江戸時代初期(徳川家康・秀忠・家光の時代)は大名廃絶政策が取られました。
これは、徳川家康が関が原合戦後に、東軍(徳川軍)に見方した全国の豪族・大名達に
大判振舞いで所領を与えたゆえのことでその後、家康は徳川幕府を開くと同時に徳川家
(徳川幕府)の安泰策として徳川幕府への実質的な権力集中策が成されたことを示すもの
です。
おそらく、先の室町幕府における足利将軍家の失策を良く知る、彼のブレーンであった金地
院崇伝(丹後一色家末裔の一人)等の諫言もあり進められたことと思われます。
よって、この時代は幕府への謀反の疑いは勿論、幕府内での失策をおこなった大名、その
所領を預かるにふさわしくない大名はその真偽にかかわらず外様大名家で82家、親藩・譜代
大名家でも49家の計131家が改易となった時代です。
つまり、この改易により徳川家の所領は増大し、徳川家の親族や忠誠を尽くした家臣をその
管理者として大名格を与え赴任させ、また彼等の定期的な領地替えを行うことで、彼等の
その所領における権力増大をも防ぎました。また、彼等にとって多大な費用が掛かる定期的
な江戸参府(参勤交代)もこの施策の一つとして定着させていったといえます。
一方、徳川家康は江戸幕府を開くにあたり豊臣秀吉の命により足利将軍家滅亡後の嫡流
となる関東(古河)公方足利義氏の嫡子足利氏女と分家の上総小弓公方と呼ばれた足利
義明の孫足利国朝・頼氏兄弟との婚姻で再興された喜連川足利家に、さらに千石加増し
約五千石の喜連川家として幕下に加えました。しかし、孫の3代徳川家光がこれを継承する
かどうかは微妙な時代でもあったのです。
喜連川(足利)家が徳川将軍家と幕府から正式に御所号を許されたのは喜連川騒動事件
後の4代喜連川昭氏の時からであり、事件当時、幕府が喜連川に遣わしたのはなんと老中
支配下の諸大名家を監視する大目付ではなく花房勘右衛門・三宅大兵衛等二名の目付で
した。(『喜連川義氏家譜』より)
つまり、幕府目付とは若年寄支配下であり役務は旗本・御家人の監視ですので、この頃の
喜連川家の家格はまだ参勤交代を免除された交代寄合的なものであり国主格ではなかっ
たことを示しています。
また古河鴻巣御所の足利氏女は古河公方足利義氏の嫡子として御所号を認められていま
したがこの氏女の孫として古河鴻巣御所で幼少期を過ごした喜連川尊信の目には幕府の
喜連川家への待遇はどのように写っていたのか?
足利氏女は喜連川の地を踏んだことはなく御所さまとして元和六年五月六日に古河の鴻巣
御所で亡くなりました。自分はあくまでも関東公方家の足利氏女であり、喜連川氏女ではな
いと思っていました。
ゆえに、鴻巣御所の足利氏女と尊信の父である足利義親(氏女と2代喜連川(足利)頼氏
の子)に育てられ鴻巣御所から喜連川に移り喜連川家を継いだ3代喜連川尊信が幕府の
自分への待遇に不満を持っていても不思議ではありません。
この辺の事情が一色刑部・二階堂主殿・伊賀金右衛門の三家老により合議された喜連川
尊信の押籠に係っていたともいえるでしょう。
つまり、3代喜連川尊信は正常であったと私は睨んでいます。尊信は「狂乱による押籠」と
された寛永十八年(1641年)〜承応二年(1652年)三月十七日の死去までの約十年の間
にしっかりと長女万姫と二人の娘、そして長男昭氏と次男氏信をもうけています。
これは、事件当時の長女万姫と長男昭氏の年齢は同じ七歳であったことからも判断できま
す。『喜連川家由縁書』より
よって、幕府は尊信をあえて「狂乱による押籠」としたのです。(喜連川文書より)幕府にも
3代喜連川尊信を「狂乱による押籠」とする必要があったとすると理解しやすい。
そして、事件当時、二階堂主殿(又市の父)はすでに亡くなっており(喜連川文書より)、
一色刑部・伊賀金右衛門・柴田久右衛門の三家老は大嶋には流されることなく、彼らの
子息と一緒に徳川家の親藩・譜代大名家に預けられたとするほうが自然です。
実際に大嶋に流されたのは直訴に至った高修理亮・梶原平右衛門の2名とその仲間等
だけであったと思います。
当時、喜連川尊信への幕府と一色刑部等三家老の対処は同じて゛、幕府と喜連川家の
安泰のために「尊信を狂乱としてあっかい押籠めること」で鎌倉幕府における足利尊氏の
ような倒幕行動を喜連川(足利)尊信がとり、世が再び乱れることを3代将軍徳川家光を
はじめ幕府重臣等と一色刑部等三家老は危惧したのではなかったか?
