喜連川騒動(きつれがわそうどう)とは、「下野国喜連川藩で正保四年(1647)八月に起こった
藩政の混乱であり、一年後の慶安元年八月には幕府評定所により解決されたもので、藩主
喜連川尊信自身が狂乱を演んじていた。」とする、「おらが先祖は忠臣であり、忠民であった」と
誇る、明治44年の『喜連川郷土史』の「狂える名君」を記して、町内に先祖の武勇伝を残した
(鉛筆ナメナメで舞台小説家思考の)執筆者より、旧喜連川町誌編さん委員会にて長々と、
現在も継承され守られる説と
「寛永十八(1641)年から七年におよび藩主喜連川尊信は狂乱を理由に三家老により押籠
められ、慶安元(1648)年の幕府評定で、公的に藩主尊信の狂乱の事実は確認され承応二
(1652)年三月の死去にいたるまで押籠は継続されていた。」とする喜連川家と幕府、そして
江戸に残る古文書の記録に誠実であろうとする歴史実証主義者による説の二つがある。
この事件に先祖が関わったとする旧喜連川町文化財保護審議会委員であった佐野家が保有
する五人の百姓の家伝書「喜連川御家」をもとに、旧喜連川町が明治44に編纂出版した『喜連
川郷土史』の「狂える名君」と昭和52年に編纂出版した『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」
および「付属年表」によると
「正保四(1647)年に三人の家老、一色刑部・伊賀金右衛門・柴田久右衛門らは藩主喜連川
尊信を狂乱の病であるとして城内に座敷牢を設け押籠めにし藩政を横専していたが、実は尊信
の狂乱は尊信自身の演技であった [1]。あるとき、尊信は近習の高野修理に江戸に訴え出るよ
う命じた。高野修理は同士を集い自らは先に脱藩し江戸に住んだ。 翌年の慶安元年の春には
藩内に残る若家老二階堂又市と近習梶原平右衛門等の同士達と内応し藩主喜連川尊信の娘
万姫と、お供の五人の百姓達を喜連川から密かに抜け出させた。 この時、尊信の命令書を
百姓に手渡した二階堂等同士は出奔、梶原平右衛門はこれより先に江戸の高野修理と合流し
直訴の準備を進め江戸に来る万姫達を待っていた。そして、合流。同年七月には共に直訴に
至った。 結果、万姫、二階堂、高野、梶原及びその他家臣と五人の百達の活躍により、同年
七月十一日、喜連川の地に幕府から三名の御上使が遣わされ三家老による藩主尊信にたい
する不当な押籠めの事実が確認され、江戸表に報告された。そして、幕府評定が終り同年七月
二十五日には喜連川で待つ尊信に書状にて結果が知らされ、長く城内の座敷牢に押籠められ
ていた三代藩主喜連川尊信は開放され藩政を取り戻し、三家老は伊豆大嶋へ遠流、妻子は
大名旗本預かりとなり、四年後となる承応二年(1652)三月十七日尊信(32歳)が逝去。嫡子の
喜連川昭氏(七歳)が家督を継いだ。昭氏は幼年のため将軍家綱の命により榊原式部大輔忠
政[2] (徳川四天王の一人)が後見した。」
と、まるで当時の歴史上の有名人を、実際の任期や死去年を無視して出演させ、総揃い踏み
状態の演目ストーリーを旧喜連川町が公的な出版物として公表している。 水戸黄門漫遊記
など、時代劇好きの庶民にはそのまま、受け入れられた事でしょう。
一方、喜連川家の『喜連川義氏家譜』『喜連川判鑑』『足利家譜(喜連川)』と将軍徳川家光の
『大猷院実紀』や『寛政重修諸家譜』『人見私記』『万年記』『慶安日記増補』『慶延略記』『寛明
日記』、『及聞秘録』、旧喜連川町と旧氏家町の合併で誕生した、さくら市が平成18年と翌19年
に編さん発刊した 「『喜連川町史』の第三巻資料編3近世」と「『喜連川町史』の第五巻喜連川
文書」に収録掲載された『喜連川義氏家譜』・事件評定に関連して幕府老中達が白河藩主松平
(榊原)忠次に宛てた三通の連書や 事件評定の四年前に死去した幕府大老土井利勝が喜連
川家の筆頭家老一色刑部少輔に宛てた手紙、そして事件評定前に榊原忠次が喜連川家の家老
一色刑部少輔と二階堂主殿助に宛てた手紙など、同時代に記録された関係史料である多くの
古文書の記録が示す内容は
「寛永十八(1641)年、藩主喜連川尊信が狂乱の病を発したので三人の家老は藩主尊信を押籠
めとした。 幕府には藩主尊信は病気であるとして、時の大老土井利勝などに書状にて連絡し、
長年にわたって正月恒例の江戸の将軍家への挨拶は次席家老の二階堂主殿が名代となり勤
めていたが途中、尊信の近習高四郎左衛門 ・梶原平右衛門に不届きがあり二人は藩を追放
された。
後に彼らは、これを恨み密かに江戸に向かい「正常である藩主尊信が三家老により押籠められ
ており藩政が乗取られている。」と慶安元年春に江戸表にて直訴を起こした。これを受けて幕府
老中達は協議し、同年七月三日には喜連川家の親族である白河城主松平忠次の家医である
関ト養を喜連川尊信の治療を名目として派遣させた。その後、幕府から御目付花房勘右衛門と
三宅大兵衛の二名が喜連川の地に派遣されるなど「尊信の狂乱の事実」は明白にされ、御目付
が江戸にもどるなり、先に旗本等に預け置いた高・梶原を交えて幕府評定所にて詮議したところ
二人は言葉屈した。九月においても喜連川家に対する処置は討議され、二名の老中達は松平
忠次に二通の書状を発しており押籠め部屋から幾度も脱け出てしまう喜連川尊信の押籠め番に
松平忠次の家来を当てるよう依頼している。将軍徳川家光はこれを聞き及び「藩主の狂乱を長く
幕府に隠していたことは不届きである。」とし三人の家老は伊豆大嶋に流罪、妻子達は諸大名預
かり藩主喜連川尊信(28歳)は三家老の処置通り押籠のまま隠居、ただ一人の男子
であり、筆頭家老一色刑部の外孫でもある幼い七歳の喜連川昭氏を四代藩主とし、親族にあたる
白河藩主榊原式部大輔忠次 (生母は徳川家康の姪、別名松平忠次)に喜連川昭氏の後見人を
命じた。このことは三名の幕府老中達から十月十八日付の幕府老中連書にて松平(榊原)式部
大輔忠次に通知されていた。」ことを示している。
また、同じく「『喜連川町史』第三巻資料編3近世」に掲載された五人の百姓家の家文書「喜連川
御家」の記録においても、喜連川尊信の押籠めは寛永十八(1641)年からであり、押籠めの理由
は「尊信は生まれながら性格が荒いため」であり、そして、長男の昭氏の誕生は父尊信が押籠中
である寛永十九年(1642)であり、慶安二(1649)年の七歳の時に家督を相続したこと、階堂主殿
助(又市)の白河城主本多家からの帰参は事件の23年後、寛文十一(1671)年であったことを示
している。
そして、旧喜連川町の町史編さん委員会が、明治44年より平成の市町村合併に至るまで一貫して
主張してきた「喜連川尊信は目的を持って狂乱を装っていた。 三家老が逆臣であった。」との記述
の根拠は、何故か一切どこにも見受けられない。
先の『喜連川郷土史』と『喜連川町誌』の喜連川騒動の記述「狂える名君」と 「喜連川騒動の顛末」
は市町村が編纂する地方誌特有の地域に住む時代時代の利権者の主観や都合に左右された可能
性は否定できない。同時に、これとは異なる記録を示す史料『及聞秘録』も江戸時代のものではある
が「及び聞いた記録」であり、作者不明であるため、歴史学的には一級資料とはみなされず、全てが
正しいというものでもない。
この喜連川騒動事件は、未だ専門とする公的機関の歴史学者等により正式に研究発表・出版など
されたこともない。 ここでは誰にでも入手・閲覧可能な史実に関係する史料等を紹介するにとどめ、
史実は読者自身が判断するものとしたい。
また、三代喜連川尊信は寛永十八(1641)年に三家老の合議による押籠中となる座敷牢内にあって
、翌年十月二十四日には長男昭氏をもうけ、さらに慶安(1648)元年十二月の事件解決の翌々年、
幕命により狂乱を理由として隠居となり、継続して座敷牢にて押籠中であるはずの、慶安三年(1650)
五月にも次男氏信をもうけるなど至って健常であり、けして病人ではない。
おそらく、この喜連川尊信の狂乱とは「精神の病」ではなく、幕藩体制や喜連川家(藩)の立場や存在
すら危くする狂気な行動や発言(反徳川幕府体制思想)のことではなかったか?とする見解もできる。
三家老が喜連川尊信を押籠とした十年前の寛永八年(1631年)五月には将軍徳川家光の実弟、駿河
大納言徳川忠長は狂乱を理由に隠居させられ、改易となっており全国の大名家を震撼させている。
