『及聞秘録』の喜連川騒動記述


 実際に、喜連川騒動事件の評定がおこなわれた、江戸の文献(古文書)である、『及聞秘録』

 の喜連川騒動関係の記述を、所蔵先の筑波大学中央図書館から、取り寄せました。

 古文書「原文」は、以下の要約の後に付記しておりますので、是非ご確認ください。



 << 事件記述の要約 >>


     喜連川左兵衛督乱心の事   家老三人遠流の事



 喜連川左兵衛督尊信とは、関東の管領足利左馬頭基氏の末孫である。 足利家は代々衰え

 将軍足利義輝卿が三好の為に殺害されたことにより、諸国の管領公方家の威勢も衰え、この

 尊信の時は野州喜連川に僅かな所領を持つのみで、喜連川殿といわれていた。 承應(正保

 ?)年間、喜連川左兵衛督尊信は、「狂乱の病」にかかった。よって、一色刑部二階堂主殿、

 柴田某の三家老は、互いに合心して尊信を座敷にて「押し籠め」とした。 幕府には、尊信は

 「病床中」につき、長く参勤できないが、三家老の合議のもとに藩政及び仕置きを行っている

 と報告していた。 ところが、その後、尊信の近習として仕えていた、高四郎左衛門と梶原孫

  次郎と云う者がおり、この両人に不届があったので、三家老は合議の上、この両人を追放し

 た。その後、この両人は今度(このたび)われ等を追放したのは、三人の家老の所為である。

 として内密に江戸に来て一通の訴状(目安)を公儀に提出(差出)した。訴状(目安)の大意は

 、「一色、二階堂、柴田の三家老が私事の為に、君主尊信を「狂乱の病」と偽り、座敷牢をもう

 けて「押し籠め」とし、藩政と家内の仕置を三家老共の心のままにいたしており、いわれのない

 、私ども両人を追放したので、公儀において詮議してほしい。」というものであった。


 早速、幕府目付衆が調査の為、両人(高、梶原)の喜連川に下向したところ、喜連川尊信は

 何を思ってか座敷牢から抜け出し、行方不明になってしまったので3家老は驚き、行方を聞き

 廻り、尊信をやっと探し出し再度、押し籠め厳しく番人に守らせた。 幕府の目付衆が着くなり、

 尊信を屋形に移し面談しょうとしたが、その日、尊信は調子が悪く(不出来)座敷牢から出す

 ことが出来ないので目付衆は別れて面談した。 そして、「尊信の狂乱は紛れない。」ことを

 確認し、江戸に立ち帰り公儀に報告された。


 後日、三人の家老を評定所に呼び、高四郎左衛門、梶原孫次郎の訴えについて、御目付が

 両名(高、梶原)を吟味した所、「喜連川(尊信)狂乱の委細に紛れない。」ことを認めた。お上

 は、これを聞かれて、「かようなる事を只の今まで病気と報告し、尊信の狂乱を幕府に隠し置

 いていたことは、不届きである。」と思い召くゆえ、三人共(一色刑部、二階堂主殿、柴田某)

