喜連川騒動における一考察

  明治44年発刊『喜連川郷土史』と
  昭和52年発刊『喜連川町誌』の
  喜連川騒動に関する歪曲記述
         


      << 目 次 >>

      1 はじめに

      2 喜連川騒動に関する文献の紹介

      3 読者への報告

      4 『喜連川町誌』(昭和52年旧喜連川町発刊)における事件の概要

      5 喜連川一色家の墓の存在と疑問点

      6 二つの喜連川騒動の背景と解析

      7 四代喜連川昭氏生母の墓の存在

      8 喜連川藩の傀儡藩主時代の到来

      9 旧喜連川町発行文献の歴史歪曲と矛盾

      10 喜連川騒動事件における関係者の動機解析

      11 事件関係者の動機にもとずく真相解析

      12 『喜連川町誌』の誤記と矛盾の修正

      13 事件後の喜連川家家臣団の動向

      14 調査結果としての喜連川騒動の概要

      15 喜連川騒動の史実を示す、その他文献

      16 喜連川騒動の真実

      17  最 終 結 論 

      18 おわりに

      19 参考文献および史跡

      20 喜連川騒動事件の関連年表


     << 当ページ内で使用する内部リンクページの説明 >>


      @ 喜連川家側室婦女子の墓

         喜連川家三代当主喜連川尊信の側室で、四代喜連川昭氏の実母。昭氏を生

         んで翌月死去。一色刑部少輔崇貞の養女・実父は日光浪人。

      A 『喜連川義氏家譜』

         当家譜からの喜連川騒動に関わる記録の抜出しと解釈

      B 喜連川一色家の墓所

         喜連川足利家の墓の正門前に現在も残され、一色右衛門佐(下野守)氏久、

         一色下野守(前刑部少輔)義久、一色刑部少輔崇貞、一色左京、一色五郎

         左衛門崇利の願文と墓石が確認でき、そのルーツとなぞを探る。

      C 喜連川一色家のルーツ

         室町将軍足利尊氏の四代前の足利家当主足利泰氏の五男足利公深が三河

         国吉良荘一色郷に住まうことから一色姓を名乗る。 この一色公深の直孫で

         二代九州探題を勤めた一色直氏が京・鎌倉と移り、この累代嫡孫が鎌倉・古

         河と移動、そして喜連川の一色家へと続く流れを解析記述。


         また、慶安元年(1648年)の喜連川騒動の時、筆頭家老の職責ゆえ他の

         家老と共に伊豆大島に流刑となった一色刑部少輔崇貞と泉州岸和田城主

         岡部美濃守宣勝家にお預けとなった嫡子一色左京の消息を記述 。そして、

         喜連川に残った実弟一色五郎左衛門崇利が慶安三年(1650)喜連川氏信公

         (生母・正室)の誕生を期に根岸五郎左衛門崇利と改姓し、旧白河城主榊原

         (松平)忠次の命を得て四代喜連川昭氏公(15歳・生母は欣浄院殿・一色家

         娘で側室)の大叔父として後見人を代行する。 寛文十年(1670年)喜連川

         氏信公(20歳)が病死。根岸五郎左衛門崇利は喜連川家の内政安定を見て

         白河城主本多忠義家に長々と二十一年に渡り、お預けとなっていた二階堂

         主殿助(36歳)の帰参を幕府に願出、寛文十一年(1671)次席家老に復権さ

         せる。その後、根岸五郎左衛門崇利は筆頭家老にはならずに、後見人代行

         を続け根岸丹右衛門崇利と改名、喜連川城下に宿屋三店舗を構える特殊な

         商人(通称:柏屋丹右衛門)となるまでを町役の人別帳を交えて記述。

