長 男 相木与右衛門(弟一色左京に従う)
嫡 男 一色左京(15年後、幕府により許され、岡崎藩水野監物家から招呼
客分扱い、かつ百人扶持(実禄1500〜2000石)で再興後
嫡子無しにて断絶)
三 男 石塔八郎(兄一色左京に従う)
総系 家 老 二階堂主殿助(尊信派二階堂又市の父) 尊信の押籠に合議し
尊信の江戸参府の御名代を勤める。事件発生前に
死去。
古系 家 老 伊賀金右衛門(伊豆、大嶋にて高齢により病死)
嫡 子 伊賀惣蔵(15年後、幕府により主取り、再興)
古系 家 老 柴田久右衛門(二階堂主殿助の死去により家老となるる伊豆、大嶋
にて高齢により病死)
嫡 子 柴田弥右衛門(15年後、幕府により新発田藩にて主取り再興)
次 男 柴田七郎右兵衛門(兄弥右衛門に従う)
(**一色刑部等三家老の罪は、藩主喜連川尊信の「狂乱」を幕府に隠していた罪**)
< 尊信派 > 総系 若家老(15歳)二階堂又市(主膳助)(白河藩預かり、22年後に4代昭氏の幕府へ
の嘆願により罪を許され白河藩より帰参)
*古河公方家重臣簗田高助の女婿椎津行憲の子孫であり、行憲は
国府台合戦の時、小弓公方足利義明に味方し負傷して、その傷が
原因で死去(1538)しており、この子孫である椎津下総守主殿の子。
『及聞秘録』では父二階堂主殿は一色派(三家老の一人)とされ、
伊豆大島にて死去。
古系 家 臣 武田市郎左衛門 (直訴を密議し事件前に出奔) 帰参事実確認無
古系 家 臣 高滝清平 (直訴を密議し事件前に出奔)
帰参事実確認無
寛文九年(1669年)に子の高瀧六郎が帰参
(『喜連川家由縁書』より)
古系 家 臣 高瀬善左衛門 (直訴を密議) 帰参事実確認無
寛文九年(1669年)に子の高瀬九郎右衛門が帰参
(『喜連川家由縁書』より)
古系 家 臣 小関嘉之助 (直訴を密議、直訴前に中立に転じる?)
古系 家 臣 高修理亮(四郎左衛門)(三家老に追放された老臣) 帰参事実確認無
(昭和52年発刊、「喜連川町誌」では高野修理)
伊豆、大嶋に流刑(『寛政重修諸家譜』喜連川尊信の項
『及聞秘録』・『喜連川義氏家譜』より
古系 家 臣 梶原平右衛門 (三家老に追放された老臣) 帰参事実確認無
(「狂える名君」「喜連川騒動の顛末」の参考文献であ
る『喜連川家由縁書』では梶原平右衛門であるので、
平左衛門という記述は、筆者の誤記、誤読である)
伊豆、大嶋に流刑(『寛政重修諸家譜』喜連川尊信の項
『及聞秘録』・『喜連川義氏家譜』より
古系 家 臣 富川定右衛門 (直訴を援護した同心) 帰参事実確認無
古系 家 臣 星 作右衛門 (直訴を援護した同心) 天保十三年子孫らしき家臣有
古系 家 臣 恩田新左衛門 (直訴を援護した同心) 天保十三年子孫らしき家臣有
古系 家 臣 高塩清左衛門 (直訴を援護した同心) 天保十三年子孫らしき家臣有
総系 家 臣 高橋善左衛門 (直訴を援護した同心) 天保中三年子孫らしき家臣有
草履取 十三郎
3代尊信正室 那須資景の娘(実子は女子4人の女腹)
正室の娘 万姫(7歳の幼女、『喜連川家由縁書』より)
(**尊信派の罪は、幕府に偽りの直訴を起こした重罪**)
<他の一色派> 総系 家 臣 黒駒七左衛門 (事件後の付け家老)(?)
古系 家 臣 渋江甚左衛門 (事件後の付け家老)(渋江好胤の子弥五郎の子?)
古系 家 臣 大草四郎右衛門 (事件後の付け家老)(大草茂右衛門の子?)
総系 家 臣 逸見三郎 (本人か子孫)(逸見山城守祥仙の子孫?)
総系 家 臣 山名豊前守 (本人か子孫はいなかったか?)