 は伊豆の大嶋に流刑とし三人の子供は、それぞれ諸大名預りとした。


 一色刑部の長男  相木与右衛門(妾腹)は、

              摂州尼崎城主 青山大膳亮(幸利、譜代、幕府奏者番) 御預かり

     同じく次男  一色左京(嫡子)と三男一色八郎は

              泉州岸和田城主 岡部美濃守(宣勝、譜代) 御預かり

 二階堂主殿の嫡子 二階堂某は、

              奥州白川城主 当初、榊原式部大輔(松平忠次、譜代)
                        後に、本多能登守(忠義、譜代) 御預かり

 柴田某の嫡子    柴田某は、

              越後国新發田城主 溝口出雲守(宣直、外様) 御預かり


 三人の家老達は、伊豆大島に船着し、暫く居住していたが、何れも老人であり程なく共に

 病死した。年を経て、大猷院様(徳川家光)の十三回忌(1662年)の時、大嶋の流人も多

 くが赦免となった。 三人共(三家老)はすでに病死であったのでその儀は出来なかった

 が、三人の子供を赦免しそれぞれ主取とした。 中でも、一色左京については、名高き者

 の子であるので、水野監物忠善より二百人扶持を賜り客分扱いで仰呼された。 この一色

 氏というのは、清和天皇の後胤で、高家の一人といえる。 相州北条家の幕下に属してい

 たので、天正十八年の豊臣秀吉公が北条父子を攻め滅ぼした時、一色も浪々の身となり

 、何とか豊臣家に仕えて、家を再興しょうと思っていた所、関八州は家康公の所領となっ

 たので、多くの関東在住の名士は、皆家康に仕えた。この時、一色を累代の高家として

 家康公から召誘いがあったが、「すでに年老いており、馬の乗降さえやっとの身であるので」

 と丁重に辞退した。 しかしその後、秀吉公に見目しようとした時には、秀吉公はすでに体調

 が悪く仕官はかなわず彼の子孫は喜連川の家臣として微少の身であった。 その後、一色

 左京には、男子がなく断絶したといわれる。 説には兄の妾腹であった相木与右衛門につい

 ては後御当家へ仕官したといわれる。




 以上、『及聞秘録』に残された該当事件記述の要約である。



  << 古文書『及聞秘録』の「原文」の紹介 >>


  喜連川左兵衛督乱心之事  家老三人遠流之事

  喜連川左兵衛督尊信ト申ハ関東ノ管領足利左馬頭基氏ノ末孫也、足利家段々衰微シ

  将軍義輝卿三好カ為二亡シ玉ヒシヨリ諸国ノ管領公方家ノ威勢衰へテ、此尊信僅二

  野州喜連川ニテ食禄シ被レ申、喜連川殿ト云リ、


  然二尊信承應年間中乱心セラレル及テ家老、一色刑部二階堂主殿、柴田某等合心、

  尊信ヲ入座布牢へ、公儀へハ病気之由ヲ申上、久々無参勤、政事ハ三人ノ家老共相談

  シテ諸事能様二計ヒナル、


  後ニ尊信ノ近習ニ被召仕ナル高四郎左衛門、梶原孫次郎ト云者アリ、此両人不届ノ事有

  ニテ一色、二階堂、柴田三人相談之上ニテ右両人を追放セリ、

  然ルニ両人思ヒナル、今度我々ヲ追放セシハ三人ノ家老共ノ所為也、何ト準等シ令行罪

  蜜ニ武江ニ来リ認ニ、一通之目安公儀へ差上ル、其目安ノ大意ハ、

  主人喜連川左兵衛督、家老共三人ノ計ヒニテ左兵衛督ヲ乱心ト申、座布篭ヲ構へ入置、

  知行所ノ政道家中ノ仕置三人ノ家老共心ノ侭ニ仕、私共両人ヲ無不義追放申付候

  此段、御詮議可被下トノ趣也、

  依テ、其貫否御詮議ノ為、御目付衆、両人ノ下野国喜連川へ下向アリ、

  尊信ハ御目付衆下向之由ヲ?テ如何被思ケン、座敷牢ヲ這出無何国、逐電セラル、

  家老共大ニ驚キ諸方手分シテ尋ナルニソ暫クニ捜出、又座布牢へ押入厳ク番人ニ守

  ラセナル

  御目付衆下着アレハ則、尊信屋形へ移シ尊信へ令封面別テ、其日ハ尊信不出来ナレハ

  不能出牢篭外、ニテ御目付衆封面アリシニ、乱心ニ紛レナケレハ、江戸へ立帰リ

  尊信事乱心無紛由ヲ言上ス、

