1、喜連川騒動事件の真実
慶安元年(1648)の喜連川騒動における幕府評定所で「喜連川尊信の狂乱を幕府
に報告せず、七年におよび隠し通した罪」により、伊豆大島に遠流となった三家老
の一人、筆頭家老の一色刑部少輔崇貞は喜連川足利家の家臣であると同時に、
室町幕府初代将軍足利尊氏の四代前の当主である足利泰氏の七男であった足利
公深を祖とする足利一門であった。
また、四代将軍足利義持の処刑命令から、四代鎌倉公方足利持氏の密命によ
り助命され、鎌倉五山を巡回して育てられ、鎌倉公方家の奉公衆筆頭の一色宮内
大輔直兼の養子となって、鎌倉一色家を興した、三代将軍足利義満の次男である
権大納言足利義嗣(正二位)の遺児で嫡男、一色宮内大輔直明(従五位下)の長
男で、永享の乱、結城合戦の後、幕府により再興された五代鎌倉公方足利成氏の
命により、鎌倉建長寺僧侶から還俗して、鎌倉一色家を再興した一色右衛門佐蔵主
(従五位下)を祖とする、室町将軍家末裔でもあり、その嫡男、一色刑部少輔氏義〜
一色右衛門佐(下野守)氏久〜一色刑部少輔(下野守)義久〜一色刑部少輔崇貞と
一色五郎左衛門崇利の兄弟へと続く、鎌倉・古河・喜連川の一色家嫡流であった。
注)一色(足利)直明の養父となった関東一色家嫡流の一色宮内大輔直兼
の姉は、三代鎌倉公方足利満兼の正室であり、四代鎌倉公方足利持氏
の生母であった。 また、一色刑部少輔崇貞は主筋である喜連川足利
家四代喜連川昭氏の生母「欣浄院殿」の養父であり、四代藩主昭氏の
叔父にあたる。 「系図纂要」では、持氏の生母は「一色範直の姉」とあ
るが、現存する一色家関係の系図を見ても、この時代に「範直」の名は
確認できない。 しかし、室町幕府二代九州探題職を務めた一色直氏の
関東一色家の宗家でである一色氏兼の長男に「満直」がいる。
そして、四代鎌倉公方足利持氏の側近として、関東管領上杉憲実をも脅
かし、主君持氏に所領である逗子葉山にて蟄居させられるほどの権勢を
誇った一色直兼だが、彼の長兄がこの満直で、「範直」とは「満直」のこと
と考察できる。『幸手一色氏』幸手市教育委員会発刊、に所収されている
満直の末裔で庶家となった新井家の一色家系譜によると、満直は最初、
父の一色氏兼から家督を継いで鎌倉公方の側近として奉公していたが、
病弱を理由に、弟の直兼に家督を譲っている。 また、一色直兼の娘は
宅間上杉憲直の正室であり、嫡男憲家の生母であった。四代鎌倉公方
足利持氏の奉公衆筆頭となった関東一色家の権勢の基盤は、ここにあ
ったといえる。 実際、足利持氏期の鎌倉公方軍の大将は、全てこの一
色家と宅間上杉家が務めていることや、敵対した関東管領上杉直実の
家臣筋が書き残した『永享記』にて、「永享の乱」では関東一色家と宅間
上杉家が諸悪の権現として、さらに「結城合戦」では一色伊予守八郎が
その中心に記されており、関東一色家の権勢が伺える。
また、喜連川の一色刑部少輔崇貞と時の江戸幕府を築いた徳川家康のブレーン
で、「黒衣の宰相」といわれ、幕府体制の礎となる「武家諸法度」・「禁中並公家諸
法度」・「寺院諸法度」を考案し、草案を作った南禅寺派座主の金地院崇伝(以心
崇伝 丹後一色家末裔の一色崇伝)とも同族として交流があったことは、喜連川の
一色兄弟の名に用いられている「崇」の字(偏諱)からも伺うことができる。
ゆえに、喜連川の一色刑部少輔崇貞は、時代は武力で何事も解決した室町・戦国
の時代から上記の三法により、日本国を権力の集中を避けて統治する、将軍家と
大名家、旗本・御家人による幕府体制が維持される時代へ変わったこと、そして
新しい時代の武家(大名家)の有りかたなど十分に理解していた。さらに、一色刑部
少輔崇貞は足利家御門葉ゆえに、古河・小弓の両旧公方家の家臣を束ね得る存在