      D 足利家の戒名

         足利家代々の戒名および徳源院過去帳の一色下野守氏久と一色刑部少輔

         崇貞および一色左京等の戒名の謎と足利家当主による墓石建立の事実から

         、代々の足利家当主との関係と喜連川騒動の真相をさぐる。

      E 喜連川足利家臣団の家禄&役責取り決め
         昭和54年に発刊された『喜連川町誌』に添付された資料写真と編纂委員会

         メンバー名の紹介部写真

      F 源義家を祖とする足利家系図

         足利家と鎌倉将軍家および北条氏、室町将軍家、関東公方家、古河公方家

         の系図に一色家系図を交え、喜連川一色家、幸手一色家系図を複合させ、

         足利家との係りを明確にし、本系図を作成。

      G 歪曲文献「狂える名君」

         明治44年発刊『喜連川町郷土史』より原文を抜き出し、その矛盾点を解析する。

      H 喜連川文書

         喜連川文書より喜連川騒動関連の文書と喜連川一色家関係の文書を抜きだし

         、事件の真相を検証すべく作成した資料

      J 一色五郎左衛門崇利こと根岸連談の子孫

         一色刑部少輔崇貞の実弟一色五郎左衛門崇利こと根岸(柏屋)丹右衛門の

         嫡流子孫のその後を現在(平成24年)に至るまでを記述

      K 喜連川町誌の年表

         昭和52年発刊『喜連川町誌』より、喜連川騒動事件関連期の記録資料

      L 『及聞秘録』

         筑波大学中央図書館所蔵の『及聞秘録』の「喜連川尊信と三家老の事」から

         その翻訳を行い、解析を行う。

      M 足利国朝と喜連川に入国した家臣団

         足利国朝が上総小弓御所をはなれ喜連川足利家を起こした時、これに従った

         小弓・古河の家臣達の書上。

      N 歪曲文献「喜連川騒動の顛末」

         昭和52年発刊『喜連川町誌』より原文を抜き出し、その矛盾点を解析する。

      O 喜連川騒動の登場人物

         昭和52年発刊『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」よりぬきだし、事件の

         背景をしる資料として作成。

      P 足利義嗣(一色直明の実父&三代将軍足利義満の次男)

         室町三代将軍足利義満の天皇家簒奪計画と次男足利義嗣、そして長子四代

         将軍足利義持との争いにより殺害された弟、権大納言足利義嗣の嫡子六歳

         から一色直明への経緯。
         

      Q 『喜連川家由緒書』「喜連川家由緒書」の現代語訳」

         明治44年発刊『喜連川町郷土史』の「狂える名君」と昭和52年発刊『喜連川

         町誌』の「喜連川騒動の顛末」の元となった、歪曲文書『喜連川家由緒書』

         (喜連川騒動をかたる五人の百姓家の家伝書)の原文、及び「長百姓書上」

         の原文と解説


         *「長百姓書上」とは、足利家が喜連川の地で再興された時、旧領主であった

         塩谷家の旧家臣達で領内に町人・百姓となった人物、その姓名が全て記録さ

         れている。 初代筆頭家老一色下野守(氏久)に提出された文書。 ここでは

         事件で直訴に至った五人の百姓、および事件を歪曲記述した明治44年と昭和

         52年の筆者2名の先祖を検出し素性を検出する。


      R 『喜連川家由緒書』(筆者訳と記述内容の検証)