  依テ家老三人ヲ被召、評定所へ今度高四郎左衛門、梶原孫次郎訴申ニ付、御目付

  両人被遣ニ喜連川乱心ノ寛否御吟味之処ニ、尊信乱心、無紛段委細達ニ、


  上聞、加様ナル儀ヲ、只今迄、病気ト申立、乱心ヲ押隠シ申条、不届ニ被思召之旨、

  被仰出ノテ三人共ニ、伊豆ノ大嶋へ遠流被仰付、右三人ノ子供ハ所々へ御預也


   一色刑部嫡子    相木与右衛門 妾腹

  右ハ摂州尼崎ノ城主、青山大膳亮へ御預也

   同 人  二男    一色左京

   同     三男    同  八郎

  右両人ハ泉州岸和田ノ城主、岡部美濃守へ御預

   二階堂主殿嫡子   二階堂某

  右ハ奥州白川ノ城主本多能登守へ御預

   柴田某嫡子      柴田  某

  右ハ越後国新發田ノ城主 溝口出雲守へ御預也


   ?テ三人ノ家老共、伊豆ノ大嶋へ着船シ、暫ク居住シヌルカ、何レモ老人ナレハ無程

  三人共ニ病死ス、

  年経テ、大猷院様(徳川家光)御十三回忌之時、大嶋ノ流人モ多々御免アリシカ 三人

  共ニ病死ナレハ無其儀ニテ、三人ノ者ノ子共ヲ御免ニテ思々ニ主取ス、中ニモ一色左京

  ハ名高キ者ノ子ナレハトテ水野監物忠善ニ百人扶持ヲ賜り客人分ニ被呼出仰、


  此一色氏ト云ハ清和天皇ノ後胤ニテ高家ノ一人タリト云へ、氏勢ヒ微ナレハ思フニ、不叶

  属相州北条家之幕下、天正十八年豊臣秀吉公、北条父子ヲ攻亡シ玉フ時、一色モ浪々

  ノ身トナリシカ、何トソ豊臣家へ奉仕シテ家ヲ起サント思ヒシカ、関八州ハ家康公ノ御料ト

  ナレハ、数代関東居住ノ名士、皆々御味方ニ添リナル、此時一色ハ累代ノ高家也トテ被召

  シカ、一色ハ兼テ秀吉公へ仕へント思ヒシ故、不候仰ニシテ申上ハ、仰奉存候へ、年寄

  馬ノ乗下リサヘ唯成身ニ候へハ、御免可被下云テ不添秀吉公へモ有故障、御目見タニセ

  サレハ、浪々シテ終リス、依之、彼子孫微少ノ身トナリ喜連川ノ家臣トナリス、


  此一色左京ニハ無男子断絶スト或、説ニ妾腹に有(相木与右衛門)、後御當家へ奉仕スト

  云々


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  << 当文献の調査検証 >>


 二階堂主殿の嫡子、二階堂某(二階堂又市)の御預り先が、『喜連川家由緒書』記録と同じ、

 ”奥州白川城主本多能登守”となっています。 しかし、「『喜連川文書』幕府老中から榊原

 忠次に宛てられた手紙」を見ると、実際は慶安元年(1648年)の判決では、”榊原(松平)

 忠次に御預け”であったことが確認できます。とはいえ、この『及聞秘録』は事件から20年

 以上後に”及聞きした”ことを記録した資料ですが、けして嘘偽りを記録している訳でありま

 せん。

 この食い違いの原因は、正保二年(1649年)九月六日、奥州白川藩主榊原忠次は姫路

 藩主に、姫路藩主本多忠義は奥州白川藩主にと、それぞれ転封になっているので、前藩主

 榊原式部大輔忠次から本多能登守忠義は二階堂主殿助を預かったという経緯があっため

 です。  『及聞秘録』は事件の15年後、三家老嫡子の処遇とその後まで記述された、文献

 であるのでこのことは、事件の15年以上後の記録として考慮すると理解できる記述なので

 す。


 また、『喜連川家由緒書』とこれを基礎史料とした「喜連川騒動の顛末」での登場人物、

 「万姫」も「5人の百姓」の記録は無く、直訴は目安にてされ『喜連川家由緒書』の記録を

 も否定しています。


 三家老の嫡子が「徳川家光の十三回忌」に、ゆるされ再興されたと記録されていることも、

 家光の死去年が喜連川騒動事件(1648年)の約2年後、慶安4年(1651年)4月20日である

 ことから、その13年後、『喜連川町誌』の年表に記述されている、”1663年二階堂又市、帰参

 し主殿と改む”の記述と何故か合致しています。(十三回忌は12年〜13年後と判断)