であり、両家の婚姻により生まれた喜連川足利家の家政を、若い三代当主喜連川
尊信から預かる家老職三名の筆頭であって、なんの不思議もない人物であった。
「東京大学史料編纂所が作成した「史料稿本」には『人見私記』『万年記』『慶安
日記増補』『慶延略記』『寛明日記』『寛政重修諸家譜』『足利家譜(喜連川)』を
出典とし、『及聞秘録』を参考とした以下の綱文(慶安 1年12月22日2条)がある。
「是より先、喜連川邑主喜連川尊信の家臣二階堂主膳助等、高四郎左衛門等
と事を相訴ふ、是日、幕府、其罪を断し、尊信に致仕を命し、四郎左衛門等を
大嶋に流す」
事の始まりは、寛永十八年(1641)喜連川足利家三代当主喜連川尊信に徳川
幕府体制を生き抜く上で問題となる言動行動が目立ちやむなく、時の三家老(
筆頭家老一色刑部少輔崇貞・次席家老二階堂主殿助・家老伊賀金右衛門)は
合議により、喜連川尊信を城内では「狂乱である」として、一間設けて「押籠」と
し、領内および幕府には長く通常の病気であるとして、年初の江戸城の将軍へ
の挨拶には次席家老の二階堂主殿助が御名代として通っていた所、この二階
堂主殿助(上総小弓公方家からの家臣)と喜連川尊信の古河鴻巣御所時代か
らの近習であった高修理亮・梶原平右衛門の二名との間に論争が起こり、それ
ぞれ党を結んだ。
そこで、この三家老が合議して、喜連川足利家安泰の為、その家臣団の乱れを
無くすべく、高・梶原の二人を「時代を読めぬ不届き者である」として、領外に追
放した。
その後、次席家老二階堂主殿助が死去した為、新しく柴田久右衛門(古河公方
家からの家臣)が家老に抜擢され、 死去した二階堂主殿助の嫡子である幼い
又市が元服後、若家老となり二階堂主膳助となった。 しかし、二階堂主膳助は
次席家老格の二階堂家の当主とはいえ、若家老(実質「家老見習い」の立場)
でしかなく、当然のことながら藩の実質的な実権を握る三家老(一色・柴田・伊
賀)に力がおよぶばずもなく、何かと不満を持つようになった。
そして、正保四年(1647)、若家老の二階堂主膳助(又市15歳)は追放していた
高修理・梶原平右衛門等と手を結び、同年八月に偽造した「尊信の命令書」を、
喜連川家に忠誠を示す旧塩谷家家臣であった五人の百姓等に持たせ、江戸に
出奔させ、指図して「三家老達が正常である尊信公を狂乱を理由に城内に押籠
め家政を握っている。」と、時の老中松平伊豆守宅での直訴に至らせた。 直訴
してきた百姓達の話を聞いた老中松平伊豆守信綱は他の老中達とも相談した
が、喜連川家の一色刑部少輔崇貞はよく知る人物であり、藩政乗っ取りの話は
どうも理解しがたい。 時の将軍であった徳川家光にも報告したが、そもそも喜
連川家における一色家の家格から判断しても、藩主が独裁権力を持たずに、一
色刑部少輔崇貞を筆頭とした三家老に家政が任されていることは、幕府安泰の
上からも望まれることで、なんら不自然なことではない。 しばらく様子を見ること
とした。
慶安元年(1648年)正月、老中達は恒例による将軍への年初の挨拶に登城して
きた喜連川尊信の御名代である家老の柴田久右衛門に事情を聞いては見たが
尊信は通常の病気であるとの報告であり、ほかならぬ喜連川家の御名代である
ので深い追求もできなかった。
喜連川家では江戸から帰郷した柴田久右衛門の報告をもとに早速、三家老(一
色・柴田・伊賀)等は藩内における直訴派の洗い出しを始めた。 そして、これ
を見た二階堂主膳助(又市)は警戒を強め、直訴に直接係わり、偽の「尊信の
命令書」を手渡した家臣達と直訴に及んだ五人の百姓達を先に喜連川から出奔
させ、二階堂主膳助(又市)自身は高・梶原は父である二階堂主殿助と争論し
