喜連川騒動における一考察(メイン)へ
江戸幕府の幕藩体制の確立は、将軍の絶対権力を強化することになった。
幕府の交付した慶安の御触書の中に「地頭は替もの百姓は末代其所之名田を便りとするもの」といっている。これは、従来、土地の農民を
直接支配してきた大名の権力が将軍の全国統治権の中に吸収され、大名は将軍の土地を分けてもらって年貢を取るだけのものにすぎな
くなったことである。
大名に対する将軍の権力が強大になったと同じように、家臣団の構成に至るまで、大きな変動を伴うものであった。 このため、支配層の
内部でも多かれ少なかれ新旧勢力の対立がおこった。 大名のお家騒動のうち江戸時代初期のお多くのものは、この対立が表面化した
ものである。
NHKテレビドラマ「樅の木は残った」の伊達騒動は、この典型的な例である。 すなわち、「一門の伊達安芸守宗重は藩主の弱体(四代
綱村二歳)に乗じ、藩政をにぎろうとした野心家であり、譜代の直臣である原田甲斐は、むしろ藩主の権力を強化しようとつとめた改革派
であった」との見解のもとに山本周五郎は「樅の木は残った」を書いたが、真相に近いといえる。
ここでは、「先代萩」について考証しようとは思わぬが、敢えて取り上げたのは、喜連川騒動と伊達騒動は、発端において共通性があり、
結果において反対になっているからである。
1 発 端
寛永七年(1630)、二代頼氏死去。その子義親すでに無く、孫尊信古河から入城、三代藩主となる。 時に七歳の幼君のため藩政の実権
は、一族の城代家老一色刑部の掌中にあった(一色氏は足利氏の一族で四職家の一つ)。 ところが、尊信は成人とともに意欲的に藩政
にあたった。 これに対し、自己の意思が藩政に生かされにくくなった一色刑部は内心おもしろくなかった。
正保四(1647)年夏、生来丈夫な方ではなかった尊信は重い病気にかかった。 これをとらえて一色刑部は、配下の伊賀金右衛門、柴田
久右衛門らと共謀し、主君尊信を、「狂乱の症発す」という理由で城中(慈光寺とも)に幽閉してしまった。
2 経 過
これに対し、老臣 高野修理をはじめ二階堂又市、武田市郎左衛門らの尊信派が刑部の横暴なやり方に批判的に.なり、藩内は一色派と
尊信派の二派に分かれたが、刑部は城代家老の重職にあり、藩の実権を握っていたため、尊信派はこれに対抗できなかった。
翌、慶安元年(1648)春、二階堂又市、武田市郎左衛門、高滝清平、高瀬善左衛門、小関嘉之助相謀り、権臣の勢に勝つために「江戸表
に訴え難を解くこと」に決した。
これより先、高野修理浪人となり、江戸下谷池之端に住し、老中嶋田丹波守、松平伊豆守に控訴手続きについて同意を得るため下交渉を
しており、成算ありとみて国元の尊信派の密議となったわけである。
万姫と五人の義民
尊信派の家臣は幕府に訴えることを謀った。 しかし、刑部のいうように「発狂」していることが事実なら、かえって「お家断絶」にもなりかね
ないため慎重にことを運ばねばならなかった。一方、尊信は刑部にスキを与えるため、その策に落ち入ったと見せかけ、わざと「狂人」を装
っていた。 このため、尊信派の家臣にさえ、発狂を信じる者が出たくらいであった。ただ、古河在住当時からの側近であった高野修理のみ
は尊信を信じ打開策を秘していた。この辺のところは、昭和二十八年につくられた東映映画「名君剣の舞」に同じと思えばよい。 「事実は
小説よりも奇なり」である。
高野修理は、病床にある尊信の内意を得、「万姫」を奉じて江戸表へ訴えることになった。 問題は、九歳の万姫の警護をだれがするのか
にあった。家中の者であれば刑部派の察知するところとなるため苦心を要した。 思案の末、選ばれたのは領内の百姓五人であった。
すなわち、旧領主塩谷氏の遺臣で、
小入村 岡 田助右衛門
葛城村 飯 島平左衛門
葛城村 金 子半左衛門
東乙畑村 梁 瀬長左衛門
平三郎村 関 伊右衛門
の五人である。 これらの者に対しては、尊信から御直書が渡された。文言(手紙の文句)は次のとおりである。
一 比度江戸用事申付候
首尾能 相連者本田地持
無役相違いある間鋪もの也
正保四年八月十四日
尊信
伊右衛門
平左衛門
半左衛門
助右衛門
長左衛門
右之通御付被下置有頂戴仕候
意味は「このたび江戸に用事申し付ける。首尾よく相連(万姫を)においては、本田地を持たせ、夫役は免除にすること違いないぞ」と尊信の
約束である。五人の義民は、高滝清平、武田市郎左衛門が当直の夜明けに、万姫を館外に伴い出て江戸へ向かった。これに密かに従う者