古系 家 臣 印東内記 (本人か子孫)
古系 家 臣 高城左衛門 (本人か子孫)
古系 家 臣 石崎 某 (本人か子孫)
古系 家 臣 相馬 某 (本人か子孫)
総系 家 臣 海老名 某 (本人か子孫)
総系 家 臣 中村四郎兵衛 (本人か子孫)
総系 家 臣 佐藤 某 (本人か子孫)
古系 家 臣 福田 某 (本人か子孫)
総系 家 臣 浅沼友左衛門 (本人か子孫)
その他 多数がいたと思われる。
以上です。
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喜連川町誌の「喜連川騒動の顛末」では、家中は一色派と尊信派の2派に分かれたと記述されておりますが『喜連川義氏家譜』と『及聞秘録』記述から
判断するならば、後の付け家老の3名以下も、一色派と判断できる。 当然、喜連川町誌の「喜連川騒動の顛末」でも記述されていないが事件後の喜連川
家を支えた上士格の家臣達の多くは、一色派であったということである。『喜連川家由縁書』の記述にある事件後の五人の百姓達の行動からも明白です。
喜連川町誌の「喜連川騒動の顛末」で記述された、浪人してまで、直訴を成功させた事件のヒーロー達の喜連川騒動事件後の帰参が確認できないのであ
る。 どうしたのだろうか? 天保十三年の喜連川足利家臣団の家禄&役責取り決めを参照ください。 事件後、再帰参したが、子孫が絶えたとでも言うの
だろうか?事件の直訴を護衛した5人の下級武士達の子孫らしき4名の存在は確認できるが?
そもそも、一色派への直訴の露見を防ぐべく、五人の百姓を万姫の護衛に付けたと喜連川町誌の「喜連川騒動の顛末」で記述されているが、これを更に
護衛する目的で五人の同心と草履取十三郎を付けたとも記述されており話の流れが矛盾しているのである。 しかも、先に出版された喜連川町史の
「狂える名君」では、正室の娘、万姫や五人の同心と草履取十三郎の存在はなく『喜連川家由縁書』を元にした執筆のようです。
このことは、『及聞秘録』の事件記述や喜連川文書の記述でも同じです。
高野修理と梶原平右衛の両名は、一色刑部、二階堂主殿、柴田久右衛門の三家老の合議により、事件当時は追放の身であったのである。すなわち、
喜連川尊信の「発狂」は、紛れなく真実であり、喜連川町誌の「喜連川騒動の顛末」において、尊信派と記述された二階堂又市の父二階堂主殿助は、
実は一色派であったことが真実のようです 。喜連川文書の(大老)土井利勝から一色刑部への手紙より
つまり、一色刑部、二階堂主殿、柴田久右衛門の三家老に追放された高野、梶原に万姫や五人の同心が追従することはありえないことです。
同町では、喜連川騒動事件を古河系と上総系の家臣達による争いとされています。しかし、実際は古河系と上総系の家臣達が入り乱れた派閥構成を示
していることから、3代喜連川尊信の意向に従うべきか否かがその根底にあったと見とれます。
おそらく、この時代の喜連川家の安泰を第一とするか?主君尊信の意向に従うべきかですね。そして、主君尊信の意向に従うことは「喜連川家の改易取
り潰し」と一色刑部二階堂主殿、柴田久右衛門の三家老は判断し主君尊信を押籠とし、高野・梶原を追放したと判断できます。つまり、家老の二階堂主殿
助(尊信派二階堂又市の父)の死後、子の二階堂又市が浪人中の高野・梶原にたばかれ加担して正保四年(1647年)八月の直訴事件に至ったようです。
そして、慶安元年(1648年)の幕府評定期に至り、喜連川尊信もことの事態に気付き自己から狂乱を装い「喜連川家の改易取り潰し」を逃れ隠居し、長男
昭氏(庶子7歳)を4代喜連川藩主としたが、その後も正室との間に次男氏信をもうけるなど喜連川尊信はいたって元気であったが事件の3年後(慶安五
年(1652)三月十七日)に33歳で急死する。(承慶元年(1652)三月十七日との記録も)
このあたりから幕府は喜連川家に「御所号」を許したのでは?
喜連川尊信の急死の前年(慶安四年(1651年)七月二十五日)に由比正雪事件があったが関連性はなかったか?(歴史の闇ですかね。) よって、喜連川
町史の「狂える名君」と喜連川町誌の「喜連川騒動の顛末」の記述は明治44年と昭和52年の執筆者により都合よく歪曲されていたようです。
天保十三年の喜連川足利家臣団の家禄&役責取り決めのスライドショーの3枚目の写真に、喜連川町誌の編さん委員の一覧を公表しました。文化財保護
審議会委員をチェックすると、「喜連川騒動の顛末」にて記述された、五人の同心の1人「高塩清左衛門」の子孫と忠義の老臣「高野修理」の子孫らしき人物
の名前が伺われます。 もっとも、喜連川家家臣に高(こうの)修理はいましたが高野(たかの)修理はいません。 おそらく明治の方が読み間違えているの
でしょう。
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