なお、歴史とは興味深いもので、慶安三年(1650)喜連川尊信がこれまで女子しか産まなかった正室
(家女:高瀧清兵衛の子である三浦掃部清右衛門の娘)との間に二男氏信をもうけた一年後の慶安四
年(1651)4月には幕府を衝天させた由比小雪の慶安事件が発覚し7月には解決。 この半年後となる
承応二年(1652)三月十七日に喜連川尊信は32歳で急死していおり 、時代が時代であり流行り病の
可能性は否定できないが、仮に病気でないとするならば歴史ファンタジー小説にでもなりそうである。
目次
1 事件の背景
2 「喜連川町誌」における事件の経緯
3 江戸や喜連川及び古河に残された文献・史跡が語るもの
4 江戸に残る公的文献と記録
5 幕府老中から榊原式部大輔忠次に宛てられた関係文書
6 喜連川家に残された関係文書
7 『及聞秘録』での喜連川尊信に関する記録
8 五人の百姓家の家伝書「喜連川御家」事件発生から江戸での直訴準備まで
9 五人の百姓家の家伝書「喜連川御家」直訴から幕府評定所による解決まで
10 五人の百姓家の家伝書「喜連川御家」事件解決後〜二階堂主殿又市の帰参まで
11 五人の百姓家の家伝書「喜連川御家」百姓達が松平伊豆守に提出した由緒書
12 脚注
13 参考文献
1 事件の背景
喜連川家は鎌倉公方から古河公方と小弓公方の流れをくむ足利家嫡流家とされ外様で約5000石の
小大名だが、徳川家親族扱いとして10万石扱い(国主格)であり諸役御免で参勤交代の任も免除さ
れた特殊な大名である。 また、喜連川家の家老は江戸城において将軍との謁見を許されており、
参勤交代の任のない喜連川家当主の代行として、徳川将軍家や幕府との折衝に当たっていた。 この
ことは外様では同家だけで、譜代大名家であっても数少ない特権であった。
また、喜連川の一色家は鎌倉公方期から古河公方期と関東公方家と運命を共にした足利一族であり、
喜連川期においても喜連川藩祖の足利国朝から国朝の弟のニ代藩主喜連川頼氏、頼氏の孫の三代
藩主喜連川尊信の時までの58年にわたり喜連川家の筆頭家老格であった。 騒動を起こしたとされる
一色刑部少輔崇貞は、一色右衛門佐氏久の嫡孫で喜連川家三代筆頭家老であり、四代喜連川昭氏
の生母はこの一色刑部少輔崇貞の養女(実父は日光浪人伊藤某)である。
一色刑部少輔崇貞の祖父である一色右衛門佐氏久は、初代室町将軍足利尊氏の四代前の足利泰氏
の六男足利公深が三河吉良庄の一色郷に住まったことから始まる流れで初代九州探題一色範氏・二代
九州探題一色直氏の嫡孫一色直兼そして、この養子一色直明の長男一色右衛門佐蔵主を祖とする鎌倉
から古河に移った鎌倉の一色家の嫡流であり、古河城代、古河公方家の御奉公衆筆頭・御連判衆の
筆頭を勤め、古河公方足利義氏の頃より、公方家の実質的な政務を担当しており、その子、足利氏姫
の時代に喜連川家が起こると、御連判衆筆頭を務めた一色氏久の嫡子、一色久義が初代筆頭家老を
勤めた。
なお、この喜連川の一色家は室町将軍家の支族でもあるとの記録もある。喜連川一色家祖の一人、
鎌倉の一色直明の実父は室町三代将軍足利義満の次男足利義嗣であり[3]、新御所様ともいわれて
おり、実質的の時期天皇となる皇太子であろうと当時の公家や武家の間で目されていた。
足利義嗣の元服式(京都御所内で皇太子同様の様式で行われた)の翌月に父義満は急死(毒殺とも)。
その後、権大納言正二位足利義嗣(25歳)は応永廿五(1418)年
1月24日、兄である四代将軍足利義持
との権力抗争に敗れ将軍義持の命を受けた富樫満成により、京相国寺にて殺害された。 兄義持は義嗣
の長子直明(六歳)には母方の叔父である関東管領の上杉憲基に預けて処刑を命じる。
一方、次男嗣俊(二歳)の命は管領の斯波義淳に預けて助ける。 後に足利将軍家連枝として鞍谷公方
といわれる。 しかし、鎌倉公方足利持氏は上杉憲基に密命を下し、幕府には長子の直明の処刑を執行し
たと報告、実は鎌倉建長寺で育成後に、一色直兼の養子とした。 直明の屋敷は杉本観音の石坂の右側
にあり、左側が旧鎌倉幕府の将軍の館であった。(埼玉県幸手市発刊『幸手一色氏』の幸手一色家系譜)
そして、この直明の長子であったが母が三浦氏であったため、鎌倉建長寺の僧侶となっていた蔵主が、八
代将軍足利義政の時、関東管領上杉憲実等の嘆願もあり、幕府は先の「永享の乱」で自決した4代鎌倉
公方足利持氏の四男足利成氏をもって鎌倉公方を再興した時、五代鎌倉公方となり鎌倉に帰還した足利
成氏の命にて鎌倉建長寺の僧より還俗。先の鎌倉公方足利持氏を追い、金沢の称名寺にて殉死した三浦
郡葉山領主一色直兼と直明の鎌倉一色家を相続[3] 新鎌倉公方成氏の奉公衆を下総国関宿城主の梁田
氏と共に束ねその後、「享徳の乱」にて足利成氏と共に古河城に移り、古河城代・古河一色家初代となる。
この流れが喜連川の筆頭家老家当主である一色刑部少輔崇貞に続いている。
2 「喜連川町誌」における事件の経緯
昭和52年、喜連川町の町誌編纂委員会は事件にかかわった百姓の末孫である佐野家に残された家伝書
「喜連川御家」を基礎資料として、「喜連川騒動の顛末」という記述を『喜連川町誌』に残した。以下はその
概要である。
慶安元年(1648年)春、先に自等で脱藩浪人となり江戸で待つ尊信派の老臣高野修理[4]
と藩主尊信の
長女万姫(十歳)[5]がお供の5人の百姓と密かに藩を抜け出し、幕府に「城代家老[6]
一色刑部等の三家
老が君主喜連川尊信公を狂乱の病と偽り城内に閉じ込め藩政を我が物にしている」と直訴に至った。[7]
事件の現地調査のため、幕府御上使は七月十一日に江戸を立ち、七月十七日には調査を終えて江戸に
戻り「高野修理等の直訴内容に偽りなく喜連川尊信は正常である」と報告した。 幕府御上使は甲斐庄喜
右衛門 [8]・野々山新兵衛・加々見弥太夫の3名であった。 喜連川藩の接待役は黒駒七左衛門・渋江
甚左衛門・大草四郎右衛門が当たり、この3名が幕命により事件後の一代家老となった、としている。
幕府の老中が諸藩の事件評定に参加することは珍しかったが、このときは、大老酒井忠勝・老中の松平
信綱・阿部忠秋・阿部重次の4人[9] が特別にその審理に参加し、評定役には酒井忠吉・杉浦内蔵充・
曽根源左衛門・伊丹順斎の4人が当たり[10] 、 喜連川から帰った幕府御上使の報告に基づき、即刻評定
が下され、一色刑部・伊賀金右衛門・柴田久右衛門の3名が伊豆大島へ流罪、相木与右衛門(刑部の長男)
・一色左京(刑部の嫡男)・石塔八郎(刑部の三男)・伊賀惣蔵・柴田弥右衛門・柴田七郎右衛門の6名は
大名旗本預かりとなった。
また、この事件当時、尊信派の次席家老の二階堂又市(15歳)は役責不行き届きの罪により白河城主本多
能登守[11]に預けられたとし、高野修理等の働きにより3代喜連川尊信は押籠めより開放され藩政を取り戻
し、その約5年後の承応2年(1653年)の尊信の死去により、幼い4代喜連川昭氏(7歳)[12][13]が大叔父
である榊原忠政を後見人として家督を相続したとしている。[14]
また、この喜連川騒動では、誰一人として死罪となった記録はなかったが、藩主尊信の押籠に合意した一色
派家臣の家は皆追放となり断絶となったとし、忠臣として記述された尊信派家臣の中で、二階堂又市だけが
喜連川騒動事件の23年後の寛文十一年(1671)に帰参を許されたとしている。 ところがなぜか、旧喜連川町
の町誌編纂委員会の執筆者により、この事件のヒーローとして記述された高野修理と梶原平右衛門のその後
の記述がおかしなことに、いっさいない。
さらに、水戸黄門漫遊記ばりに五人の百姓は評定後に松平信綱に呼び出され「元武士であるとはいえ百姓の
身でありながら、藩主のために命をかけて江戸に上り直訴したことはアッパレである。」として、仕官を勧められ
たが彼等が断ったので「もしお前達の子等が江戸に出て当家に仕えるつもりがあるなら、いつでも百石で召抱
える。」という約束の書付をもらったが、帰国の途中、利根川を渡る船の上で「もしも、この書付を持ち帰るなら、
子孫が喜連川の殿様への忠義を忘れてしまう。」と皆で相談して破り捨てたとしている。[15]
3 江戸や喜連川及び古河に残された文献・史跡が語るもの
一方、江戸時代の文献である『及聞秘録』には一色派とされた家臣およびその家族達は皆、三代将軍徳川
家光の十三回忌(1662年)に赦免され、しかも主持ちで再興されたと記録されている。