追放された者たちであるので、すぐには自分に詮議の目は向けられないと思っ
ていた。
慶安元年(1648年)七月三日、昨年八月の百姓達の訴えの真偽を計るべく、三
代将軍徳川家光と老中達は喜連川足利家の体面に差し支えのないよう、喜連
川家の親族であり徳川家の親族でもある奥州白河城主の松平(榊原)式部大夫
忠次の家医関ト養を尊信の病気治療を名目として、喜連川に向かわせることで
尊信の「狂乱」の事実を確認し(『大猶院実紀』)、江戸では高・梶原等の身柄を
それとなく拘束した。
さらに、慶安元年(1648年)七月十一日、喜連川に向かった幕府目付(探索方)
の目的は、百姓達が持参した「尊信の命令書」の真偽を確かめ、一色刑部少輔
崇貞等三家老と寛永十八年(1641年)より押籠中の藩主喜連川尊信の名代とし
て、江戸に年始の挨拶に来ていた次席家老二階堂主殿助の嫡子であるが、まだ
若家老である二階堂主膳助(又市)を江戸にそれとなく召還することであった。
つまり、慶安元年の万姫は3代尊信の御名代として事実確認のために、幕府から
江戸に召されたのであって、直訴にはいっさい係ってはいなかった可能性が高い。
そもそも、万姫(七歳)は3代尊信の正室(家女:高瀧清兵衛の子である三浦掃部
清右衛門の娘)の産んだ娘であるので当然、正室の管理下にあり、万姫を江戸に
出向かせ直訴させることは3代尊信の隠居は必定となり、お家断絶の危険さえあ
る。
しかもこの時、世継ぎとなる男子は、寛永拾九年(1642)、つまり尊信が押籠とな
った二年後に、側室の欣浄院(筆頭家老一色刑部少輔崇貞の養女:実日光浪人
伊藤某の娘)との間に生まれた昭氏(七歳)だけであった。 つまり、昭氏が4代
当主となれば正室自身の家中での権力低下は必定となる。よって、正室が娘の
万姫を江戸に直訴に行かせるなど、正気の沙汰ではない。 事件の記述を記録し
た公的文書や書状の全てに万姫の記述がないことは当然のことだった。
そして、3代喜連川尊信の「狂乱」の真偽であるが、この時代の「狂乱」の文字に
は多くの意味がある。
三代将軍徳川家光は実弟の駿河大納言徳川忠長は精神的には正常であったが
、「軍勢をもって猿退治をする」などの奇行があり、幕府への反逆の表れであると
して、「狂乱」を理由に彼を改易している。
一方、喜連川家の三代目当主尊信は十一歳まで関東公方家の御所であった
古河鴻巣御所で幼少期を過ごしている。 つまり、足利国朝・頼氏兄弟との婚姻
生活において、新領地である下野国喜連川の地に一度たりとも足を運ぼうとしな
かった、古河公方家当主足利氏女(氏姫)に、尊信が関東・東北地方の武家を
統治した関東公方家の末裔として育てられた可能性を忘れてはならない。また、
源氏の長者であり、室町幕府初代将軍足利尊氏の子孫で「尊」の字を名に用い
た人物は喜連川(足利)尊信だけである。
彼には、「徳川家とは、源氏の長者である、我が足利家の分家で新田家の庶家
である得川家の分家だそうだが、足利将軍家(本家)が絶えた今となっては、足
利家嫡流となる俺が、毎年江戸城まで出向いて、徳川家などに年初の挨拶をし
なきゃならんのか?」 ぐらいの事は、はばかることもなく言動に表していても
、なんの不思議はない。
一色刑部少輔崇貞等三家老(一色・二階堂・柴田)は時世の変化も判断できず
に、このような考えを言動に表わす君主尊信をどうしたものか? 君主尊信より
喜連川足利家家という武家の安泰を目的として合議し、そしてやむなく尊信を
表向きは「狂乱」として館内に押籠めることした 。「狂乱中の人物の言動であ
れば、仮に幕府の耳に入ったとしても咎められることもない。」と判断したと考え
ると理解しやすい。
そして、喜連川尊信の病気治療に遣わした、奥州白河城主松平(榊原)式部大
