11 <<事件関係者の動機にもとずく真相解析>>
つまり、この事件の真相は『喜連川郷土史』(明治44年)の「狂える名君」
および『喜連川町誌』(昭和42年)の「喜連川騒動の顛末」にて記載され
ているような、「一色派の側室腹による、藩政取り事件」ではなかったこと
になる。
この喜連川騒動の真相は、3代尊信は世継ぎを生んだ側室(筆頭家老
一色刑部の娘)の早すぎる死去に心を痛め、さらに正室(那須資景の娘)
との確執に心身疲れ果て、精神分裂病の中期症状を発症しており、筆頭
家老一色刑部ら三家老に藩政を一任していた所。(多くの諸藩は皆藩政
を家老達に一任しています。)
これを、こころよく思わなかった尊信派が自分達の野望のために、邪魔
になる筆頭家老一色刑部の失脚と、精神分裂症の初期または中期症状
で、まだ正常な時期もある主君3代尊信の正式な隠居を勝ち取り、自分
達の自由になる幼君4代昭氏(7歳)への早急な代替わりを狙ったので
ある。 そして当時、他藩では絶対に改易または藩主の隠居とされた
「藩主の発狂事実」を巧妙に露見させるべく、浪人した高修亮は高野
修理と改名し尊信派をもたぶらかし、高修理亮は影の人物となり自分達に
は罪が及ばないよう五人の百姓による幕府への直訴を仕組んだのでは
なかったか。
実は、彼ら(高・梶原)はそれなりに有能であり、当時の喜連川家を「改易」
できない幕府の事情さえ読んでいたのではなかったのか。 しかも、死去
した元次席家老で一色刑部等とともに、3代尊信の「押籠」を執行していた
二階堂主殿の嫡子であり、この時は若家老となっていた若い二階堂主膳
助又市(15歳)をそそのかし、神輿として担ぐことにより、二階堂配下の家臣
達さえも動かし、事件当時には二階堂又市らに罪が及ばないようを出奔
(しゅっぽん)させた。 そして、事件解決後の、新二階堂派として自分達の
身の安泰を狙ったのではなかったのか、実は、あがよくば、二階堂又市(主
膳助)さえも、追い出してしまいたかった。 事件の23年後に二階堂又市が
帰参出来たことも、彼らにとって唯一の誤算ではなかったか。
しかし、まだ疑問は残る。すなわち、”喜連川尊信の発狂の事実”は、それが
事実であれば、当然だれが見ても明らかとなることである。
たぶん、彼等にとって、そんなことは判っていたことで、大切なのは、藩主
尊信の”発狂の事実”を、幕府に知らせることであり、 ”上訴の言い回し”
として、自分たちが有利になるであろう”藩主を助ける忠臣”を演じきること
で、保身を謀ったのではなかったか?