これは昭和52年編纂
の『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」の筆者が三代藩主喜連川尊信
を三家老の押込から開放した尊信派家臣の中心人物と記述した二階堂主殿又市より、逆臣と記述された一色
派家臣のほうが約十年早く幕府から許されていたことを意味している。 さらに、このことを裏付けるのが喜連川
家墓所の正面に現存する、昭和52年編纂の『喜連川町誌』の筆者が逆臣である一色家墓所の存在である。
一色家墓所内の正面の中心となる蓮持観音菩薩像の右裏には「五郎左衛門崇利室」と刻まれており、その隣
にある最大の墓石は事件の2年後となる慶安三年七月十一日に死去した「二代頼氏公直臣」「大禅勘平胤栄」
の文字と「□□院長岳宗久居士」の戒名を刻んだ喜連川家二代筆頭家老一色下野守義久のものであり、その
隣には正室・側室の石あり、明暦二年に伊豆大島で死去した三代筆頭家老一色刑部少輔崇貞(「翠竹院松山
宗貞居士」)と岡崎藩水野監物家で再興された嫡子一色左京(「乾利院道山松公居士」)の墓石を含め、十四
人分となる計十基の墓石がある。
最新の墓石は天和三年(1683)四月十一日に死去した刑部の嫡子である一色左京の墓であり、次が一色刑部
少輔崇貞の実弟一色五郎左衛門崇利のもので延宝七年(1679)十二月十六日「□□院法欣絽心居士」と刻ま
れている。 しかも、喜連川の欣浄院専念寺にある四代藩主喜連川左兵衛督昭氏の生母「欣浄院殿」の墓所
近くにある、事件後の家老黒駒七左衛門家の墓所と並んであり、「欣浄院殿」の墓所側にある根岸家墓所の初
代根岸丹右衛門崇利の墓石に刻まれた戒名「徳嶺院法欣絽心居士」[16]および死去年月日が、一色五郎左衛
門崇利のものと一致することから、二つの墓石は同一人物の墓石であることが示される。
ちなみに、他二人の
事件後の家老渋江甚左衛門家の墓所は黒駒家墓所の斜め前で、大草四郎右衛門家の墓所は龍光寺の喜連
川家と一色家墓所に至る途中にある。 そして、この一色五郎左衛門崇利は浪人中に「山本勘平」を名乗ってい
たとの記録があり[17]。 実父である二代喜連川家筆頭家老であった一色義久の墓石に刻まれた「大禅勘平
胤栄」(だいぜんかんぺいのたねさかえよ)の意味を解く鍵でもある。
「根岸丹右衛門之事
此人上町出也、此人元ハ当家中一色刑部家老□、尊信公之時有乱、多数
浪人有、其節ハ山本勘平云、一色殿分地ニして弟也、 其時浪人して後
根岸住、根岸名字なのり五郎左衛門云、帰参して相勤上町ニ住候、又其
後町人成、其後根岸連談と申右衛門守様□初、又候町人成、上町住候所
問屋□□ニテ致浪人致候、其兄山野金右衛門屋敷買取申候」
訳「根岸丹右衛門の事
この人は上町の出なり。この人、元は当家中一色刑部家老□、尊信公
の時、乱があり多数の浪人がでた。その節は山本勘平といい一色殿の
分家にして実弟なり。その時浪人して、後根岸に住まい根岸の名字を
なのり五郎左衛門といい、帰参して相勤め上町に住そうろう。 また
その後町人に成りそうろう。また上町住みそうろう。 問屋□□にて
浪人いたしそうろう。その後、根岸連談と申し右衛門守様(氏信)に
仕えたが、また町人に成り、上町に住み問屋□□にて浪人致しそうろ
う。その兄である山野金右衛門の屋敷を買取と申しそうろう。」
注) 当時、喜連川城下の上町とは喜連川家の直臣(上級武士)が住まう武家の居住地である。また、上記の
記録中にある喜連川右衛門督氏信の生誕は慶安三(1650)年であり死去年は寛文十(1670)年五月十
四日で、正室の子であった氏信の僅か二十年たらずの生涯を「喜連川義氏家譜」[18]は示しており、この
氏信の死去が、側室の子であった四代藩主喜連川左兵衛督昭氏(29歳)と藩主昭氏の大叔父であった
根岸五郎左衛門崇利および事件後の三人の一代家老達にとって、初めて喜連川家が安泰期に入ったと
判断した時であり根岸五郎左衛門崇利の隠居と白河藩主の本多家から二階堂主殿助又市(36歳)を帰参
させることを決断した時期を示している。
つまり、喜連川家は慶安元年の事件評定の二年後には、先の筆頭家老一色刑部少輔崇貞の実弟一色五郎左
衛門崇利を根岸五郎左衛門崇利と改姓させることで徳川幕府の武家諸法度[19]に触れることなく実質的に喜連
川一色家を再興させていたことが、喜連川家の墓所正面にある一色家墓所と当時、代々の町役であった小林家
に残された住民台帳「小林家代々日記」の記述が示している。 そして、同時にこの記録は二代筆頭家老一色
下野守義久の墓石に刻まれていた、「大禅勘平胤栄」の勘平とは一色(根岸)五郎左衛門崇利のことであった
ことも示している。 また、慶安三(1650)年に喜連川家が一色五郎左衛門崇利を帰参させた理由は、先の慶安
元(1648)年に幕府評定により四代藩主となった喜連川左兵衛督昭氏九歳[20]の実弟喜連川右衛門督氏信が、
押籠中の先代喜連川右兵衛督尊信と正室の間に生まれたことにあることも示している。
さらに、一色刑部少輔崇貞は喜連川家の前身である古河公方家の墓所、古河の徳源過去帳(『古河市史』より)
においても
「歓喜佛 翠竹院松山宗貞居士 一色刑部 明暦二年七月 伊豆大嶋にて死去」
と記録され、喜連川家四代喜連川昭氏と共に弔われている。なお、この古河の徳源院過去帳にはこの一色刑部
少輔崇貞の祖父一色下野守(前右衛門佐)氏久は
「熱田大明神 松香院圭峰周玄居士 一色下野守 慶長六年十二月」
と記録され、喜連川家初代足利国朝と共に弔われている。
一方、旧喜連川町が編纂発刊した明治44年の『喜連川郷土史』の「狂える名君」・昭和52年の『喜連川町誌』の
「喜連川騒動の顛末」のいずれにおいても忠臣として記述された尊信派の高家・梶原家等の墓所・墓石は、喜
連川領内には現存しない。 また、二階堂家は慶応四年(1868)八月十三日に評定があった第二の喜連川騒動
である二階堂事件により、二階堂主殿輔(28歳)はさらし首、二階堂量山(54歳)および二階堂邦ノ助(18歳)は
死罪[21]であり家は断絶となり、 墓所は旧喜連川町内の漣光院に残る。
4 江戸に残る公的文献と記録
東京大学史料編纂所の「史料稿本」は、『人見私記』『万年記』『慶安日記増補』『慶延略記』『寛明日記』『寛政
重修諸家譜』『足利家譜(喜連川)』を出典とし、『及聞秘録』を参考とした以下の綱文(慶安1年12月22日2条)
がある。
「是より先、喜連川邑主喜連川尊信の家臣二階堂主膳助等、高四郎左衛門等と事を相訴ふ、
是日、幕府、其罪を断し、尊信に致仕を命し、四郎左衛門等を大嶋に流す」
この綱文によると、幕府は藩主3代喜連川尊信に隠居を命じ、高野四郎左衛門たちを伊豆大島に流したこと
になる。 また、『徳川実紀』(大猷院殿御実紀)の慶安元年7月3日条には
「喜連川尊信が病に伏せったので、老臣が手配し松平忠次の家医関ト養に治療せしむ」
旨が記されている。松平忠次とは、『喜連川町誌』の「年表」で4代喜連川昭氏の後見人とされる、榊原忠政の
嫡子 で、慶安二年1649年 6月まで白河藩主であった榊原忠次を指し、喜連川尊信の母方の叔父である。
『喜連川町誌』で喜連川尊信の病状確認のため幕府御上使が江戸を発ったとされる
7月11日は、この記録の
8日後である。
5 幕府老中から榊原式部大輔忠次に宛てられた関係文書
一方、阿部忠秋・松平信綱の連名で榊原忠次に出された「江戸幕府老中奉書」 (慶安元年9月7日付)
によると、
55「江戸幕府老中奉書」
一筆令啓候、喜連川右兵衛方押籠置候所、破之被出候と申来之由承候
今程御??半之事候間、先如前々押籠番之者堅付置候様ニ彼家来江
被相達犬候、勿論富地江被参候義者、必無用可然候、若言上有之度事
候ハ?、致書付以貴殿家来被差越候様ニ可被申候、為其如批候、
恐々謹言
阿部豊後守(忠秋)
九月七日(慶安元年)
松平伊豆守(信綱)
松平式部大輔殿(榊原忠次)
概訳)喜連川右兵衛を押籠ているが破り出てしまうと申して来ると聞いている。
今ほども???先が如く、何度も押籠番の者に堅く付置くように、かの
家来に申付けている。もちろん、当地へ参らせる者は必無用可然候
よって、そのような報告もたびたびの事であるので、(白河へ)書付を
致し、貴殿の家来を以って差し向ける様にお願いいたす。以上
恐々謹言(恐れ恐れ謹んで言す)。