夫忠次の家医である関ト養からの報告により、事実を知った将軍徳川家光と幕府
老中達も、尊信の思考と言動は危険であると思いつつも、当時の幕府の初期体
制と時世を考慮すると、関東公方家の末裔である喜連川足利家の存在は徳川
幕府の安泰の為に、必要かつ不可欠であり、他家とは異なり改易にはできない。
そこで幕府は、一色刑部等三家老らの判断と同じく、尊信を対外的には「狂乱」
として隠居させ、尊信のただ一人の男子(一色刑部の養女、側室の欣浄院と
尊信の間に生まれた子)昭氏(七歳)を四代藩主として、足利家の同族である
仁木家の分家であり、徳川家康の養女の子である奥州白河城主、松平(榊原)
式部大輔忠次を後見人とすることにより、幕府にとって要注意人物となった喜連
川尊信の見張りも兼ねさせる秘策を選択した。
『喜連川義氏家譜』の事件記述にある幕府が喜連川へ遣した人物は、確かに
当時の若年寄支配下の目付職の人物として確認できる花房勘右衛門です。
このことは大名家を統括する老中支配下の大目付ではないことから、幕府は
この頃の喜連川家を大名家ではなく、参勤交代を免除した交代寄合的で非な
る特別な高家旗本として扱っていたことになり、喜連川足利家三代当主喜連
川尊信の心中は、十分伺い知れるものである。
つまり、徳川幕府はこの事件を通して旧室町将軍家の分家である関東公方家
末裔である喜連川(足利)尊信の心中を察し、息子の四代喜連川昭氏の時から
喜連川家に御所号を許し、国主格としながら参勤交代を免除し無役とするなど、
喜連川家を徳川家の特別な外戚大名として優遇しながらも、弱体化した喜連川
公方家を維持することで国体の安泰を狙ったのではなかったか?。
その後、喜連川家は6代氏連を最後に関東公方家の男系筋の血は絶え喜連川
公方家として体裁を維持しながらも他家からの養子により引き継がれ、幕末の頃
には水戸徳川家から養子を迎え、江戸の文化に触れるべく江戸に藩邸を構える
に至った。
以下は、この喜連川騒動事件を年表にあらわしたものです。
2、喜連川騒動事件を年表から考察
寛永十八年(1641年) 喜連川右兵衛督尊信は筆頭家老一色刑部少輔、二階堂
主殿助、伊賀金右衛門等、三家老の合議によって城内で
押籠めと なる。 (注:また古河での高修理と伊賀金右衛
門の地位が逆転している。) *『喜連川家由縁書』・喜連
川文書の土井利勝から一色刑部少輔崇貞への書状より。
寛永十九年(1642年)
正月 二階堂主殿助(又市の父)、尊信の御名代として将軍家へ
の年初の挨拶のため江戸へ行く(喜連川文書』の土井利勝
から一色刑部少輔崇貞への書状より。)
十月二十四日 押籠中に三代喜連川尊信の長男昭氏生まれる。(生母側室
「欣浄院殿」一色刑部少輔崇貞の養女日光浪人伊藤某の娘)
十二月 二日 昭氏の生母、欣浄院殿、死去
*上記の二項は、『喜連川義氏家譜』より
年月不明 二階堂主殿助(旧小弓公方家家臣)と高修理・梶原平右
衛門(共に旧古河公方家家臣)が争論を起こし、互いに党
を結び、家内騒動となったので三家老の合議により高・梶原
の二名を領外に追放とした。
年月不明 二階堂主殿助(又市の父)が死去。柴田久右衛門(旧古河
公方家家臣)が新しく家老に抜擢され、旧古河公方家家臣
三名による新しい三家老体制が始まる。
正保四年(1647年)
月日不明 新三家老体制(旧古河公方家家臣達)による家政に不満を
持った若い二階堂主膳助(又市15歳)を担ぐ旧小弓公方家
家臣の一部と領外に追放された高修理・梶原平右衛門等が
直訴を密議。
八月 二階堂又市15歳を担ぐ旧小弓公方家家臣の一部)か
ら偽
の「尊信の命令書」を受け取った五人の百姓が領内を出奔
江戸で待つ高修理・梶原平右衛門の指図に従い、百姓五人