最初に述べましたが、この頃は徳川幕府の足固めのために外様大名を中心に大名家の
勢力縮小を目的とした大名廃絶政策がとられてきた結果、26万とも62万人といわれる幕府
に不満をもつ不平浪人と外様大名家が溢れており、この時期の足利家嫡流となる気性は
荒いが正常な喜連川(足利)尊信を自由にさせることは、彼ら不平浪人や外様大名家に
倒幕の旗印を与えるに等しいと判断されるからです。
また、徳川家康がその出目を偽り吉良家の系譜を借りて源氏の出であるとし征夷大将軍と
なったことも、本来源氏の棟梁であるとして鴻巣御所て育てられ戦乱の世を知らない3代
喜連川尊信には面白くなかった。
成人して先祖の足利尊氏のように「今が倒幕の時である」と口に出すようになった主君尊信
を見た一色刑部等三家老は喜連川(足利)家の安泰こそが第一と尊信を狂気としてやむをえ
ず「狂乱による押籠」にした、同時に主君尊信の意向に従うことを忠義とした高修理亮・梶原
平右衛門の2名を追放したのではなかったか?
ゆえに、実は押籠中の喜連川尊信の精神は正常であり、しっかりと長男昭氏と次男氏信を
もうけることができた。また、一色刑部等三家老は徳川家光の十三回忌(事件の15年後)に
幕府により皆許されて子息達も皆、親藩や譜代大名家にて再興された。『及聞秘録』より。
さらに喜連川尊信の偽狂乱も事実だったのかもしれません。ただし、親族松平(榊原)忠次の
家医の関ト養と幕府御目付が喜連川に遣わされた時から評定が終了したと思われる慶安元年
七月三日〜十一月十八日ぐらいの三月半の間になります。
さすがの尊信も事態に気が付き、自ら狂乱を装い喜連川家を守ったのかもしれませんね。
しかし、事件の二年後の慶安三年(1650)にもしっかり次男氏信をもうけている尊信の承応二
年(1652)三月十七日の死去(享年33歳)は徳川幕府を震撼させた「慶安事件(1651年7月25
日)」解決の翌年でもあり早すぎます。(病気?・自殺?・他殺(暗殺)?歴史の闇ですね。)
一方、若い二階堂主膳助又市(15歳)は父である故二階堂主殿助の意思を理解できず時代
の変化も読めずに、ただ主君尊信に忠実であろうとする高修理亮・梶原平右衛門等の直訴派
に加担したので無期限の大名預かりでした。
二階堂主膳助又市は一色刑部等三家老が許された徳川家光の十三回忌(事件の15年後)で
さえ許されることはなく、彼が許されたのは、さらに8年後の寛文十一年(1671年)で4代喜連川
昭氏が幕府に願出ることで白河藩本田能登守から帰参が叶いました。『喜連川家由縁書』より
喜連川騒動は足利将軍家と関東公方家の嫡流となる喜連川(足利)家ゆえの特殊な事件であ
り幕府の対応も特殊なものであったと睨んでいます。
ゆえに、徳川将軍家と幕府は慶安事件(1651年7月25日)」の解決期となる頃に、類似事件の
再発防止策として4代喜連川昭氏の時から喜連川家に旧足利将軍家嫡流家としての「御所号」
を許し家格を徳川家同族扱いの国主格としたのでしょう。
ちなみに、徳川家康は嫡子秀忠に将軍職をゆずり「大御所」といわれていましたね。
つまり、喜連川家を徳川将軍家と同格として外様ながら外戚扱いとし、幕府の支援家に納めた
のでしょうかね。江戸城内での4代喜連川昭氏の待機席は徳川御三家と同じでした。