         五人の百姓家の家伝書『喜連川家由緒書』を全て、現代文に翻訳しながら、

         文中の矛盾点と、これを参考にした明治の「狂える名君」と昭和の

         「喜連川騒動の顛末」を記述編集した2人の筆者のルーツと捏造の証拠を

         明確にし喜連川騒動の真実を明確にする。


      S 喜連川一色家の動向

         鎌倉・古河〜喜連川期までの一級史料となる関東公方家発給文書とその他

         文書から喜連川一色家関係の記述を抜き出しと解析をおこない関東公方家

         とのつながりと喜連川期に起きた慶安元年の家中騒動に至るまでの真相を

         探る。

         喜連川騒動の関連年表

         なぜ、喜連川騒動が発生したのか?喜連川騒動の真相とは?慶長五年

         (1600)の関が原の戦いから平成20年12月の現在に至る関係年表を

         作成した。



   18 << お わ り に >>

      伊達藩のお家騒動を題材とした山本周五郎先生の「樅の木は残った」は、同藩

      の歴史感に新しい息吹を与えるものであり、心から感動させられた作品でした。 

      私は、仙台市を何度も訪れていましたが、この作品を読んだ後の仙台市はまった

      く新しい町に感じられたことを思い出します。

      「温故知新」という言葉があります。歴史をふりかえり、新しい道を知るということは

      皆さんはよくご存知のことと思います。 ただ、「誰が偉くて、誰が悪いということを

      学び、知的な人生を送ろう」ということではなく、歴史の史実には、その時代時代

      に応じた人々の生き方があり、そこにはそれぞれの時代によって変化する正義と

      人道という価値観があります。  現代にあっても人が正しく生きるということは、

      その人、個人がその時代の誰にでも誇れる価値観を持って生きて行けるかという

      ことであります。 このことは、いつの時代であっても変らないことで、この価値観

      を学び取れるのが、故人達がそれぞれの一生をもって作って来た歴史です。


      過去の不幸と過ちを繰り返すことのないよう、歴史には忠実に、且つ誠実に向き

      合うべきでありたいものです。現代のアジア諸国における日本の歴史教科書問題

      においても、同じことが言えるのではないでしょうか?