 強調すべきは旧喜連川町が昭和52年に発刊した『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」

 は、「尊信派」として高四郎左衛門(高野修理)の党の主幹とされた二階堂主殿は、実は高齢

 であり筆頭家老一色刑部等と一緒に「主君押し籠め」をおこない、高、梶原等両名による「偽

 りの直訴事件」により大嶋に流刑になった三家老の一人であるとしていることです。 よって、

 事件の23年後寛文十一年(1671年)に喜連川藩に帰参したのは、この二階堂(前姓は椎津)

 主殿(おそらくは慶安元年前に死去)の嫡子、二階堂某(帰参後、先代の呼び名を取り元服

 し”主殿助”と改める)であったのである。


 二階堂主殿助は、土井利勝が大老のとき(1642年ごろ)、尊信を押籠中の御名代として、

 江戸将軍家に年始の挨拶に行っています。 (喜連川文書に土井利勝から筆頭家老一色

 刑部に宛てた返書(文書)が残されています。)




    「土井利勝からの書状」(喜連川町史 第五巻 資料編 5 喜連川文書 上)

    猶以印判御免可被成候、以上

    尊書忝致拝見候、改年之御慶珍重納候、隋 年頭之御礼ニ御参向可被成候

    処ニ、旧冬ヨリ御煩敷御座候故、為御名代二階堂主殿助方を以被仰候、奉得

    其意候、委細之段老中より可被申達候、然者、為御祝儀 子十被下置候、

    是被為入御念候段、過分忝奉存候、此等之通、宜預御心得候、恐々謹言、


                                         土井大炊頭


     正月六日                                   利勝


    一色刑部殿



  訳「尊書かたじけなく拝見いたし候、改年の御慶び珍重申し納め候、ついで、

    年頭の御礼に御参向なさるべく候ところに、旧冬より御わずらわしく御座候

    ゆえ、御名代として二階堂主殿助方をもって仰せられ候、その意を得奉り候、

    委細の段.、老中より申し達せらるべく候、

    さらに、御祝儀として雉子十下し置かれ候、まことに御念入らせられ候段、

    過分かたじけなく存じ奉り候、これらの通り、よろしく御心得に預かるべく候、

    恐々謹言  猶以て、印判御免成らるべく候、以上」



 「老中より申し達せらるべく候」ですから大老職の時の書状ですね。

 よって、土井大炊頭利勝は病気と高齢により老中職を1638年11月7日に引退し、大老職と

 なり1644年7月10日に死去した人物ですので、この書状は1639年以降の正月六日のもの

 となり、さらに、「旧冬より御わずらわしく御座候ゆえ」の記述に該当する、尊信が1641年の

 押込めにより年頭の御礼に御参向できない1642年正月六日付けの書状となります。なお、

 『喜連川義氏家譜』では


 「右一(市)ケ谷月桂寺より問合之節、喜連川家来より文書也、月桂寺申伝候は、高膳

  (尊信)乱心せしを家老等をもかくし通し、例病気のよし申候て久しく参勤なし、高膳近習

  の士、高某・梶原某、?の咎めありて追放しけれは、此両人 公儀へ申出けるゆへ、

  御目付を遺され、乱心をかくせしにより遠流に処せられしといふ」



 と記録されており、そして『喜連川家由緒書』の記述




  「右兵衛督尊信公、寛永七年(1630)に古河より御引キ移被遊、同拾八年(1641)ニ

   御上意之由、干時御荒キ御生得故、一色殿・柴田殿・伊賀殿、主意計略ヲもって

   御一間ヲ存ひ御押込申上候」


 より、尊信の御名代を勤めた二階堂主殿助も当然にして家老で尊信の押籠に合議していた

 事実を示すものです。(君主押込は当時の家老達の合議でおなわれる職務)