また、東北大学付属図書館に秋田家文書、「榊原忠次書状」として一通の書状が保管されてい
ます。なんでまた東北の大名家である秋田家文書に榊原忠次の書状が?とは思いましたが、
なんと、日付が八月九日であり、書状の宛先は慶安元年の喜連川騒動事件の幕府評定担当で
あった酒井紀伊守・伊丹順斎・杉浦内蔵充介・曽根源左衛門の四名です。
内容はまだ不明ですが、早速史料請求を行いたく思います。この書状の解読により新たな喜連
川騒動事件の真実がわかるかもしれませんね。(平成21年1月20日)
慶長五年 1600年 関が原の戦い
慶長六年 1601年 十二月、一色下野守(右衛門佐氏久)死去。
『古河市史』の古河『徳源院過去帳』より
慶長八年 1603年 三月二十一日 徳川家康 征夷大将軍となる。
三月二十七日 江戸幕府が開かれる。
慶長十年 1605年 徳川秀忠 二代将軍となる。
元和元年 1615年 武家諸法度が金地院崇伝(室町13代将軍足利義輝の側近一色秀勝
の子で徳川秀忠の側近)の草案により発布される。
元和二年 1616年 徳川家康 死去。
元和五年 1619年 足利(尊信)龍千代丸 鴻巣御所にて生誕。
元和六年 1620年 五月六日 足利氏女(尊信の祖母) 鴻巣御所にて死去。
元和九年 1623年 徳川秀忠 死去。嫡子徳川家光、3代将軍となる。
寛永四年 1627年 五月六日 足利義親(尊信の父) 鴻巣御所にて死去。
寛永七年 1630年 2代喜連川頼氏(尊信の祖父) 死去。
足利龍千代丸(11才)古河から喜連川へ移り3代喜連川藩主となり
喜連川尊信と改名する。
『喜連川家由縁書』・『喜連川義氏家譜』・『喜連川判鑑』より
高修理(四郎左衛門)、尊信(龍千代丸)に従い古河より来る。
下記の喜連川文書の本多上野介正純より高修理亮への手紙より
「義親様より御書頂戴いたし候、よって御老母様儀につきて、御参府
なされ度き由御座候えども、御わずらいゆえ、その儀御座なく候、
少しも苦しからざる御事に御座候、御延引きなさるべく候、
はたまた素麺一折・鮭二尺送りくだされ候、過分しごくにぞんじ奉り候
これらの趣しかるべき様に御披露候ところ、あおぎ候、
恐々謹言 以上
本多上野介
九月二十四日 正純(花押)
高修理亮殿」
上記の本多上野介正純からの九月二十四日付けの手紙は正純が
幕府老中であった慶長五年(1600)〜元和八年(1622)十月一日まで
のもので、「義親様より御書頂戴いたし候」とあり「御老母様儀(氏女)
に〜御わずらいゆえ」とあるので氏女が死去した元和六年(1620)頃
のものですね。
事件のあった正保四年(1647)には老臣となっている、古河における
高修理(四郎左衛門)の存在が確認できます。
寛永九年 1632年 駿河大納言徳川忠長(徳川家光の弟)、奇行を咎められ「発狂」を
理由に駿河・甲斐両国を没収され幽閉される。
寛永十三年 1636年 三月十九日 酒井雅楽守忠世 死去。
寛永十五年 1638年 10月 土井大炊頭利勝・酒井讃岐守忠勝、老中を辞任大老となる。
寛永十八年 1641年 喜連川尊信(22才)「狂乱」により一色刑部・二階堂主殿等三家老
の合議により「押籠」とし謹慎となる。
『喜連川家由縁書』・『喜連川文書』より