には、同心富川定右衛門、星作右衛門、恩田新左衛門、高塩清左衛門高橋善左衛門、草履取・十三郎ら六人が選ばれている。罪の及ぶこと
を恐れた、高滝、武田両名のほか二階堂又市も出奔している。
無事に江戸池之端に着いた一行は、万姫を表に立て老中に訴えたが、公儀においては、百姓どもの上府を不審に思い御下門になっている。
これに対し、高野修理から「五人の者は百姓とは申せ元侍分の者にございます」
「それならば証拠をそろえ願い出よ」
と申し渡されたため、修理は証拠品持参のため帰国することになり、幕府への訴えは一頓挫することになってしまった。
万姫の訴え評定所裁きとなる
控訴中断の報が国元へ伝わるや、梶原平左衛門は浪人を願い出、急ぎ江戸表へのぼって同志と会い、対策を講じた。この様子をみて、尊信派
に連判した者に心変わりする者が現れ動揺が見えてきた。
先に万姫と五人の百姓とともに上府した六人の同心と草履取り十三郎は、江戸表までお供して立ち帰ろうとしたが一色刑部は配下の者に、これら
の者を残らず境目(弥五郎坂)にて討ち果たすよう命じた。 このことを察知した六人(五人?)の同心は、領内入口にて身を隠し城下の様子を伺っ
たが、一日早く下った十三郎は、情報不足のまま帰国したため、一色派に追われる身となり、命乞いに漣光院へ駆け込んだが成敗されてしまった。
江戸表においては、幕府が「五人の百姓」が元塩谷氏の家臣であったことを認めて審理が再開された。 当時は、行政官と司法官の区別がなく、
行政官は同時に司法官であった。 最高裁判所は評定所で、事件の性質により、三奉行と目付が組み合わされて裁判に当たったが、お家騒動は
老中、若年寄が参加することが多かった。
喜連川騒動は、評定所において.、大老酒井忠勝、老中松平伊豆守信綱、安部豊後守忠秋、阿部対馬守重次が審理に当たった。評定掛かりには
酒井紀伊守杉浦内蔵充、曾根源左衛門、伊丹順斎らであり、控訴に当たって、10歳の万姫を何くれとなく面倒をみてくれたのは、品川内膳正、
今川刑部、吉良若狭守(足利家の支族)であった。
事件の仔細については、万姫から評定掛り杉浦内蔵充に申し上げた。陰の人物である高野修理は、池之端町名主「大屋」に、梶原平左衛門は
旗本に、万姫と五人の百姓は評定掛りの酒井紀伊守、杉浦内蔵充、曾根・伊丹へお預けとなった。 幕府においては、事実調べに入る前に、
慶安元年(1648)七月十一日、現地調査のため御上使として甲斐庄喜右衛門、野々山新兵衛、加々見弥太夫の三名を喜連川に派遣している。
御上使の宿舎は、慈光寺、本町源左衛門、本町新左衛門宅で、接待は黒駒七左衛門、渋江甚左衛門、大草四郎右衛門が当たったが、幕府の
監査官を向かえての一色刑部の胸中はいかばかりであったか。
評定所裁定下る
江戸表においては、万姫、高野修理、梶原平左衛門、五人の百姓の訴えについて、評定所(現最高裁)において数回にわたる吟味(審理)が
行われた。その際、これらの者から国元の事情について逐一申し述べられた。
慶安元年(1648)七月17日、幕府の上使3名は、喜連川城下の調査を終え江戸に帰った。上使は早速、老中松平伊豆守信綱に対し「尊信公
相違無之候」と万姫の訴えに偽りのないことを報告した。「尊信公相違無之」とは、刑部の言うように狂人ではなく正常でとのことである。
尊信は江戸表のことを憂慮し飛脚として同心覚左衛門を江戸へ上がらせたが、これと相前後して江戸の万姫から評定所吟味の詳細について
報告があった。 かくて喜連川騒動結審の日がきた。
裁判官
大老 酒井雅楽頭忠勝
老中 松平伊豆守信綱
阿部豊後守忠秋
阿部対馬守重次
原 告
一色 刑部
一色 左京
伊賀金右衛門
柴田久右衛門
石堂 八郎
伊賀 惣蔵
柴田弥右衛門
柴田七郎右衛門
証 人
黒駒七左衛門
渋江甚左衛門
大草四郎右衛門
(判 決)
主 文
主を狂人扱いにし藩政を専横にした罪軽からずよって伊豆大島へ流罪とする
伊豆大島へ流罪 一色 刑部
伊賀金右衛門
柴田久右衛門
そのほかの罪人は大名旗本へ
一件落着ののち老中、諸役掛かりから「喜連川家の重臣である二階堂はどうしたか」との尋ねがあったが、五人の者は、
「二階堂の当主は本年15歳で若年ゆえにこのたびの事件にはかかわりございません」と言上したが、幕府側では、
「二階堂は家柄でありながら、このたびの一件を知らぬとは不行届につき白河城主本多能登守へ預け置く」
との申し渡しがあった。