と記されている。[22]
また、阿部重次・松平信綱の連名で榊原忠次に出された「江戸幕府老中奉書」 (慶安元年9月12日付)
によると、
56「江戸幕府老中連判署奉書」
一筆申入候、喜連川右兵衛(尊信)家来二階堂可被召寄之候、主殿不有
之候て不成候ハ?、いつれニても似合敷者壱人参候様、ニ可被申遺候
恐々謹言
阿部対馬守(重次)
九月十二日(慶安元年)
松平伊豆守(信綱)
松平式部大輔殿(榊原忠次)
概訳)喜連川尊信の家来、二階堂を(江戸へ)被召(呼んでいる)ので、主殿は
不有(喜連川にはいない)ので不成(主殿は当てられない)いずれにして
も相応の者を一人(喜連川に)参らせるように、申し残す。 恐々謹言
と記されている。[23]
また、阿部重次・阿部忠秋・松平信綱の連名で榊原忠次に出された「江戸幕府老中奉書」(慶安元年11月
18日付)によると、
57「江戸幕府老中奉書」
喜連川右兵衛(尊信)事、狂乱無粉候慮、隠置候義不届候間、領地?可被召上候
異他家義候間被成御有免候、似相之所相囲差置之、息梅千代者幼少之事候間
其方萬事致差?、家来共守立候様ニ可仕詣、被?仰出候
次一色刑部・柴田久右衛門・伊賀金右衛門事者、右兵衛狂乱之段不申上隠置候義
曲事被思召、大嶋江被慮流罪、彼者共男子之分者、所々江御預之事候
然者二階堂主殿者代替ニ付き?、其方被成御預候、可被得其意候 恐々謹言
阿部対馬守(重次)
十月十八日(慶安元年)
阿部豊後守(忠秋)
松平伊豆守(信綱)
松平式部大輔殿(榊原忠次)
概訳)喜連川尊信のことであるが、狂乱は紛れも無いところで、長く隠し置いた
ことは不届きであり、領地没収(めしあげ)のところではあるが、他家の
こととは異なり許すことと成った。似合の所、相囲みこれを差し置くので
(尊信は押込のまま致仕とする)息子の梅千代(昭氏)が幼少の間は、そ
のほうに万事まかすことにする。家来とともに守りたてる様に(上様から)
おうせがあったので、被仰出候(登城するように)。 次に、一色刑部と
柴田久右衛門と伊賀金右衛門のことであるが、右兵衛(尊信)の狂乱を申
し出ずに隠し置いたことは、曲がりごとであると思うので大嶋へ流罪とし
、かの者の嫡子(男子之分者)は、所々へ御預かりの事となった。
したがって、二階堂主殿者は代替(二階堂主殿の嫡子)であるので、その
方で預かることと成った。その意を得ていただきたい。 恐々謹言
との達しが下されている。[24]
6 喜連川家に残された関係文書
「喜連川義氏家譜」[25]
八代前右兵衛督尊信代、正保四亥年家来騒動仕、慶安元子年、御評定所御裁許ニて家老一年(色)刑部・伊賀
金右衛門・柴田久右衛門、右三人大島え遠島、二階堂主殿助奥州白川榊原家へ御預、相木与右衛門摂州尼ケ
崎青山家へ御預、一色妻子とも泉州岸和田岡部家へ御預、伊賀妻子は尼崎青山家へ御預、柴田妻子は越後
村松家へ御預、右兵衛督尊信隠居被 仰付、嫡子梅千代七歳ニて家督、幼年候間、
親類榊原式部大輔忠次え後見被仰付之由、所替被 仰付候儀は無御座候由申伝候得共、騒動之始末之年久敷
儀ニ付、旧記共虫食ニ相成、巨細ニ相分不申候
右一(市)ケ谷月桂寺より問合之節、喜連川家来より文書也、月桂寺申伝候は、高膳 (尊信)乱心せしを家老等
をもかくし通し、例病気のよし申候て久しく参勤なし、高膳近習の士、高某・梶原某、?の咎めありて追放しけれは、
此両人 公儀へ申出けるゆへ御目付を遺され、乱心をかくせしにより遠流に処せられしといふ
続撰系図
家臣等不正の事ありて一色刑部・伊賀金右衛門・柴田久右衛門、大島になかされ二階堂主殿助を本多能登守に、
相木与右衛門を青山大膳亮にめし預られ、高膳も請さるに致仕を命せらる趣、尊膳(高膳)か狂気せしを家臣等が
かくして年を経しに、追放されし家士か愁訴せるむねありて、御目付花房勘右衛門・三宅大兵衛を遺されて見せし
められ、事あらはるゝによってなり
「本多正純から古河鴻巣の高修理亮への書状」[26]
以上、
従義親様御書致頂戴候、乃 御老母様儀ニ付 御参府被成度由御座候得共、
御煩故其儀無座候、少も不苦御事ニ御座候間、御延引可被成候
将跡素麺一折・鮭二尺送被下候、過分至極ニ奉存候、此等之趣可然様ニ
御披露候所、仰候、恐々謹言
本多上野介
九月二十四日 正純(花押)
高修理亮殿
訳)義親様より御書頂戴いたし候、よって御老母様儀につきて、御参府なされ度き由
御座候えども、御わずらいゆえ、その儀御座なく候、少しも苦しからざる御事に
御座候、御延引きなさるべく候、はたまた、素麺一折・鮭二尺送りくだされ候、
過分しごくにぞんじ奉り候、これらの趣しかるべき様に御披露候ところあおぎ候、
恐々謹言
以上
注)喜連川義親から徳川秀忠の側近(老中)であった本多正純に、江戸に参府するとの書状があったが、
御老母(足利氏女)様が病気中でもあるので、なんの気兼ねなく、江戸参府を引き延ばしになられたら
よい。という手紙が近習の高修理亮に宛てられた。
この文書はは、このころ(元和2年〜5年)高修理亮はまだ喜連川城下には無く、古河鴻巣御所にて
氏女、義親、幼少の尊信に仕えていたことを示している。
「土井利勝から筆頭家老一色刑部への書状」[27]
猶以印判御免可被成候、以上
尊書忝致拝見候、改年之御慶珍重納候、隋 年頭之御礼ニ御参向可被成候処ニ
旧冬ヨリ御煩敷御座候故、為御名代二階堂主殿助方を以被仰候、奉得其意候
委細之段老中より可被申達候、然者、為御祝儀子十被下置候、是被為入御念候段
過分忝奉存候、此等之通宜預御心得候 恐々謹言
土井大炊頭
正月六日 利勝
一色刑部殿
訳)尊書かたじけなく拝見いたし候、改年の御慶び珍重申し納め候
、
ついで、年頭の御礼に御参向なさるべく候ところに、旧冬より御わずらわしく御座候
ゆえ、御名代として二階堂主殿助方をもって仰せられ候、その意を得奉り
候
委細の段、老中より申し達せらるべく候、さらに、御祝儀として雉子十下し置かれ候
まことに御念入らせられ候段、過分かたじけなく存じ奉り候、これらの通りよろし
く
御心得に預かるべく候、恐々謹言
猶以て、印判御免成らるべく候、以上
上記の「委細の段、老中より申し達せらるべく候」から土井利勝が大老になった寛永15年(1638年)以降から
死去した寛永21年(1644年)までの正月六日付けの手紙である。喜連川尊信はこの期間から病気で江戸へ
の年始の挨拶は二階堂主殿助などの家老が永く、慶安元年(1648年)までの最低四年〜十年は藩主尊信の
代行者として勤めていたことを示している。
また上記の「二階堂主殿助」と『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」にて奥州白河城主にお預けとなった二
階堂又市が同一人物であるとするならば、彼は一色派であり三家老の一人でなければならない。
一方「喜連川騒動の顛末」が示すように二階堂又市が高野修理・梶原等の尊信派であるとするならば、この
又市は父である二階堂主殿助等三家老および自分を含む家族等を幕府に罪人として訴えたことを意味する。
そして、同時にこの文書は正保四(1647)年より前に書かれたものであることを意味し、又市の父となる二階堂
主殿助は正保四年にはすでに死去していた可能性を示すものとなる。
「松平正綱からの書状」[28]
以上
従 右兵衛督様尊書、殊蕨之粉壱箱致拝受候、誠御墾志添次第ニ奉存候
此等之趣可然様ニ御取成所、仰候、恐々謹言
松平右衛門大夫
二月二十八日 正綱(花押)
一色刑部少輔殿
二階堂主殿助殿
訳)右兵衛督(尊信)様より尊書、殊にわらびの粉一箱、拝受いたし候
誠に御墾志添なき次第にぞんじ奉り候、これらの趣、しかるべき様に
御取成すところ、仰ぎ候、恐々謹言
「神尾元勝からの書状」[29]
一色刑部少輔様 神尾内記
二階堂主殿助様 元勝
人々御中
一筆致啓上候、然者、尊信様来二日ニ御出仕被成候付、私式も能出、
御馳走可申上由奉得其意候、随 任到来さざえ壱折進上仕候
可然様御披露奉頼候、恐皇謹言、
極月二十九日 元勝(花押影)
訳)一筆けいじょういたし候、しかれば尊信様来る二日に御出仕なされ候
につき、私もまかり出で、御馳走もうし上ぐべきゆえ、その意を得奉り候
ついで到来にまかせ、さざえ一折を進上仕り候、しかるべき様、ご披露
たのみ奉り候、恐皇謹言
「松平忠次からの書状」[30]
為歳暮之御祝儀御使者、殊更杉原十束・雉子十把拝受仕、添奉存候