寛永十九年 1642年 正月六日 土井大炊頭利勝より一色刑部に書状が届く。
尊信の御名代として二階堂主殿助が年頭の御礼に江戸に参向す
る。『喜連川文書』より
「尊書かたじけなく拝見いたし候、改年の御慶び珍重申し納め候、
ついで、年頭の御礼に御参向なさるべく候ところに旧冬より御わず
らわしく御座候ゆえ御名代として二階堂主殿助方をもって仰せられ候
その意を得奉り候、委細の段.、老中より申し達せらるべく候、さらに
御祝儀として雉子(きじ)十下し置かれ候、まことに御念入らせられ候段
過分かたじけなく存じ奉り候、これらの通り、よろしく御心得に預かる
べく候 恐々謹言 猶以て、印判御免成らるべく候、以上
土井大炊頭
正月六日 利勝
一色刑部殿」
上記文中で「御わずらわしく御座候」と『喜連川義氏家譜』の「高膳
(尊信)乱心せしを家老等をもかくし通し、例病気のよし申候て」の事件
記述が一致し、さらにこの書状は「老中より申し達せられべく候」の表現
から土井利勝が大老職についた寛永十五年(1638)10月1以降のもの
であり、「旧冬より御わずらわしく御座候」から、この書状の日付が尊信
の押籠から最初の正月「寛永十九年正月六日」であることがわかる。
つまり、喜連川尊信の押籠中の書状である。
当然にして、この時尊信の御名代を勤め江戸に参向した二階堂主殿
助(二階堂又市の父)も寛永十八年の尊信の押籠に家老の一人として
合意していたことを示す書状です。
十月二十四日、喜連川昭氏(梅千代)の誕生、母は足利家親族で筆頭
家老である一色刑部の養女(日光浪人伊東五郎左衛
門の娘)欣浄院殿(側室)。
さくら市発刊「『喜連川町史』第三巻資料編3近世」の
家臣伊東家の系図より
十二月二日、昭氏(梅千代)の生母欣浄院殿、昭氏を産後死去。
『古河市史』の『鎌倉御所方過去帳』(高野山櫻池院
所蔵)・喜連川家側室婦女子の墓の欣浄院殿の墓石
からも検証可。
寛永二十一年 1644年 六月 土井大炊頭利勝 病死。
正保四年 1647年 八月十日、梶原平右衛門と高修理亮の指図に従い狂乱中の「尊信
の書付」(偽書?)を手に、五人の元塩谷家家臣(または、その子)
であった百姓が江戸に登り松平伊豆守(信綱)・島田丹波守に、
「正常である主君尊信を三家老が押籠にして、藩政を我が物として
いる。」との直訴を起こす。『喜連川家由縁書』より
慶安元年 1648年 春、尊信の娘、万姫が江戸へ呼ばれ、評定所にて大老酒井忠勝
と松平信綱、阿部忠秋、阿部重次の三人の老中を前に、評定所
役人酒井忠吉、杉浦正友、曽根吉次、伊丹康勝に国元の様子を
説明する。(万姫も7歳であった。『喜連川家由縁書』より)
七月三日、幕府老中の命により、松平(榊原)忠次の家医である
関ト養を喜連川に遣わし尊信の病を診させ、治療させ
る。『徳川実紀』より
七月十一日、幕府は御目付の花房勘右衛門・三宅大兵衛の二名
を喜連川に遣わし(『喜連川義氏家譜』)、万姫の説明
内容の確認をする。
七月十七日、幕府御目付二名、喜連川を発つ。
『喜連川家由縁書』・『喜連川義氏家譜』より
七月二十五日、万姫、江戸から、評定結果を国元に知らせるべく
御奉書を御飛脚同心の覚左衛門に渡し、この日到着
する。
この日、尊信は押籠の間(部屋)から開放される?