は松平伊豆守宅で直訴に至るが、身分が定かでないと信用
されず、直訴は不発となる。
*『喜連川家由縁書』の「尊信の命令書」から
慶安元年(1648年)
七月 三日 幕府老中の取り計らいにより、喜連川尊信は松平忠次の家医
、関ト養の治療を受ける『大猶院実紀』。(徳川家光の日記)
七月十一日 幕府目付け花房勘右衛門等2名が喜連川に遣 わされる。
日付は『喜連川家由縁書』を参考にして『喜連川義氏家譜』
七月十八日 評定所にて尊信の御名代万姫・三家老・二階 堂又市・高・
梶原を交えて評定吟味が開始される。
(『喜連川家由縁書』・『寛政重修諸家譜』・『喜連川文書』)
九月 七日 幕府老中達から松平(榊原)忠次に押込中である喜連川尊信
の番人を要請する書状が送られる。
(『喜連川文書』 幕府老中連署写)
九月十二日 幕府老中達から松平(榊原)忠次に押込中である喜連川尊信
の番人を催促する書状が送られる。二階堂主膳助(又市)は
江戸に召還していることも記述されている。
(『喜連川文書』 幕府老中連署写)
十月十八日 幕府老中達から松平(榊原)忠次に尊信狂乱の事実と致仕
(隠居)命令を下したこと、嫡子昭氏と喜連川家の後見を依頼
する書状が送られる。 (『喜連川文書』 幕府老中連署写)
十二月 喜連川騒動解決、昭氏(数え七歳)四代喜連川家当主となり
松平(榊原)忠次が後見し尊信は致仕(隠居
)。三家老(一
色・伊賀・柴田)は伊豆大島へ流刑その家族は大名家預かり
(『喜連川文書』『及聞秘録』『喜連川義氏家譜』)
高・梶原も伊豆大島流刑(『大猷院実記』)。二階堂主膳助
(又市15歳)は白河城主松平(榊原)忠次へお預けとなる。
(『喜連川文書』幕府老中連署写・『及聞秘録』)
慶安二年(1649年)
六月 九日 幕命で喜連川昭氏の後見人となった奥州白河城主松平(榊原)
忠次が、僅か半年で遠い西国である姫路城主となり、代わって
姫路城主であった本多忠義が奥州白河城主となる。
(『寛政重修諸家譜』)
*松平忠次の喜連川昭氏後見人としての任は解かれたのか?
もしくは、これが可能となるような秘策を幕府老中は慶安元年
十二月の幕府評定中に講じていた可能性は否定できない。
この時、一色刑部少輔崇貞の実弟一色五郎左衛門崇利と
先代の筆頭家老一色下野守義久に喜連川家から帰参命令
が下り、五郎左衛門は一色から根岸へと改姓、大甥となる
四代喜連川昭氏公(八歳)を後見し、幕府が定めた新しい
三家老(黒駒小右衛門・渋江甚左衛門・大草四郎右衛門)等
を束ねる家老首座として仕え根岸五郎左衛門崇利(連達)と
なる。
慶安三年(1650年)
七月十一日 喜連川家二代筆頭家老一色下野守(前刑部少輔)義久、高齢
により死去。(喜連川一色家墓所の墓石より)墓石正面には
「□□院長岳宗久居士」さらに、右側面に「二代頼氏公直臣」
「大禅勘平胤栄」左側面は「慶安三年七月十一日」と刻まれ
ている。 一色五郎左衛門崇利は浪人中に「山本勘平」を
名乗っていた。
「『喜連川町史』第三巻 資料偏 近世」の掲載文書「小林家
代々日記」の「根岸丹右衛門の事」より。
七月二十日 押込め中の三代喜連川尊信と正室の間に次男氏信(四代昭氏
の弟)生まれる。(側室の欣浄院殿は八年前に死去、 ゆえに
生母は正室となる) 『喜連川義氏家譜』より
慶安四年(1651年)
4月、 将軍徳川家光病死(48歳)徳川家綱(11)が継ぐ。 大老:酒井
讃岐守忠勝、老中:松平信綱、後見:保科正之家綱付家臣:松平
乗寿らに補佐された家綱政権が発足。
慶安事件(慶安の変)が4月に発生〜9月には収拾。 酒井河内
守忠清は家綱付き奏者番
、10月に左近衛権少将へ任官し、酒井雅楽頭忠清となる。
承応二年(1653年)
三月十七日、三代喜連川尊信(35歳)死去、病死?