致登城御使へも不能面談候、御参勤不存候、早々自是不申上致迷惑候
可然様被仰上可給候、恐々謹言、
松平式部大輔
極月二十八日 忠次(花押)
一色刑部少輔殿
二階堂主殿頭殿
訳)歳暮のご祝儀として御使者、ことさら杉原十束・雉子十把拝受つかまつり
かたじけなく存じ奉り候、登城致し御使へも面談あたわらず候、御参勤存ぜず候
て、早々これより申し上げず迷惑いたし候、しかるべき様おうせ上げ給うべく候
恐々謹言
7 『及聞秘録』での喜連川尊信に関する記録
『及聞秘録』[31]の記録
喜連川左兵衛督乱心之事 家老三人遠流之事(原文)
喜連川左兵衛督尊信ト申ハ関東ノ管領足利左馬頭基氏ノ末孫也、足利家段々衰微シ
将軍義輝卿三好カ為二亡シ玉ヒシヨリ諸国ノ管領公方家ノ威勢衰へテ、此尊信僅二
野州喜連川ニテ食禄シ被レ申、喜連川殿ト云リ、然二尊信承應年間中乱心セラレル
及テ家老一色刑部、二階堂主殿、柴田某等合心、尊信ヲ入座布牢へ、公儀へハ病気
之由ヲ申上、久々無参勤、政事ハ三人ノ家老共相談シテ諸事能様二計ヒナル、後ニ
尊信近習ニ被召仕ナル高四郎左衛門、梶原孫次郎ト云者有、此両人不届ノ事有ニテ
一色、二階堂、柴田三人相談之上ニテ右両人を追放セリ、然ルニ両人思ヒナル今度
我々ヲ追放セシハ三人ノ家老共ノ所為也、何ト準等シ令行罪, 蜜ニ武江ニ来リ、一
通之目安公儀へ差上ル、其目安ノ大意ハ、主人喜連川左兵衛督、家老共三人ノ計ヒ
ニテ左兵衛督ヲ乱心ト申、座布篭ヲ構へ入置、知行所ノ政道家中ノ仕置三人ノ家老
共心ノ侭ニ仕、私共両人ヲ無不義追放申付候
此段、御詮議可被下トノ趣也、依テ其貫否御詮議ノ為、御目付衆両人ノ下野国喜連
川へ下向アリ、尊信ハ御目付衆下向之由ヲ?テ、如何被思ケン、座敷牢ヲ這出、無
何国へ逐電セラル、家老共大ニ驚キ諸方手分シテ尋ナルニ、ソ暫クニ捜出、又座布
牢へ押入、厳ク番人ニ守ラセナル、御目付衆下着アレハ則、尊信屋形へ移シ尊信へ
令封面別テ、其日ハ尊信不出来ナレハ不能出牢篭外ニテ、御目付衆封面アリシニ、
乱心ニ紛レナケレハ江戸へ立帰リ尊信事乱心無紛由ヲ言上ス
依テ家老三人ヲ被召評定所へ今度高四郎左衛門、梶原孫次郎訴申ニ付御目付両人被
遣ニ、喜連川乱心ノ寛否御吟味之処ニ、尊信乱心無紛段、委細達ニ、上聞加様ナル
儀ヲ、只今迄病気ト申立、乱心ヲ押隠シ申条不届ニ被思召之旨、被仰出ノテ三人共
ニ、伊豆ノ大嶋へ遠流被仰付右三人ノ子供ハ所々へ御預也
一色刑部嫡子 相木与右衛門 妾腹
右ハ摂州尼崎ノ城主、青山大膳亮へ御預也
同 人 二男 一色左京
同 三男 同 八郎
右両人ハ泉州岸和田ノ城主、岡部美濃守へ御預
二階堂主殿嫡子 二階堂某
右ハ奥州白川ノ城主本多能登守へ御預
柴田某嫡子 柴田 某
右ハ越後国新發田ノ城主 溝口出雲守へ御預也
?テ三人ノ家老共伊豆ノ大嶋へ着船シ暫ク居住シヌルカ、何レモ老人ナレハ無程三
人共ニ病死ス、年経テ大猷院様(徳川家光)、御十三回忌之時、大嶋ノ流人モ多々
御免アリシカ三人共ニ病死ナレハ無其儀ニテ、 三人ノ者ノ子共ヲ御免ニテ思々ニ
主取ス
中ニモ一色左京ハ名高キ者ノ子ナレハトテ水野監物忠善ニ百人扶持ヲ賜り客人分ニ
被呼出仰、此一色氏ト云ハ清和天皇ノ後胤ニテ、高家ノ一人タリト云へ、氏勢ヒ微
ナレハ思フニ、不叶属相州北条家之幕下、天正十八年豊臣秀吉公、北条父子ヲ攻亡
シ玉フ時、一色モ浪々ノ身トナリシカ、何トソ豊臣家へ奉仕シテ家ヲ起サント思ヒ
シカ、関八州ハ家康公ノ御料トナレハ、数代関東居住ノ名士、皆々御味方ニ添リナ
ル、此時一色ハ累代ノ高家也トテ被召シカ、一色ハ兼テ秀吉公へ仕へント思ヒシ故、
不候仰ニシテ申上ハ、仰奉存候へ、年寄馬ノ乗下リサヘ唯成身ニ候へハ、御免可被
下云テ不添秀吉公へモ有故障、御目見タニセサレハ、浪々シテ終リス、依之、彼子
孫微少ノ身トナリ喜連川ノ家臣トナリス、此一色左京ニハ無男子断絶スト或、説ニ
妾腹に有(相木与右衛門)、後御當家へ奉仕スト云々
喜連川左兵衛督乱心の事 家老三人遠流の事(現代文訳)
喜連川左兵衛督尊信とは、関東の管領足利左馬頭基氏の末孫である。 足利家は代々衰え
将軍足利義輝卿が三好の為に殺害されたことにより、諸国の管領公方家の威勢も衰えこの
尊信の時は野州喜連川に僅かな所領を持つのみで喜連川殿といわれていた。
承應(正保?)年間、喜連川左兵衛督尊信は、「狂乱の病」にかかった。 よって、一色刑部、
二階堂主殿、柴田某の三家老は、互いに合心して尊信を座敷にて「押し籠め」とし幕府には、
尊信は、「病床中」につき長く参勤できないが三家老の合議のもと藩政及び仕置きを行って
いると報告していた。 ところが、その後、尊信の近習として仕えていた高四郎左衛門と梶原
孫次郎と云う者がおり、この両人に不届があったので三家老は合議の上、この両人を追放
した。
その後、この両人は、今度(このたび)われ等を追放したのは三人の家老の所為であるとして
内密に江戸に来て一通の目安を公儀に差出した。 目安の大意は「一色、二階堂、柴田の
三家老が私事の為に君主尊信を「狂乱の病」と偽り座敷牢をもうけて「押し籠め」とし、藩政と
家内の仕置を三家老共の心のままにいたしており、いわれのない私共両人を追放したので
公儀において詮議してほしい。」というものであった。
早速、幕府目付衆が調査の為、両人(高、梶原)の喜連川に下向したところ喜連川尊信は
何を思ってか座敷牢から抜け出し行方不明になってしまったので、3家老は驚き行方を聞き
廻り、尊信をやっと探し出し再度、押籠め厳しく番人に守らせた。 幕府の目付衆が着くなり、
尊信を屋形に移し面談しょうとしたが、その日、尊信は調子が悪く座敷牢から出すことが出来
ないので目付衆は別れて面談した。そして、「尊信の狂乱は紛れない。」ことを確認し江戸に
立ち帰り公儀に報告された。
後日、三人の家老を評定所に呼び高四郎左衛門と梶原孫次郎の訴えについて御目付が
両名(高、梶原)を吟味した所「喜連川(尊信)狂乱の委細に紛れない。」ことを認めた。
お上は、これを聞かれて「かようなる事を只の今まで病気と報告し尊信の狂乱を幕府に隠し置
いていたことは不届きである。」と思い召くゆえ三人共(一色刑部、二階堂主殿、柴田某)は
伊豆の大嶋に流刑とし、三人の子供はそれぞれ諸大名預りとした。
一色刑部の長男 相木与右衛門(妾腹)は摂州尼崎城主青山大膳亮(幸利、譜代)御預かり
同じく次男 一色左京(嫡子)と三男一色八郎は泉州岸和田城主岡部美濃守(宣勝、
譜代)御預かり
二階堂主殿の嫡子 二階堂某は奥州白川城主本多能登守(忠義、譜代)御預かり
柴田某の嫡子 柴田某は越後国新發田城主溝口出雲守(宣直、外様)御預かり
三人の家老達は伊豆大島に船着し暫く居住していたが何れも老人であり程なく共に病死した。
年を経て、大猷院様(徳川家光)の十三回忌(1662年)の時大嶋の流人も多くが赦免となった。
三人共(三家老)はすでに病死であったのでその儀は出来なかったが三人の子供を赦免しそれ
ぞれ主取とした。中でも、一色左京については名高き者の子であるので水野監物忠善に百人扶持
を賜り客分扱いで仰呼された。この一色氏というのは清和天皇の後胤であり高家の一人といえる。
相州北条家の幕下に属していたので天正十八年の豊臣秀吉公が北条父子を攻め滅ぼした時、
一色も浪々の身となり何とか豊臣家に仕えて家を再興しょうと思っていた所、関八州は家康公の
所領となったので多くの関東在住の名士は皆家康に仕えた。
この時、一色を累代の高家として家康公から召誘いがあったが「すでに年老いており馬の乗降さえ
やっとの身であるので」 と丁重に辞退した。 しかしその後、秀吉公に見目しようとした時には秀吉
公はすでに体調が悪く仕官は叶わず彼の子孫は喜連川の家臣として微少の身であった。その後、
一色左京には男子がなく断絶したといわれる。説には兄の妾腹であった相木与右衛門については
後御当家へ仕官したといわれる。 (以上訳)
8 五人の百姓家の家伝書「喜連川御家」事件発生から江戸での直訴準備まで
77 寛文十一年 喜連川家由緒書(この文書の表題は下記の「喜連川御家」)
喜連川御家
一、右兵衛督尊信公、寛永七年(1630)に古河より御引キ移被遊、同拾八年(1641
)ニ御上意之由干時御荒キ御生得故一色殿・柴田殿・伊賀殿主意計略ヲもって
御一間ヲ存ひ御押込申上候、同拾九年(1642)左兵衛督様(昭氏)御誕生被遊候
正保四年(1647)平三郎村伊右衛門義ハ別て訳有之、□又葛城村平左衛門、半左