      単に、時の政権が都合主義により、自らを正義として、権力的に作った歪曲した

      歴史を、同じテーブルにのせて、互いに叩き合うのではなく、歴史と史実を切り分

      ける誠実な目を皆が持ち、冷静に史跡に残された事実と古文書などの故人の足跡

      を、それぞれの立場を理解しながら、誠実に情報を持ち寄り、客観的に解析する

      ことにより、本当の史実が共通の正しい歴史が作られるのです。 このことにより

      作られた真実の歴史こそが、それぞれの人達にとって、いにしえの人たちが教えて

      くれる、過去の不幸を繰り返さない、正しい価値観を私達に教えてくれるのではない

      でしょうか。


      国家の教科書や市町村の発行文書だけで、歴史を汲み取ってしまうと、時の権力

      により歪曲された捏造された歴史が含まれ、私たちは時の権力者達に都合の良い、

      誤った価値観を知らず知らずのうちに、植え付けられ、洗脳されてしまい兼ねない

      のです。


      表の歴史は時の権力により都合よく歪曲されていることは、よくある事で当然注意を

      払わなければならないのです。公(表)の歴史は、あくまでも真実の歴史を知るため

      の叩き台としてとらえるべきであり、史実を知る上での、初歩的なものとして考える

      べきです。勝負けの存在する歴史は特にそうです。


      これは、あらゆる事に言えることです。私の大好きな武道においてもそうです。秘伝

      の多くは、皆に教えていること、皆が知っていること、すなわち基本の裏側にあるの

      です。 達人の道は、自分の素直な心と感性を持って、正道を疑い裏側からも探究

      し、この正道の弱点を発見し利用することから始まるものです。


      旧喜連川町も同様に、皆様に公的な歴史観念にとらわれずに再度、正しい史実を

      追求する目を持って訪れていただき、私にとっても古い故郷となる、新しい喜連川

      を楽しんでいただけたら幸いです。公的な歴史を作られた方には、その正確性は

      別として、その事件の存在を書き残していただいたことには、それはそれで、心か

      ら感謝すべきことであり、また今後のご活躍を期待するものであります



   19 <<参考文献および史跡>>

     1.古文書足利国朝に従い喜連川に向かった家達は、研究資料として私の書き込み

       が多く、後日再度コピーした物を内部リンクにて公開予定


     2.『喜連川郷土史』明治44年編纂「狂える名君」


     3.『喜連川町誌』昭和52年編纂「喜連川騒動の顛末」&「喜連川町誌の年表」、現在

       私の保有する原本コピーは研究・検証過程において書き込みが多いので、後日、

       旧喜連川町図書館にて再度コピーした物を内部リンクにて公開予定です。


     4.喜連川一色家の墓 旧喜連川町、龍光寺内の足利家墓所正門前


     5.一色刑部の娘で3代喜連川尊信公の側室で4代喜連川昭氏の生母の墓、喜連川

       町専念寺内



     6.根岸家の墓は、隣の黒駒家の墓と一緒に、デジカメにて撮ったものがあります。

       しかし、黒駒家の了承が必要になりますので、公開予定にはありません。旧喜連

       川町の専念寺にて、4代昭氏公の生母の墓と一緒に、位置関係などご確認いた

       だければと思います。事件当時の人口が少なかった頃の墓地のイメージで検証

       いただければ幸いです。 その他、御弓系家臣団の墓もご確認いただけるはず

       です。 なお、専念寺は、江戸時代に、原因不明の2度の火災により歴史的文献

       は殆ど残されておらず、同寺住職は、喜連川町史と喜連川町誌の編さん委員会

       には入っておりません。 これも歴史の歪曲を許した一要因であったかもしれま

       せん。 

       同寺は、1643年に3代喜連川尊信公により、その側室「欣浄院殿」の死去に伴

       い開院整備された由緒ある寺院です。 本来、旧喜連川町の歴史を語る上で欠

       かすことの出来ない寺院のはずです。



     7.『小林家代々日記』は、現さくら市の文化財保存審議会に保存されており、本年

       六月さくら市発刊の『喜連川町史』3資料編近世に編集され、第ニ節、町の仕組

       と運営の一、町役人にて、 171天明八年八月、「町人由来書上帳」として一部

       公開されました。数年に渡る、喜連川町史編纂委員会への私の意見が実った

       結果と理解しております。根岸連談の子孫



     8.東京大学史科編纂所の大日本史総合DB(データベース)


     9.『徳川実紀』徳川家光の実紀の慶安元年7月3日条の記述


     10.『寛政重修諸家譜』喜連川尊信の項1799年の喜連川家の記録


     11.「研究報告書『喜連川文書』」は平成5年発刊、栃木県立博物館研究員編


     12.『及聞秘録』現在、筑波大学中央図書館所蔵の作者、年代不明の和製本

        (写し)

     13.『古河公方足利氏の研究』佐藤博信(千葉大学教授)

     14.『古河市史』の資料、「徳源院過去帳」「喜連川判鑑」「喜連川文書」

     15.『喜連川町史』第三巻資料編3近世(平成19年6月、さくら市発刊)の資料

        @ 『喜連川家由緒書』(寛文十一年(1671年)に記録された元五人の百姓

           により連判された、彼等の子孫に残した家伝書)

        A 『喜連川義氏家譜』(東京大学史科編纂所所蔵)

        B 『小林家代々日記』「町人由来書上帳」

        C 『二階堂事件取調書』

        D 寛永十年(1615年)「長百姓姓名書上」

            長百姓四十五人の名を書き上げたもの。城下に出て町人となった者など

            も含まれる。国士舘大学非常勤講師泉正人氏、共立女子大学非常勤講師

            斎藤悦正氏による解説編集です。 ここには「高野加茂左衛門」「高野鴨

            左衛門」なる人物2名が記録されており、おそらく、同一人物か親子と思わ

            れます。 当然、事件のあった慶安元年(1648年)や『喜連川家由緒書』

            書かれた、寛文十一年(1671年)には、彼等、またはその子孫は百姓また

            は町人として喜連川の地に実在したわけです。そして、『喜連川家由緒書』

            の筆者が本来「高(こうの)修理亮」である人物を「高野修理」と書き違えた

            原因は、ここにあるのかもしれません。

            よって、昭和52年に旧喜連川町発刊『喜連川町誌』の編纂協力者である

            ”高野□□”氏は、「喜連川騒動の顛末」において事件のヒーローとされた

            ”高野修理亮”とは、血縁において、なんら関係はなかったと判断されます。

            すなわち、”高野(たかの)氏”の先祖は元塩谷家家臣であったが江戸時

            代には百姓または町人となった「長百姓書上」に示された”高野鴨左衛門”