 また、高四郎左衛門(高修理亮)と梶原孫次郎(梶原平右衛門)は、『喜連川家由緒書』

 記述されているような「自ら直訴の為に脱藩した」のではなく「両名に不届きがあった」ので

 家老達の合議による咎めにより、藩外に追放されたのであり、これを不服として二人で江戸

 に出向き目安にて直訴していたのである。


 万姫が直訴したというのも歪曲・改ざんですね。おそらく万姫は大名行列のごとく老中達に

 呼ばれ江戸の評定所に向かったはずで、当然五人の百姓が評定所に従う根拠はないので

 評定に立ち会った老中達の名前を知るわけもなく『喜連川家由緒書』は歪曲・捏造文書と

 判断できます。


 詳細は『喜連川家由緒書』(筆者訳))を参照ください。


 そして、幕府が一色刑部の嫡子、一色左京を喜連川藩に帰参させなかった理由も伺いし

 れる。 一色家は喜連川家と同じく足利将軍家の同族であり、この一色左京は4代喜連川

 昭氏の叔父でるため、本人の望む望まないにかかわりなく、将来、幕府はさらなる喜連川

 家のお家騒動の原因となると考えると理解しやすい。 また、一色左京が水野家にて「客分

 扱いの百人扶持」で再興されたことは、主家は水野監物忠善ではなく、喜連川昭氏と徳川

 将軍家であると判断できる。


 百人扶持(現金支給)の意味は、百人の家族、家臣を養える家禄であり、米に換算すると、

 二千石〜二千五百石の扶持になりますので、四千八百石の小藩、喜連川家の筆頭家老

 としての二百石〜二百五十石(米支給)の扶持とは、比べ物にならない優遇された家禄と

 いえます。 このことは、一色刑部らの罪とは、幕府体制維持のための建前としての罪で

 あったことが理解できる。(余談だが、火付盗賊改方の長谷川平蔵(鬼平)は、家禄600石

 の旗本である。) そして、一色左京・八郎兄弟を預かった岡部美濃守宣勝は岸和田六万

 石の譜代大名であり、元今川義元の家臣で、桶狭間の合戦後、武田家に仕え、その後、

 徳川家に仕えた由緒を持つ足利家由縁の家でもある。


 さらに、この水野監物忠善とは、岡崎藩主で約五万石の譜代大名であり徳川家康の実母

 於大の方の実家である水野家の二代藩主です。 よって、一色左京を客分として迎えた、

 水野家は徳川家の外戚であり「桶狭間の戦い」の時は織田信長についた武家であり、一

 色左京の甥となる4代喜連川昭氏の後見人、榊原式部輔忠次(松平忠次)とも姻戚関係

 になるのです。


 この『及聞秘録』には、その記述はないが、足利家の名門であり、四代喜連川昭氏の親族

 である一色左京を長々と客分として、野に放つておくのは幕府にとって得策ではないと判断

 したことは、十分うかがい知れることです。 いずれ特別な幕府旗本として二千五百石以上

 、足利系旗本吉良、品川、今川、一色(一色藤長、金地院崇伝系)に準じる無役一色家が

 興された可能性を残すものと考える。 また、一色刑部・左京親子は、一色家系図によると

 一色長兼の養子で足利義嗣の子である足利(一色)直明の直系であると、当時判断されて

いたと思われる。


 余談だが、室町3代将軍足利義満は側室春日局の生んだ次男足利義嗣を正室の生んだ

 兄の室町4代将軍足利義持より偏愛しており、自分が上皇格になったので、義嗣を天皇に

 する予定であったが、「即位の礼」をまじかにして、義満は死去したため、これはならずに終

 わった。 しかし、その後も次男義嗣の官位は上がって行き兄将軍義持を大きく上回り、”正

 二位”に至った。  公卿や幕府内の武家からも、義嗣が足利家の嫡子と認められるように

 なっていた所、応永25年(1418年)敵対する兄4代室町将軍義持の指図で富樫満成に騙さ

 れ殺されたのです。享年25歳 この足利義嗣の嫡子(遺子)が一色(足利)直明なのである。

 そして、足利義嗣の次男嗣敏が北陸に下り鞍谷御所の祖となり、他に2人の男子(梵修、

 清欽)があったが早死であったようです。


 1438年の永享の乱は、6代将軍足利義教(足利義嗣の異母弟)と4代鎌倉公方足利持氏と

 の室町将軍職を巡る戦いであるが、翌1439年、足利持氏は攻め滅ぼされ自決し、持氏の

 5男成氏は幼児であった為、死罪をゆるされ後に古河に移り古河公方家・喜連川家の祖と

 なる。 この4代鎌倉公方足利持氏に6代室町将軍足利義教との戦いを強く押したのが、

 持氏の生母の生家であった関東一色家の一色直兼とその子である持家・直明兄弟を中心

 とした、鎌倉御奉行衆であり、鎌倉公方家における関東一色家の勢力であった。 この敗戦

 により一色持家は、三河の地へ逃れ、丹後・三河国主一色義貫の加護を受けた。


 一方、一色伊予守と直明の遺児達は、結城合戦後、足利持氏の四男永寿王丸(後に古河

 公方となる五代鎌倉公方足利成氏)と共に鎌倉府に残った。戦後、鎌倉府の再興を計った

 、関東管領上杉氏と岩松持国を中心とした関東豪族達による助命嘆願が成氏(永寿王丸)