衛門義も上総より御供之者共ニて由緒有之者之儀、致如何此節御伺をも不申上哉
御尋之処、一色殿・柴田殿等取計ニて御城内御差留ニ相成趣申上候依之
御内々ニて夜中ニ御伺に能出候様、梶原平右衛門殿より御内通有之候付忍能出候処、
御同人御案内御立合ニて蜜々御直ニ、御内用蒙 上意ヲ、夫より江戸表え発足向て、
其頃小入村介右衛門・東乙畑村ヲ長左衛門、此両人も古百姓と云志も頼母敷者共故、
御撰之上御引添、五人同様ニ江戸表え忍能登り、此節大切之御用被仰付候て夫より
江戸表ニ至、御一門様え御上意之訳御伺仕候様被仰渡候ニ付、先達て高野修理殿
、池之端ニ御浪人ニて被成御座候処え御相談仕、島田丹波守様、松平伊豆守様え能
出御伺申上候処
御公儀様より之御上意ニは無之候、然共,百姓能登候段御不害(審)ニ被思召上、
若造成証拠ニても有之哉之御尋、百姓ニて訳可有之者と相見候由、旁々御尋ニ付、
面々由緒書委細ニ相認て差上申候
其内、替延引能帰り候処、上より厚キ□□御仁恵之梶原平右衛門殿より 葛城
村両人之者共ニハ、右は知行も与候末之儀ニ候得ハ殊ニ領内一統割地二て、難儀
之趣御沙汰有之、若し此節、首尾能御相勤候ハ、追て御沙汰可有之、趣被仰渡候
、其内、梶原平右衛門殿御浪人被成、
此節、御味方連判之内心替候者も有之候様二相見、互ニ心隔候故障ヲ生シ、□延
引ニ相成候処
9 五人の百姓家の家伝書「喜連川御家」直訴から幕府評定所による解決まで
慶安元年(1648)之春、二階堂又市様・武田市郎右衛門殿・猪野嘉右衛門殿・高瀧
清兵衛殿・小関嘉之介殿・高野修理殿・梶原平右衛門殿御人数故、御差図ヲ得て武
田殿・高瀧殿御当番之節、御側近被為召、御書付被下置候、御案文ニ曰
一、此度江戸用事申付候、首尾能於相達は、本田地持無役有相違間敷者也[32]
尊信
正保四年八月十日(1647年)
伊右衛門え
平左衛門え
介右衛門え
長左衛門え
半左衛門え
右之通り御書付被下置候て尊信公様為御名代御一間より御忍奉出、御供之諸士、富
川雲右衛門・星佐右衛門・忍田新左衛門・善左衛門所左衛門・清左衛門・御草履取
り重三郎
一、御身方之御家中五人者、御誕生以来此節ニ至、心痛之事共に難侭、筆紙儀共砕
肝胆不義忠義之境難顕筆語委事口伝、五人之百姓同様ニ江戸表え御奉仕、此節
跡ニて武田殿・高瀧殿御浪人被成候
同心之衆江戸御供之者共、御家老中より同心衆大勢被差出、境目より皆々打放
候様被仰付候様子相聞候由、親類共より人ヲ出為知候故、途中より一先、此場
退候方可一同及相談退申候燃候由、重三郎其様子不存、御当所え参り候て様子
承、蓮光院え欠込候処、不被成御免、御成敗被成候由[33]
江戸表ニては修理殿・平右衛門殿・五人之百姓、御万姫君様奉附添、御老中酒
井雅楽頭(忠清)[34]様、松平伊豆守様、土井大炊頭[35]様、阿部豊後守(忠
秋)様、御評定所御役人酒井紀伊守(忠吉)様・杉浦内蔵充(正友)様・曾根
源左衛門(吉次)様・伊丹順斎(康勝)様、御一門之方は榊原式部大輔(康政)
様、島田丹波守様、江戸御手引は早川内膳正様、今川刑部(高如)様、吉良若
狭守(義冬)様、御取持之内、杉浦内蔵充様え能出、委細ニ□□御万姫様被□
仰上候、修理殿ハ池之端町名主大家に御預ケ相成、平右衛門殿ハ御旗本衆え御
預ケ相成
尊信公様、無心許被為思召、御飛脚同心、覚左衛門、為御登被遊候、□□御万
姫君様、五人之者奉附添御評定所御役人酒井紀伊守様、杉浦内蔵充様、曾根源
左衛門様・伊丹順斎様え御預ケニて町家ニ被差置候
同年(慶安元年1648)七月十一日喜連川え之□御上使御三人、同十三日ニ御下着、
甲斐庄喜右衛門[36]様野々山新兵衛様、加々爪弥兵衛様、御宿は慈光寺、源左衛門
、新左衛門、御馳走人ニハ黒駒七左衛門殿・渋江甚左衛門殿、大草四郎左衛門殿、
同拾七日喜連川御立被遊、於江戸表ニて□□御万姫君様五人之者度々被□召出於御
評定に御尋被遊候ニ付、御国に元之御様子不残申上候、御上使様よりも御相違無之
趣被□仰上候ニ付、
喜連川御家老一色刑部・御子息左京殿・石堂八郎殿・伊賀金右衛門殿、御子息宗蔵
殿・柴田久右衛門殿、伊豆之大嶋え流人被□仰付候、御子息方ハ御大名・御旗本方
え御預ケニ相成、此節二階堂家之儀御尋有之ニ付、未若年之旨申上候得ハ、拾五歳
若年トハ乍申家柄之義、今度之儀不行届之儀ニ思召シ白川城主本多能登守(忠義)
様え御預ケニ相成[37]、御附同心金平被□仰付能越候
御万姫君様えは五人之者奉附添、御老中・御一門・御評定所御役人方え御礼イ廻り
被遊、御国元えは御奉書、同廿五日御下り□□尊信公様、御押込之間ヲ御出被遊候
、其節之御家老は黒駒七左衛門様、大草四郎右衛門様、渋江甚左衛門様
御附之諸士□五人之者御共、□□御万姫君様奉御供十一月廿六日能下候之処、御登
り之節之同心衆之儀及聞、伊賀殿・一色殿・柴田殿被申付置候趣致承知ヲ追々様子
御味方之者ヨリ内意有之ニ付、能下候ても無心元[38]五人之者致内談先重、御用首
尾能相勤候得は右□墳被相晴候事も可有之と存、家内召連一家共方え引退候処、御
上意ニ早速可能帰る旨、再三御座候得共、若一色殿・伊賀殿・柴田殿え荷担之者、
両三人も相見候得は無心元、致延引趣申上候ニ付、甚御上様ニ不届二被□思召上暫
ク延引仕候
□□梅千代様御七歳之時[39]左兵衛督昭氏公と奉申上候、江戸表え御登被遊候、御
供ニハ大草四郎右衛門様、御老中御廻被遊、□□尊信公様ニは江戸御参ン府ハ不被
遊候、是より□□昭氏公様御代ニ相成、□□御万姫君様ニは佐久山福原内記(資敏
)様え被為入候
10 五人の百姓家の家伝書「喜連川御家」事件解決後〜二階堂主殿又市の帰参まで
尊信公様承応二年(1653年)三月十七日御逝去被遊候ニ付、五人之者退居候得共、
龍光院様え相詰メ如先例発心仕、御見送り可仕旨達て龍光院様申上候得共未先達て
首尾能江戸より能下候□伊賀殿・一色殿柴田殿被下置候同意之者・同心之内に三人
有之趣不害(審)ニ存無沙汰ニ引退候故数度帰参之義被仰付候得共、延引致候、
此節ニ至相願出ても御延引之由被□仰下候、至極御□成御儀ニ御座候得共、私共も
是え能出候儀は覚語(悟)相究能出候義、□御聞済無、御座候は不及是非□、専念
寺え能越、致剃髪龍光院様え相詰、御七日中御焼香申上候
関 伊右衛門無心
飯島平左衛門周良
岡田助右衛門宗喜
簗瀬長左衛門全久
金子半左衛門清庵
右之者共御老中より御内意有之那須雲巌寺・森田御領分田野倉村安楽寺以両寺、御
控訴申上候得共、更ニ御聞済無御座候故、無是非、明暦三年(1657年)江戸表え能
登り松平伊豆守様え能出御書付頂戴之仕万治四年(1661年)以書付御控訴申上候ニ
付寛文二年(1662年)二帰参被仰付候、御供之諸士・同心衆之義も同八年(1668年
)帰参被□仰付候
寛文九年(1669年)三月拾七日瑞芳院殿(尊信)様、御法事之節於龍光院ニ、□□
右兵衛督様御前え被□召出御目見被□仰付、御流レ頂戴之仕候、先祖持分御書付之
通、御相違無之旨、其上、先達江戸入用金可被置候由を逸見主計殿・海上九郎左衛
門殿、御取次ニて被□仰渡候、□又当座為御褒美、存生中扶持方、被下之相果候者
えは子共籾壱俵被下、右之御定は重て被□仰付候由之処
寛文九年(1669年)ニ高瀧六郎殿・高瀬九郎右衛門殿帰参被、□仰付、同拾年(16
70)五月二日左兵衛督様御遠行被遊候、二階堂主殿様御帰参之願、右五人之百姓御
願上候処ニ、□□御所様より□御公儀様えお願被遊、大森信濃守(頼直)様、御取
持ニて同拾壱年(1671年)ニ白川之城主本多能登守様より御帰参被遊候、其節、則
為御迎、葛城村平左衛門能越御供仕能帰り候
右一件□邪正分相治候て後、□御老中様方奉始メ御役人様方右五人之者共士分之末
トハ乍申、今度之勤功、一民間ニ下り、稀成忠節之義共御称美被遊、松平伊豆守様
より、至り末々、此一紙於差出ては百石宛可被下置候由御書付被下能下候節、五人
之者色色致評義、万一至り後代能出候てハ、年来之忠節も空仕候道理、却て不宣心
得違も可有之哉と相談之上、栗橋川ニて引きさいて流失仕候、右之通り相違無御座
候間、代々不取失様ニ所持仕候、以上
平三郎 関 伊右衛門
葛城 飯島平左衛門
同 金子半左衛門
小入 岡田助右衛門
東乙畑 簗瀬長左衛門
11 五人の百姓家の家伝書「喜連川御家」百姓達が松平伊豆守に提出した由緒書
一、由緒書差上申可旨被仰渡候ニ付、書上奉候
一、塩谷家縁家ニ御座候ニ付、奥方化粧免ト致□秀吉公より被仰付能有候処、御世