新家老には黒駒七左衛門・大草四郎右衛門・渋江
甚左衛門。『喜連川家由縁書』より
九月七日、松平(榊原)忠次に幕府老中、阿部忠秋・松平信綱から
尊信の押籠の番人として、松平忠次の家臣を喜連川に
よこすように、手紙が届く。
「喜連川右兵衛を押籠(おしこめ)ているが、(喜連川の
家臣より)破り出てしまうと報告があった。何度も押籠
めるよう番の者に堅く(文を)付置いているのだが、彼
(尊信)の家来では、当然使い物にならない。よって、
そのような報告もたびたびの事であるので、書面を送
って貴殿の家来を差し向けてもらえないだろうか。
そのような訳である。」喜連川文書より
九月十二日、松平(榊原)忠次に幕府老中、阿部重次・松平信綱
から、上記の番人の件の催促状(手紙)が届く。
「喜連川尊信の家来、二階堂を(江戸へ)被召(呼ん
でいる)ので、主殿は不有(喜連川にはいない)の
で不成(主殿は当てられない)、ともかく相応の者を
一人(喜連川に)参らせるように、申し残す。」
喜連川文書より
十一月十八日、松平(榊原)忠次に幕府老中、阿部重次、阿部忠
秋、松平信綱から「喜連川尊信の狂乱は紛れなく」
で始まる事件評定結果と登城要請の手紙が届く。
「喜連川尊信のことであるが、狂乱は紛れも無いと
ころで、長く隠し置いたことは、不届きであり、領地
没収(めしあげ)のところであるが、他家のこととは
異なり許すことと成った。
似合の所、相囲み(尊信は押籠で致仕とする)これ
を差し置くので息子の梅千代(昭氏)が幼少の間は
そのほうに、万事まかすことにする。
家来とともに守りたてる様に、(上様から)おうせが
あったので、被仰出候(登城するように)。
次に、一色刑部と柴田久右衛門と伊賀金右衛門の
ことであるが、右兵衛(尊信)の狂乱を申し出ずに隠
し置いたことは、曲がりごとであると思うので大嶋へ
流罪とし、かの者の嫡子(男子之分者)は、所々へ
御預かりの事となった。(曲事とは当時の諸法度に
照らし正しくないの意味である。)」
したがって、二階堂主殿者は代替(二階堂主殿の
嫡子)であるので、その方で預かることと成った、
その意を得ていただきたい。」喜連川文書より
注)なぜか?五人の百姓の末裔である佐野家の家伝
書『喜連川家由縁書』では、この時の担当老中の
記述は「御老中酒井雅楽頭(忠清)様・松平伊豆守
様・土井大炊頭(利勝)様・阿部豊後守(忠秋)様・」
と記録されといる。明らかにこの時の老中の記録は
相違を示している。どちらが正しいかは明白である。
この時、すでに死去している大老土井利勝が登場し
まだ若年寄であった酒井忠清がなぜか?老中筆頭
として記録されていることに注目したい。
十一月二十六日、万姫、国許への帰国の途につく。
『喜連川家由縁書』より
十二月二十二日、三家老と高修理亮(四郎左衛門)・梶原平右衛門
は大嶋へ流刑となる。?
(『寛政重修諸家譜』・東京大学史科編纂所DB)
一色刑部の長男 相木与右衛門 摂州尼崎城主青山大善亮へ預
嫡子 一色左京 泉州岸和田城主岡部美濃守へ預
三男 石塔八郎 同
上
二階堂主殿嫡子 二階堂又市 奥州白河城主松平式部大輔へ預
柴田久右衛門嫡子 柴田某 越後新發田城主溝口出雲守へ預
(越後村松家とも)
伊賀金右衛門嫡子 伊賀宗蔵 摂州尼崎城主青山大善亮へ預
『及聞秘録』(筑波大学中央図書館所蔵)・『喜連川義氏家譜』より
一色五郎左衛門崇利は実兄一色刑部少輔崇貞に連座し浪人する。
後、根岸五郎左衛門(連談)崇利と改名し再仕官する。
その後、根岸丹右衛門崇利と改名し、兄一色刑部少輔、山野金右衛
門屋敷と自ら屋敷をもって城下にて宿屋3軒を営み商人となる。
通称「柏屋丹右衛門」
*さくら市発刊「『喜連川町史』第三巻資料編3近世」より*
慶安二年 1649年 喜連川尊信、仕致(隠居)し嫡子梅千代(七歳)が奥州白河城主
松平(榊原)忠次を後見として4代喜連川昭氏となる。
『喜連川義氏家譜』・『喜連川判鑑』・『喜連川家由縁書』など
喜連川家側室婦女子の墓の欣浄院殿の墓石からも検証可。
慶安三年 1650年 喜連川尊信の次男(本来なら嫡子?)氏信、誕生。生母正室?