 の命を救ったのである。


 その後、五代鎌倉公方足利成氏は、幕府方の管領上杉氏の嫡子争いを期に、鎌倉から彼

 の主な勢力圏となる鎌倉奉公衆一色、梁田、岩松、結城、高、梶原、小山、宇都宮、那須、

 二階堂、相馬、里見、蘆名、佐竹、千葉、武田などの所領の中心に位置する古河城に移住

 し、室町幕府方に対抗する形で関東古河幕府のような体制を形成し古河公方と呼ばれる。


 そして、この足利成氏の命により、鎌倉一色家を再興したのが 一色直明の長男であった

 一色右衛門佐蔵主であり、この子孫で古河公方足利義氏期の御奉行衆筆頭で古河城代

 を勤め、足利氏姫期には御連判衆筆頭であり、初代喜連川家の筆頭家老となった のが、

 一色右衛門佐氏久であり、その嫡孫が一色刑部少輔崇貞であり、さらにその嫡子が一色

 左京なのである。 「永享の乱」は、喜連川一色家の祖である一色直明にとっては、実父

 足利義嗣を騙し謹慎中に殺害した「室町将軍家への敵討ち」の意図もあったと思われる。


 さらに、彼の実父足利義嗣が4代室町将軍足利義持と敵対し殺害されなければ、本来の

 6代室町将軍は、足利義教ではなく、一色直明の実父正二位足利義嗣であったのかも

 しれなかったのである。


 これは、5代室町将軍は4代足利義持の嫡子足利義量であったが、早死し嫡子なく、義量

 の兄弟も早死であったので、室町将軍家に嫡子がなくなった。 そこで、一色直明の実父

 の故足利義嗣とおなじく、4代足利義持の異母兄弟で足利家の慣習に従い、すでに出家し

 将軍継承権のない僧侶となっていた者達による、異例の「くじ引き」によって三男弟の足利

 義教が還俗して6代室町将軍となったからである。 4代鎌倉公方足利持氏と直臣である

 一色直兼・直明親子と甥の持家にとって、すでに出家しており本来将軍継承権のない、足

 利義教の将軍就任は納得行かないもので、彼を「還俗将軍」と呼んで蔑み、本来の将軍

 継承者であった一色直明の実父足利義嗣が無き今では、次の将軍は鎌倉公方である足利

 持氏であると考えていたようである。


 一方、6代将軍に就任した足利義教にとって、本来の継承者といえる鎌倉公方足利持氏の

 存在は脅威であったともいえる。 また、足利義嗣の次男直明の養父となった一色宮内大輔

 直兼の祖は、初代室町将軍足利高氏の4代前の足利泰氏の5男足利公深であり、三河吉良

 庄一色郷に在し一色と改姓したのが、一色家の始まりです。 よって、喜連川一色家は清和

 天皇の後胤の流れであり、三代室町将軍足利義満の次男足利義嗣の子孫でもある者達で

 あるので、この『及聞秘録』の一色左京に対する、「名高きもの子」・「清和天皇の後胤で高家

 の一人」という記述も、つじつまの合う記録といえます。



 なお、徳川家康は、徳川家は建前として足利義国を祖とする新田家の庶家である得川家で

 あるとして、軍事力をもって朝廷から征夷大将軍の官位を奪取し、江戸幕府を開いたのであ

 る。 一方、この時期の本来の新田家の本流は岩松家であった。


 新田本家の義貞と実弟の脇屋義介は南北朝時代に南朝方(後醍醐天皇方)に味方しており

 、足利高氏と戦い新田本家は没落、以後新田党をひきいたのが足利家に味方した新田岩松

 家である。 さらに、この岩松家の男祖は足利高氏の六代前の足利義兼の長男義純(足利

 太郎)であり、最初新田家の娘との婚姻により、新田庄岩松郷に岩松家を起こし、岩松次郎

 と改名した。 後に男子二人を残し岩松家を離れ、北条時政の娘(畠山重忠の未亡人)と婚姻

 し畠山三郎と改名し畠山家を継承した。


 以後、畠山家は清和源氏流となる。(畠山家は、本来は桓武平家流であった。)


