15 << 喜連川騒動の史実を示す、その他文献 >>
「人見私記」・「万年記」・「慶安日記増補」・「慶延略記」・「寛明日記」・「寛政
重修諸家譜」・「足利家譜(喜連川)(按)(又按)」・「[参考]『及聞秘録』」にお
いて、下記のように綱文史料として記録されております。
慶安元年十二月二十二日 二条
是より先、喜連川藩主喜連川尊信の家臣二階堂主膳助等、
高四郎左衛門等と事を訴ふ、是日、幕府、其罪を断し、尊信に
致仕を命し、四郎左衛門等を大嶋に流す
とあり、文中の「致仕」とは、「隠居」のことであり、官職を降りると言う意味であ
る。現代語に訳し、『及聞秘録』を参考にしていることを考慮すると、次のように
なる。
慶安元年十二月二十二日 二条
「これより先、喜連川藩主喜連川尊信の家臣二階堂主膳助等(一色、二階堂
、柴田の三家老)を高四郎左衛門等(高・梶原)が事を訴え出ていたが、この
日、幕府はその罪を裁き、尊信に隠居を命じ、四郎左衛門等(高・梶原)を大嶋
に流す」
これにおいても、喜連川町史(明治44年編)の「狂える名君」と喜連川町誌(1977
年編)の「喜連川騒動の顛末」の記述された、 「一色刑部等が主犯である」とい
う記事の内容と一致しないのである。 評定の決裁日まで、異なる。 評定の原告
である、高四郎左衛門等(高・梶原)が審議の結果、喜連川騒動事件の主犯であ
ったと記録されているのである。
一方、この「綱文」の出典の一つとなる「寛政重修諸家譜」の喜連川尊信の項や、
「喜連川文書」に編集されている、「三人の老中から奥州白河城主の榊原忠次に
宛てた手紙」では、一色刑部と伊賀金右衛門は、「尊信の発狂を幕府に隠した罪」
により彼等を上訴した高四郎左衛門と同じ大嶋に流したことが記録されているが、
この「綱文」には明かに「一色刑部等」の記述がない。
これは、この綱文を残した東大の研究者が、他の文献と比較検討し、共通する記述
を「綱文」として残したと考えられる。すなわち、他の文献の事件記述には、被告「一
色刑部等を単に罪人として伊豆大嶋に流したのではない」とする、記述が残されて
いると考える。
話を戻すが、旧喜連川町により発刊された2誌には、高四郎左衛門の存在はない。
ところがなんと、足利国朝公と喜連川に向かった家臣達と尊信期の喜連川文書に
は、「高(こうの)修理亮」の存在が確認できるのである。 ここで、考えられるのが
、前にも述べたが、事件のヒーローで老臣「高野修理」である。 高野修理が「たか
のしゅり」ではなく「こうのしゅり」であることが疑われる。
高野修理は、事件での直訴準備のため、江戸に直訴の成功の可能性を調べるべく
、脱藩浪人したとしている。
浪人=脱藩・追放であれば、官職名は使えないので、修理亮は修理となる。 そして
、高(こうの)の姓を同読みの高野に改めれば、「高野修理」となる。 よって、綱文の
「高四郎左衛門」は実は、事件のヒーローである浪人高野修理となり、浪人していな
ければ、「高修理亮四郎左衛門」となるのである。 事件を直訴した人物ということで
も旧喜連川町発刊の2誌の「狂える名君」と「喜連川騒動の顛末」の記述とも一致す
る。 そして、浪人であるので、幕府においては、公式には「官位」の「修理亮」をは
ずし「高四郎左衛門」となり、『喜連川郷土史』(明治44年編)と『喜連川町誌』(1977
年編)の記述にある事件のヒーロー「高野修理」等は確実に大嶋に流刑になってい
たのである。
また、この綱文においても、記述の通りで、やはり事件の責により3代尊信公は、
幕府により隠居させられており、4代昭氏が、この時家督を相続したのである。
この綱文は、東京大学史科編纂所の(大日本史総合DB)にて「喜連川」と「綱文」
をKEYとして検索確認できる。
『喜連川町誌』(1977年編)の「喜連川騒動の顛末」における尊信派の帰参の事実
は当時若干15歳であった二階堂又市(主殿)以外は確認できなかった理由も伺える。
まして、被告となった一色刑部達と直訴を計画実行した原告である尊信派達と同じ
大嶋に流刑となるはずもないのである。 しかし、「古河市史」の徳源院過去帳には
一色刑部は伊豆大島で死んだと記録されている。 しかも、この網文には、被告で
ある「一色刑部等」の名が残されていないのはどうゆうことであろうか? この、綱文
によると、3代喜連川尊信の謀反人であり罪人は、尊信派の原告「二階堂主膳助」と
「高四郎左衛門」等なのである。
また、幕府の公式記録である『徳川実紀』には、喜連川騒動の記述は、見あたらな
かったが、
慶安元年7月3日の条に
「喜連川尊信が病に伏せたので老臣が手配し、松平忠次の家医である関ト養に
治療をさせた。」 とある。
松平忠次とは、喜連川騒動事件のあった1648年当時、白河藩主であった榊原忠次
のことで、3代喜連川尊信の叔父にあたる。 また4代喜連川昭氏の後見人となった
人物であり、当時の将軍徳川家光の甥である。 そして、慶安元年7月3日は、喜連
川町誌「喜連川騒動の顛末」の記述と照合すると浪人高野修理達が幕府に直訴中
のことであり、幕府御上使が喜連川へ向かう8日前のことである。
この『徳川実紀』に記述された「老臣」とは誰であったのか?将軍の「老臣」ということ
であり、将軍の甥である白河藩主松平(榊原)忠次に命令できる人物であることから
松平伊豆守信綱、阿部豊後守忠秋、阿部対馬守等重次の三人の幕府の老中達で
ある。(『喜連川文書』参照)
ともかく幕府は、この時すでに3代尊信の病状と治療を確認できていたことは明白と
なり、一色刑部等の藩政横専容疑は晴れていたのである。
この8日後に喜連川に向かった幕府御上使の本来の目的は、「喜連川騒動の顛末」
の記述にある3代尊信公が「正気」か「否か」ではなく、事件解決のための筆頭家老
一色刑部との事前打ち合わせであったとしか思えないのである。さらに、喜連川騒動
事件は、幕府の公式記録には、あえて記述されなかったようである。 これだけの
事件が『徳川実紀』に記載されていないこと自体に、深い意味があるのではなかろう
か。
この事件での一色刑部・左京親子と一色派家臣達のその後に、この不明な件が深く
関わっているのではなかろうか。