続無之候ニ付、上総より惣御家中、御引越ニ相成、塩谷家中共、勝手次第能出
候者も有之候、□仰渡候、関和泉義ハ一人在士ニ被□仰付、外之者共ハ他え能
出候者も有之候、百姓ニ相成在宅仕候者も有之候
以上
平三郎村 関 伊右衛門
一、上総より御引払之節、後家来中不残佐野信濃守甥、佐野越後、身長ヶ六尺弐分
、大力ニて武芸ニ達シ候故、防方被仰付候、塩谷家家来之儀御腰被下、何方成
共勝手次第立退可旨被、□仰渡候、右ニ付、他え能出候者有之、百姓と相成候
者も有之、御当領徘徊仕度、御願申上候処、左之通被□仰付候処、塩谷殿対談
もなく百姓ニ相成候趣甚立腹致、近村ニ居住致、那須家之浪士共、かたらる仇
をなし、居付百姓難義致、古主故手向難成、難儀之御願出候ニ付、防方被□申
付相防候処、塩谷殿相叶かたく其故貴様防之上ハ領地仇致間敷候趣、入江野左
近と申来候、其節塩谷殿え対顔致、近村居られ候てハ不宣候、依之小山判官之
末え小山小三郎、当時常陸ニ居住候処、是に御越可被成旨申候者有之、塩谷殿
□ニ存常州え同道被致候、以上
葛城村
飯島平左衛門
左三人之者共ハ、□尊信公様御乳母の子ニ御座候[40]、此度御家来ニ御取立可
被下候、此者武士勤之義ハ相成兼候、依之百姓御願申候処、塩谷家来末々百性
名跡ニ相成者之末御座候、此度義、切内両人え申出、御味方仕度段申候ニ付能
出申候、以上
葛城村 半左衛門
小入村 介右衛門
東乙畑村 長左衛門
右五人之者、松平伊豆守様より被□仰渡候趣、両人は百姓とハ偽候ト相見申候、
依之由、緒書キ差出可申旨、被□仰渡候ニ付、書付左之通
両人之儀至極□ニ有之、三人之者共ハ気毒、一心宣敷者共ト被□仰渡候
酒井雅楽頭様
松平伊豆守様
土井大炊頭様
阿部豊後守様
御評定所役人中ニハ酒井紀伊守様・杉浦内蔵充様・曾根源左衛門様、伊丹順斎様
、被□仰渡候、
右ニ付能下り、□□御万姫君様御七歳[41]ニて、江戸表御共仕五人は一統被□仰
出、国元之趣占ニ申上奉候、以上
一、松平伊豆守様より御書付被下置両人は、何時成共、右之書付持参致候上ハ、百
石ニて御召抱可被下趣御書付拝領仕候、以上
月日
(葛城 佐野正司家文書)
正保四(1647)年に起きた御家騒動についての記事。喜連川尊信を助けた五人の
百姓の由緒に記録の重点が置かれている。
(解説 国士舘大学非常勤講師 泉 正人)
12 脚注
1.佐野家の家伝書「喜連川御家」の冒頭記述には「右兵衛督尊信公、寛永七年に古河より
御引キ移被遊、同拾八(1641)年ニ御上意之由、干時御荒キ御生得故、一色殿・柴田殿・
伊賀殿、主意計略ヲもって御一間ヲ存ひ御押込申上候」との記述がある。 しかし「喜連
川騒動の顛末」ではこの記述は無視され「正保四(1647)年夏、生来丈夫な方ではなかった
尊信は重い病気にかかった。 これをとらえて一色刑部は配下の伊賀金右衛門、柴田久
右衛門らと共謀し、主君尊信を「狂乱の症発す」という理由で城中(慈光寺ともゆう)に幽閉
してしまった。」と記述されいるため、 この昭和52年の「喜連川騒動の顛末」の執筆者は
いかなる出典をもって「狂乱の症発す」と記述したのかが疑問視されている。
「干時御荒キ御生得故」が佐野家の家伝書「喜連川御家」の藩主尊信の押籠の理由である
ので「狂える名君」や「喜連川騒動の顛末」の執筆者は「狂乱」の二文字が記録された、喜連
川家と幕府や江戸に残された「尊信の狂乱は間違いない」とし、三家老による高・梶原の追放
と直訴、幕命による尊信の押籠めの継続と隠居、そして榊原忠次の後見による昭氏(七歳)へ
の代替わりを記する他の古文書を当然にして眼にしていたはずである。
2.『寛政重修諸家譜』によれば榊原忠政は、喜連川騒動の40年前の1607年10月にすでに死去
している人物
3.埼玉県幸手史編纂委員会出版『幸手一色氏』に載せられた「一色家家譜」の記録より
4.この高野修理とは高修理亮(四郎左衛門)のことであると思われる。この昭和52年に旧喜連
川町が編さんした『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」の基礎史料である「喜連川御家」を
寛文十一年(1671年)の事件の23年後の日付を記し書き残した旧名佐野越後こと飯島平左
衛門は旧塩谷家家臣であった。 彼の同僚であり、同様に町人となった高野鴨左衛門と百姓
となった高野加茂左衛門が『喜連川町史』第三巻資料編3近世に載せられた「長百姓書上」
という古文書にて確認できる。 高(こうの)という旧足利家家臣の姓を耳で聞き、古くからの
知人である高野加茂左衛門等の姓と書き違えた可能性は否定できない。 一方、同じく『喜連
川町史』第三巻資料編3近世に載せられた古文書に高野万平なる家臣? 厩番六石取りの
記録は確認できる。なを、『喜連川町誌』で開示されている町史編纂委員の中に高野加茂左
衛門の子孫と思われる高野姓の人物が確認できる。 百姓家の家伝書「喜連川御家」の著者
による、高(こうの)と高野(こうの・たかの)の記録違いによる、「喜連川騒動の顛末」執筆者
の思い違いである。
5.この「喜連川騒動の顛末」を執筆した担当者が基礎史料とした百姓家の家伝書「喜連川御家」
の記録では、評定時の万姫は七歳と記録されている。つまり、執筆担当者は万姫を昭氏の姉
として、書き換えを行っていた。「喜連川御家」の最終記述部の確認要
6.「城代家老」は『喜連川町誌』の表現による。当時喜連川藩に城はあったものの、火災と快便性
のために山下に館を設けており、藩主は常時ここに在したため 実質的には「筆頭家老」である。
7.『喜連川町誌』では、3代尊信の正室(那須資景の娘)の子万姫(10歳)もこの直訴に加わったと
しているが、『喜連川郷土史』ではこのことは記載されていない。
8.楠正成の末孫といわれる幕府御弓頭四千石大身旗本であり当時は長崎奉行職であった。
9.昭和52年の喜連川町誌編さん委員会の「喜連川騒動の顛末」を執筆した担当者が基礎史料とした
百姓家の家伝書「喜連川御家」の記録を都合よく解釈した記述である。「喜連川御家」の原文では
「江戸表ニては、修理殿・平右衛門殿・五人之百姓、御万姫君様奉附添、御老中酒井雅楽頭様・
松平伊豆守様・土井大炊頭様・阿部豊後守様」と記録されているが、事件評定の四年前にすでに
死去している大老土井大炊頭(利勝)が、まだ若年寄である酒井雅楽頭(忠清)の名が記録されて
おり、元武士であり家伝書が書ける、恐らく旧塩谷家の祐筆であったと思われる佐野越後こと飯島
平左衛門が名を上位者から記録する礼儀を知らないはずもない。 そこで、昭和52年の担当者は
酒井忠勝(能登守)・松平信綱(伊豆守)・安部忠秋(豊後守)と修正し、最後に阿部重次を独自の
判断で追加したものである。 しかし、自等共に慶安元年の幕府評定に参加していたとした五人の
百姓が飯島平左衛門を筆頭に署名するかたちで、事件の23年後の寛文十一年に執筆した家伝書
「喜連川御家」とは自分達の子孫に都合よく伝えるための武勇伝ではあるが、事件を聞及んだ者の
記録としての価値は否定し
えない。参考『喜連川町史』第三巻資料編3近世(販売中)の「喜連川御家」
10.酒井忠吉は、大老酒井讃岐守忠勝の実弟で、高家吉良義冬の伯父にあたり、訴えられた一色刑部
と同じく足利家の親族となる。
11.『喜連川町誌』による。『寛政重修諸家譜』によれば、本多能登守(本多忠義)が白河藩主であった
のは、喜連川騒動事件解決の翌年慶安二年(1649)6月からであり、それまでの白河藩主は榊原
忠政の嫡子榊原忠次(大須賀忠次、松平忠次とも)であった。 つまり、四代喜連川昭氏(七歳)の
後見人は榊原式部大輔忠次が正しい。
12.喜連川の専念寺にある昭氏の生母(一色刑部の娘で、 3代尊信の側室)の墓石に刻まれた死去年
は昭氏生誕の一ヶ月後の寛永十九年(1642年)十二月二日と刻まれている。「欣浄院殿深誉妙心
大姉」と号する。 つまり、4代昭氏は事件のあった慶安元年(1648)に家督相続をしている。
13.『喜連川判鑑』(喜連川昭氏本人が最後に記載させた、足利家系図)でも昭氏の生誕日は、寛永十九
年十月二十四日、生母は欣浄院殿であり、昭氏の相続は事件のあった慶安元年である。後見人は
徳川家光(大猷院)の命により榊原式部大輔忠次と明確に記録されている。
14.『寛政重修諸家譜』によれば、榊原忠政は、喜連川騒動の40年前の1607年十月に死去した人物。この