 岩松家は、徳川時代においては、徳川家の親族扱いで交代寄合として家格は優遇されたが

 、家禄は180石と微少であった。これは、徳川家康が岩松家に家系図を貸すように依頼したが

 、これを断ったためといわれている。 手前、徳川家康は特に足利系の武家と新田系の武家

 を徳川家の遠戚として、旗本や外様の形で幕府内に取り込むことで、幕府の正当性と権威を

 高め、その安定を図ったといえる。 そして、徳川家康は足利系の武家を朝廷との折衝役とし

 て高家旗本(1千石以上四千石未満)として重用したのである。


 さらに、足利家本家となる15代将軍足利義昭は、織田信長により事実上滅亡しており、後北

 条家の幕下と落ちていた古河公方家の末裔であった足利氏姫は、豊臣秀吉の北条征伐に

 より鴻巣御所380石を残されたのみであったが、後に豊臣秀吉が上総の小弓御所足利頼淳

 の娘嶋子を側室とするを期に、側室嶋子の願いにより、弟足利国朝と鴻巣御所の足利氏姫

 を婚姻させ、三千八百石に加増し本拠地を喜連川として再興されてた。 その後、徳川家康

 は喜連川の足利家には後に千石加増し、都合四千八百石だが国主格(10万石以上)かつ

 外様で「御所号」をゆるすなど、徳川家の由緒に関わる遠戚足利家の代表として優遇し、無高

 、諸役御免で参勤交代の任も免除した。


 なお、上記の「無高」とは、一般大名家のように幕府から「高」を貰っていない。」の意味です。

 この足利家の所領の多くは、豊臣秀吉の北条征伐の時、この出陣に遅れた、塩谷惟久(嶋子

 の前夫)の所領地喜連川であり、後に、2代足利頼氏は徳川家に遠慮したのか喜連川と改姓

 した。 そして、嶋子の前夫、塩谷惟久は、所領を失い流浪の身となり、後に水戸徳川家に

 仕官したともいわれる。


 一方、この喜連川騒動で三家老(一色刑部、二階堂主殿、柴田某)に藩を追放され、幕府に

 「偽りの直訴」を起こした、本来の謀反人・罪人となる高四郎左衛門と梶原孫次郎等への沙汰

 と、両名のその後については、この『及聞秘録』では確認できない。  当然、この両名等は

 ”幕府を騒がせた張本人”であり”謀反人”として処罰されたことは、喜連川家にとっても、当時

 の朱子学を重んじる武士道においても忠臣であった、”三家老”と喜連川家への幕府の処遇

 からも推察しえる。 また、他の文献にて記述された”高・梶原”両名の流地が、この三家老と

 同じ伊豆大島であったことには、疑問を感じる。


 ただし、流地、大嶋における”忠臣であった三家老”と”逆臣であった高・梶原”両名の処遇に

 格差があったのであれば理解できる。一色刑部等三家老は、事件の14〜15年後に許され、

 男子は主取りで再興されたが、高修理亮(四郎左衛門)と梶原平右衛門の許されたという

 記録は残っていない。 おそらく、記録のとおり伊豆大島であれば、三家老と同じ徳川家光

 の十三回忌に恩赦によりゆるされ、途中に亡くなった。もしくは、喜連川家からは許される

 ことはないので、彼等の旧領であった知人等が住む古河に戻ったと考えられる。 梶原平

 右衛門については古河小薬の称念寺に墓(五輪塔、記念碑?)があり梶原平右衛門景家

 、寛文十年(1670年)の死去が確認できるので古河に戻っていたことがわかっている。 

 子孫は会津の保科家に仕えていた親族を頼ったという。