            か”高野加茂左衛門”であったと判断すべきかと存じます。

            たしかに、『喜連川町史』第三巻資料編3近世の資料、『喜連川家分別帳』

            には、高野(たかの)姓の家臣二名が確認できるが、いずれも厩番です。

            厩番とは百姓や町人から召抱える”奴格”の身分ですので、この二名は

            高野鴨左衛門・加茂左衛門の子孫と考えるのが筋。


            足利家執事格の高(こうの)家の子孫がフンドシにハッピ姿に、脇差一本

            を差した「厩番」扶持高六石に落ちるとは有りえない話です。


            もっとも、厩番でも明治に入り制度上は士族の一員として扱われたはずで

            栃木県から四石ぐらいの扶持の支給はあったでしょう。


            また、同時代に始まった郷土史研究の過程で百姓家であった佐野家の

            歪曲家伝書『喜連川家由縁書』の内容に心ならずも踊らされ、その記述

            中の誤記名である「高野修理」を先祖であると思い込んだ下級士族であ

            る高野家の子孫と、百姓(平民)の佐野家の子孫が上級士族が喜連川

            の地を去った後、町政に係り明治44年の「狂える名君」と昭和52年の

            「喜連川騒動の顛末」の執筆に関係していったのでは?と思われる訳で

            すが、町誌(史)編纂担当の主事であった伴係長が、この件に口をつぐむ

            ことは、現職の役場職員として、職制上やむおえないことであったことは

            理解できないこともないのですが、旧喜連川町が「さくら市」となった今、

            『喜連川郷土史』・『喜連川町誌』の記事の執筆者名は未来永劫公表さ

            れることはないでしょう。



     17.『喜連川町史』第五巻資料編5喜連川文書上・下(平成16年、旧喜連川町発刊)

        この文書集の中で、高修理亮(助)に宛てられた文書が存在するが、この概説

        にも歪曲が存在します。旧喜連川町は、頼氏期〜尊信期の高修理助(亮)への

        文書概説において、「高野修理亮(助)」として説明文を入れています。しかし、

        この論拠は、旧塩谷家家臣であった五人の百姓の一人、佐野越後が執筆した

        家伝書である歪曲文書『喜連川家由緒書』(佐野家文書)でしかなく、同じ編纂

        協力委員の高野□□氏への配慮が含まれているようです。 高野□□氏と高

        修理亮との接点は、前述の通りで皆無です。



     18.『幸手市史』通史偏・『古河市史』中世・近世



     19.その他は、私の歴史的知識を付加しました。

        今後とも、一色刑部少輔崇貞・左京・相木与右衛門ならびに一色派家臣の無念

        をはらすべく、史実の検証をして行く所存です。


        『喜連川町誌』昭和52年編纂で記述された事件のヒーロー高野修理等の「尊信

        派」は幕府の調査により、その陰謀をみやぶられ、伊豆大島に遠島となってい

        たのである。  それでは、この幕府を騒がせた喜連川騒動事件の筆頭家老と

        しての責をとり、喜連川の地を離れた、喜連川家の忠臣である一色刑部少輔

        崇貞と嫡子左京・相木与右衛門の親子および一色派重臣は、その後どうなった

        のであろうか?  

        事件後、高家旗本吉良義冬の弟として幕府旗本となった一色刑部(家禄500〜

        1000石)の存在があります。 

          *吉良義冬とは「忠臣蔵」で有名な吉良上野介の実父です。

        吉良義冬と大老酒井忠勝や他の老中衆などを中心とした幕府の秘策により、

        一色左京(30才前後)がこの旗本一色刑部となり一色派は家臣となる、父で

        ある一色刑部は、気楽な隠居の身となり改名し江戸での余生を過ごしたので

        はなかったか? 

        しかし、『及聞秘録』には15年後の一色左京の特別処遇の記述はあるが、

        旗本になったかまでの記述はなかった。大名家の客分扱いとして百人扶持の

        武家として再興されたことは、記述されている。しかし、いつまでも客分扱いで

        いるとは思えず、その後、幕府の沙汰により旗本となった説を否定できる文献

        もない。

        もっとも、この旗本一色家は2代後に嫡子が無く断絶となっており、大変気に

        なるところです。


        このテーマが今後の研究課題となります。私個人の力には限界があります。

        このページのメインページは、一企業のサイトとして、毎年高額の経費を賭け

        て、国内検索サイトでは、検索順位が高く設定されております。


        全国の一色系の皆様、疑問点・重要情報などありましたら、ご連絡いただけ

        ると幸いです。 square.h@vega.ocn.ne.jp まで、ご一報くださることをお願い

        申しあげます。


        喜連川一色家嫡流家、 一色(根岸)五郎左衛門崇利の子孫  根岸剛弥

                                        平成31年1月5日 更新




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