時期の白河藩主は孫の榊原(松平)式部大輔忠次。
15.もとは旧領主である塩谷家の家臣であったが喜連川家の入領により、浪人した
り百姓・町人となって
いた彼等が老中松平信綱からの100石の家禄を捨てるなどあまりにもよくできた美談である。当時の喜
連川家家臣の家禄は微禄で家老であっても70石〜200石である。
16.ちなみに一色刑部の姪の子にあたる四代藩主喜連川右兵衛督昭氏の戒名は「令徳院殿孝山恭公大
居士」である。
17.さくら市発刊『喜連川町史』第三巻資料編3近世の掲載文書「小林家代々日記」(住人台帳で林家は
代々町役)より
18.現さくら市発刊『喜連川町史』第三巻資料編3近世(P219〜P220)に載せられた旧喜連川町教育委員
会所蔵の文書
19.『武家諸法度』『禁中並公家諸法度』『社寺諸法度』の草案者はこの喜連川一色家と同族である丹後
一色家末裔の一人、金地院(一色)崇伝である。 また、足利一族として、さらに喜連川家当主の代行
として年賀の挨拶の為に、毎年江戸城に上り将軍に目通りできる喜連川一色家は江戸においても、
崇伝やその従兄弟の旗本一色範勝、高家旗本となった幸手一色家・吉良家・渋川家との親交はあって
然るべきである。また、この時の大老酒井讃岐守忠勝とその実弟である幕府評定役の酒井忠吉と高家
吉良義冬(40歳)は姻戚関係にある。吉良義冬の正室は高家酒井忠吉の娘である。
20.四代喜連川左兵衛督昭氏の生母は寛永十九(1642)年の昭氏を産んだ二ヶ月後の12月に死去した一色
刑部少輔崇貞の養女で、尊信の側室「欣浄院殿」である。
21.出典「旧藩士二階堂主殿助父子誅□一条取調書 従五位足利聡氏」『喜連川町史』第三巻資料編3近世)
22.『栃木県立博物館調査研究報告書 喜連川文書』P64による。旧喜連川町教育委員会所蔵の文書であり
現さくら市発刊の「『喜連川町史』第五巻資料編5喜連川
文書 上」でも確認可。
23.『栃木県立博物館調査研究報告書 喜連川文書』P64による。旧喜連川町教育委員会所蔵の文書であり
現さくら市発刊の「『喜連川町史』第五巻資料編5喜連川文書 上」でも確認可。
24.『栃木県立博物館調査研究報告書 喜連川文書』P65による。旧喜連川町教育委員会所蔵の文書であり
現さくら市発刊の「『喜連川町史』第五巻資料編5喜連川文書 上」でも確認可。
25. 現さくら市発刊『喜連川町史』第三巻資料編3近世(P219〜P220)に載せられた旧喜連川町教育委員会
所蔵の文書
26. 現さくら市発刊「『喜連川町史』第五巻資料編5喜連川文書 上」に載せられた旧喜連川町教育委員会所蔵の文書
27. 現さくら市発刊「『喜連川町史』第五巻資料編5喜連川文書 上」に載せられた旧喜連川町教育委員会所蔵の文書
28. 現さくら市発刊「『喜連川町史』第五巻資料編5喜連川文書 上」に載せられた旧喜連川町教育委員会所蔵の文書
29. 現さくら市発刊「『喜連川町史』第五巻資料編5喜連川文書 上」に載せられた旧喜連川町教育委員会所蔵の文書
30. 現さくら市発刊「『喜連川町史』第五巻資料編5喜連川文書 上」に載せられた旧喜連川町教育委員会所蔵の文書
31.『及聞秘録』は筑波大学中央図書館和文書館所蔵・にて誰にでも閲覧可、業者委託でコピーも可
32. この書付の日付けは正保四年八月十日となっている。この記述の流れなら慶安元年のものでなくてはならない。
この書付が正しいものであるのなら正保四年である前年の八月の直訴のときに老中松平伊豆守信綱に提示し
渡すべき書付であり、藩主尊信の花押があれば直訴は成功していたはず。つまり、五人の百姓がもらったと記述
した、この書付は藩主尊信の花押がない。偽の書付の可能性を否定できない。
33. 矛盾する記録である。これまでの記述が正しいのであれば藩主尊信の娘万姫の御草履取りである重三郎の役向
きはお供として江戸に向かうことである。ここで一人だけ帰郷して国境(くにざかい)で成敗される理由がない。また、
この文書の記録では幕府評定が終る 7月25日には国許に評定結果は書状で知らされると即座に藩主尊信が座敷
牢から開放され、さらに四ヶ月後の11月26日に万姫とお供の者(当然、重三郎は欠かせない)は喜連川に帰ったと
記録されている。この時だとしても、なおさらあり得ない記録である。 彼等を成敗する行為は記述が正しいのであれ
ば、即刻藩および幕府の沙汰に反する行為となり即刻改易、取り潰しを意味する。
34.酒井雅楽頭(忠清)は事件評定時はまだ若年寄であり、この評定に参加する立場にない。
35.土井大炊頭(利勝)は事件評定の四年前の寛永21年7月10日(1644年)に死んでいる人物であり、この評定には参加
し得ない。
36.この時期の甲斐庄喜右衛門は長崎奉行であり江戸にはいない。
37.本田能登守忠義が白河城主となったのは慶安二(1649)年六月のことである。事件評定のあった慶安元年(1649)
七月であれば彼はまだ姫路城主である。この家伝書「喜連川御家」の執筆者が五人の百姓本人であると署名があるが
疑わしい記述である。また、藩主尊信の命令書の日付が疑わしい。正保四年(1647)八月十五日と記述されてあるが
記述の流れと一致しない日付であり疑わしい。
38.記述の通りであるなら七月二十五日に幕府評定結果を藩主尊信に報せる手紙は喜連川に向かいすでに到着している。
十一月二十六日の帰郷の彼等になんら心もとないことなどないはずである。 彼らを襲う喜連川家家臣がいるとしたら
幕府の威光に逆らう者供でしかない。
39.この文書の冒頭で「寛永十九(1642)左兵衛督様(昭氏)御誕生被遊候」と記述されている、記述通りに昭氏の相続が
七歳の時ならば慶安元(1648)年の11月〜12月もしくは事件評定の翌年、彼の後見人である榊原式部大輔忠次が
奥州白河城主から西国の播磨姫路城主となる 6月より前と記述したことを意味する。
また、同時に藩主尊信の救出のために五人の百姓が命を賭けて仕えたという本家伝書「喜連川御家」の記述の矛盾
を隠している。五人の百姓達と万姫、そして尊信派とされる者達にの活躍により藩主喜連川尊信(28歳)は隠居させ
られ、側室の子である幼い喜連川昭氏( 7歳)が四代藩主になれたことを意味する。
慶安元年(1648年)に狂乱を理由に幕命にて押込&隠居中の三代尊信が慶安三(1650)年五月には幼い(八歳)四代
喜連川昭氏の弟で、本来ならば正室の子であるので、四代藩主となったであろう氏信を、なぜか健常にももうけている。
40.喜連川尊信は喜連川から遠い古河の鴻巣御所で生まれ幼少期はそこで過ごしている。この旧塩谷家時代からの喜連
川の百姓の子である三人の母親がこの尊信の乳母であったということだが無理があることは否定できない。古河でも
乳母は十分探せたはず。
41.この「喜連川御家」を基礎史料としている昭和52年に旧喜連川町が発刊した『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」の
執筆者は「評定係かりには、酒井紀伊守、杉浦内蔵充、曾根源左衛門、伊丹順斎らであり、控訴に当たり10歳の万姫
を何くれとなく面倒をみてくれたのは、品川内膳正、今川刑部、吉良若狭守(足利家の支族)であった。」として、万姫の年
齢の記録を都合よく改ざんしている。
13 参考文献
「喜連川騒動の顛末」(『喜連川町誌』喜連川連川町誌編さん委員会編、喜連川町、1977年)全国書誌番号73007745
「狂える名君」(『喜連川郷土史』片庭壬子夫・喜連川町教育委員会、1955年)
『栃木県立博物館調査研究報告書 喜連川文書』栃木県立博物館人文課、1993年
ISBN 978-4924622760
『徳川実紀』
『寛政重修諸家譜』
『及聞秘録』「喜連川左兵衛督乱心之事 家老三人遠流之事」筑波大学中央図書館、文書館所蔵
『喜連川町史』第三巻資料編3近世 さくら市編さん委員会編さん 平成18年 さくら市発行
『喜連川町史』第五巻資料編5喜連川文書 さくら市編さん委員会編さん 平成19年 さくら市発行
『幸手一色氏』-系図から伝承まで- 幸手市教育委員会編集 平成13年 幸手市発行
『古河市史』資料中世編 古河市史編さん委員会編集 昭和56年 古河市発行
『日本一小さな大大名』(たった五千石で徳川将軍家と肩を並べた喜連川藩の江戸時代)
山下昌也著 グラフ社
平成二十年十月六日 発行