(『喜連川判鑑』・『喜連川義氏家譜』)
六月 老中首座:酒井雅楽守忠清、老中:松平信綱、
老中:松平乗寿、中:阿部忠秋の4人連署体制
明暦二年(1656年)
七月 喜連川家三代筆頭家老一色刑部少輔崇貞、
「伊豆大嶋ニテ逝ス」 観喜佛
翠竹院松山宗貞居士
(『古河市史』 所収 「古河鴻巣徳源院過去帳」)
*埋葬者はおそらく四代喜連川昭氏。徳源院は臨済宗鎌倉
第二位円覚寺の支寺。 喜連川一色家の祖は鎌倉の葉山
逗子を領した鎌倉一色家当主、一色宮内大輔直兼の子で、
臨済宗鎌倉第一位建長寺僧侶であった一色右衛門佐蔵主
(従五位下)で、永亨の乱(1438年)の後に再興された五代
鎌倉公方であり初代古河公方となった足利成氏が側近とし
て還俗させた人物。なを、喜連川一色家の墓も鎌倉円覚寺
支寺である喜連川龍光寺にあり、一色刑部と嫡子左京親子
の墓石が残されている。 ここにも四代喜連川昭氏の意向が
読み取れる。
寛文二年(1663年)
四月二十日 徳川家光の十三回忌、三家老(一色・柴田・伊賀)許される
がいずれも高齢の為死去、三家老の嫡子もゆるされ、みな
譜代大名家にて御家再興される。 一色刑部の嫡男左京は
岡崎藩水野監物家にて客分扱いの二百人扶持で召呼され
るが、その後一色左京に嫡子なしにて断絶した。
(『及聞秘録』)喜連川龍光寺にある一色家の墓の刑部と
左京の墓石は、一つで正面が左京、側面に刑部の形で
二人の名前と戒名が刻まれていることから、この件が岡
崎の水野監物家から四代喜連川昭氏に知らせがあり、
昭氏によって墓石が作られたことも十分伺われる。
寛文八年(1668年)
正月 喜連川氏信、兄の四代喜連川昭氏の名代として初参府、
徳川家綱に初見 年頭の御礼申上
寛文九年(1669年)
喜連川氏信、兄の四代喜連川昭氏の養子となる。
寛文十年(1670年)
五月十四日 四代喜連川昭氏の実弟氏信(21歳)病死
(『喜連川町史』第三巻 中世 資料編 喜連川義氏家譜)
寛文十一年(1671年)
二階堂主膳助(又市38歳)四代喜連川昭氏の嘆願により
幕府から罪を許され、白河藩(本多忠義)から帰参。
(『喜連川町史』第三巻 中世 資料編 喜連川家由縁書 )
月 日不明 五人の百姓の一人であり、旧塩谷家家臣から帰農した佐野
越後(飯島平左衛門)により自家の家伝書『喜連川家由縁
書』(表題、喜連川御家)が記述される。
宝暦元年(1751年)
岡崎藩水野監物家にて水野騒動が起こり宝暦二年三月二
十二日に解決し養子の水野監物忠任が家督を相続するが
、水野監物忠辰は八月十八日幽閉のまま死去。
このように、年表にすることで3代喜連川尊信が三家老達と幕府による
形式上の狂乱よる「押籠中」に「尊信が4代昭氏と次男氏信をもうけ得た
事実」と喜連川騒動の真実が理解できる。そして、一色刑部少輔崇貞の
嫡子一色左京の再興先であった水野監物家でも、喜連川騒動の
103年
後となる、宝暦2年(1752年)に「君主押籠」があった。おそらく、一色左京
から喜連川騒動事件が語り継がれていたのでしょうか。この時の家老達
は水野忠辰の押籠を随時、幕府に報告していたので罰せられることはな
かった。
忠辰は家督を養子・忠任に譲ることを余儀なくされた上で幽閉され、その
まま座敷牢にて、同年8月18日に死去。 つまり、「押籠」とは、江戸時代
の主家(藩)と藩士家族・領民を守るために家老達が執行する正い行為
であり、家老達の職務として幕府にも認められていた武家の制度である。
「君主の押篭=謀反=極悪人」などという構図は明治政府が帝国主義
国家の構築を目的として、国定教科書に盛り込み、芝居や読み物を通し
て国民に浸透させた価値感の名残りであることに気付くべきである。
平成28年11月吉日
321-2522
栃木県日光市鬼怒川温泉大原270番地
喜連川一色家末孫
根岸剛弥