慶安元年十一月、万姫と五人の者は、諸役諸家へ向かい、このたびの助勢についてお礼を言上し、十一月二十三日帰国の途についた。
尊信は自由の身となり、家老に黒駒七左衛門、大草四郎右衛門、渋江甚左衛門を任命した。
万姫と五人の者は、十一月二十六日無事帰国となり、お家の安泰は守られた。 万姫はのち佐久山領主福原家に輿入れしている。
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以上、昭和52年発刊の喜連川町誌の「喜連川騒動の顛末」を一字一句変わりなく記述しました。また、この記述中の「尊信派家臣」に梶原平
左衛門という人物が登場するが、「梶原平右衛門」が正しい。 この「喜連川騒動の顛末」の記述の基となる、本年、平成19年6月に発刊され
た、『喜連川町史(中世)資料編.』の『喜連川家由緒書』では梶原平右衛門と記録されてる。 これは、筆者の読み違えである。以後は、梶原
平右衛門とする。なお、『及聞秘録』では「梶原孫次郎」と記録されてる。すなわち、「梶原平右衛門孫次郎」が正式名であろう。
この「喜連川騒動の顛末」にも矛盾点は多々存在します。 文章の流れを鵜呑みにせずに丁寧かつ慎重に時系列的に読んでゆくと明白です。
時代背景や「発狂の病」の現代医学により明かされた精神分裂症の症状および顛末、そして、実在する登場人物の年代的動向などを考慮し
て、当時の状況を判断することも一興かと思います。
3代尊信の家督相続年齢がおかしい。 本来11歳が7歳になっている。 事件当時、存在しない人物名などが見受けられます。二階堂又市を
預かったされる本多能登守は、1649年6月に白河藩主になった人物であり、事件当時はまだ、白河城主ではありません。
事件評定時(1648年8月)の白河城主は、榊原忠次です。 また、喜連川町誌の年表にて、1652年の4代昭氏の家督相続時の後見人は榊原
忠政となっているが、榊原忠政は1607年にすでに死去している人物であり、嫡子である榊原忠次であろう。 しかし、彼は1649年6月には播磨
姫路藩主となっている人物であり矛盾する。
即ち、事件当時(1648年8月)、白河藩主であった榊原忠次が、二階堂又市を引き取り同時に3代尊信の隠居に伴い4代昭氏(7歳)の家督
相続の後見人となったと考えると、つじつまが合う。 つまり、「喜連川騒動の顛末」で記述される「尊信派」の直訴事件により、3代尊信は隠居
させられたこととなり、3代尊信にとって「尊信派」は逆臣となるゆえの、編纂執筆者の改ざんと考えられる。事件の40年前に死んだ人物を4代
昭氏の後見人としているのである。
しかも、現編纂委員会でも所持する『寛政重修諸家譜』では、4代喜連川昭氏の家督相続は、1648年であり、3代喜連川尊信は、1648年(慶安
元年)の12月22日に事件の責により隠居を命じられているのである。 また、榊原忠次は、3代喜連川尊信の生母の兄弟、榊原忠政の嫡子で
あり、従兄弟となる人物で、彼の生母は徳川家康の姪であるので別名、松平忠次といい徳川家の親族であるので、当然適任者である。
評定所役人として記録された人物達のこの時期の役職ですが、
酒井紀伊守忠吉(52歳) = 勘定奉行
杉浦内蔵充正友(63歳) = 勘定奉行
曽根源左衛門吉次(28歳) = 勘定奉行
伊丹(播磨守)順斎(康勝)(73歳) = 勘定奉行
ですかね。その他予想される評定職
加賀爪民部少輔忠澄(甚十郎) = 大目付
宮城越前守和甫 = 大目付
兼松下総守正直 = 大目付
花房勘右衛門正盛 = 目付
しかしなぜ、ヒーローであるはずの尊信派ではない、3人が事件後の家老になったのか? ハッピーエンドなら事件の功労者で古河以来の
重臣高野修理・梶原平右衛門が家老に抜擢されてしかるべきですね。さらに、尊信公が義民に渡した「御直書」の存在は確認できません。
この話の登場人物であり、脱藩浪人となってまで直訴を成功させた、事件のヒーローとなる高野修理と梶原平右衛門やその他、尊信派の
その後が気になりますね。 彼等は、事件後の家老になぜなれなかったのか? 当然にして藩主尊信公より、そうとうの高待遇があったこと
は、だれもが信じるところです。 ところが、天保十三年(1842年)の喜連川足利家臣団の家禄&役責取り決めには、同町誌のヒーローで
ある高野、梶原およびその他尊信派の姓を乗る家臣は存在しないのです。
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