『喜連川義氏家譜』による。生誕月日記録なし。
*幼い四代昭氏(八歳)は側室の子であり、この年に生まれた氏信
は正室の子という新しいお家騒動の種となり得る出来事であった。
しかもこの時、幼い四代昭氏の後見人である榊原式部大輔忠次に
は幕府より翌年には播磨愛媛城主となるよう内示が下りていたと思
われる。
また、この件により伊豆大島に流罪となっていた先の筆頭家老一色
刑部少輔崇貞に連座して浪人中であった実弟一色五郎左衛門崇利
は根岸と改姓することで幼い四代昭氏公を補佐し、弟氏信公の教育
をも目的として呼び戻されたと思われる。
七月十一日 一色刑部少輔崇貞の父一色下野守(前刑部少輔)
義久、高齢により死去(一色家墓所の墓より)
慶安四年 1651年 四月二十日、3代将軍、徳川家光死去する。
徳川家綱、4代将軍となる。
六月 九日 松平(榊原)式部大輔忠次、播磨姫路藩主となる。
本多能登守忠義、奥州白河藩主となり、松平忠次か
ら二階堂又市(18歳)を預る。
七月二十五日 「慶安事件」(由比正雪事件)
由比正雪を取り巻く者達は数千人となり丸橋忠弥等
十人程が大将となり革命を起こして幕府を倒し天下を
取ろうと計画。江戸・駿府・京都・大阪の4ケ所で幕府
の城や役所を占領しょうとした。しかし、裏切りの密告
で仲間はあえなく捕縛され、七月二十五日駿府の宿
「梅屋」に居た正雪も駿府町奉行落合小平治の手の
者に囲まれ、仲間八人と共に自刃して果てた。
幕府による事件の取調べがこの日より開始される。
承應元年 1652年 三月十七日、喜連川尊信死去する。(33歳急死、自殺?他殺?)
『喜連川義氏家譜』により。
専念寺(欣浄院)にて剃髪し坊主に変装した五人の
百姓が一色刑部等三家老の命令をうけた喜連川家
家臣等の目を盗み龍光院(寺)にて行われた尊信の
葬儀に参列して焼香をとげる。
『喜連川家由縁書』により。
承應二年 1653年 六月五日 酒井雅楽守忠清、老中となる。
明暦二年 1656年 七月 一色刑部少輔崇貞、伊豆大嶋にて死去する。
『古河市史』の古河『徳源院過去帳』・『及聞秘録』
より。
*しかし、高修理・梶原平右衛門等と同じ大嶋で
死去(病死)するとの記録ですが、おそらく幕府の
表の便宜上の処置に合わせた記録と思われます。
明暦三年 1657年 五月二十六日、酒井讃岐守忠勝 病気と高齢の為、死去。
寛文二年 1663年
三月十六日 松平伊豆守信綱死去。(65歳)
四月二十日 三家老の男子、徳川家光の十三回忌により罪を許
それぞれ、主取(再興)となる。
一色左京は、徳川家康の生母「おだい」の生家で
ある岡崎藩水野監物家にて客分扱い百人扶持。
『及聞秘録』より
寛文六年 1666年
三月二十六日酒井雅楽守忠清、大老となる。
寛文八年 1668年 三月十三日 五人の百姓、3代喜連川尊信の法要の時、呼び出さ
れ、焼香後、おこぼれ頂戴、慶安元年の件で褒美を
もらう。(喜連川家より許される)
『喜連川家由縁書』より
慶安元年の事件の御供諸士、同心衆へ帰参命令。
『喜連川家由縁書』より
寛文九年 1669年 慶安元年に出奔した、高滝清平と高瀬善左衛門の子?高瀧六郎、
高瀬九郎右衛門への帰参命令。『喜連川家由縁書』より
寛文十年 1670年 五月二日、4代昭氏の遠出の時、五人の百姓、昭氏に二階堂主殿
(又市37歳)の帰参を願いでる。『喜連川家由縁書』より
五月十四日、4代昭氏の弟、氏信20才(右衛門督)病死。
『喜連川義氏家譜』より
昭氏、幕府へ二階堂主殿の白河藩からの帰参願いを提出。
『喜連川家由縁書』より
寛文十一年 1671年 二階堂主殿(又市38歳)白河藩本田能登守から帰参。
『喜連川家由縁書』より
五人の百姓、「由緒書」・「評定所の担当老中、役人の記録」・
評定後の松平伊豆守らからのお褒めのことば、「尊信の書付」の
内容などを記録した文書を残す。
五人の百姓の子孫(飯島(佐野)平左衛門の子孫)が上記の文書
(もんじょ)をもとに、自家に都合よく、『喜連川家由縁書』(喜連川
御家)を記録編纂し百姓家(佐野家)の家伝書とする。
天和元年 1681年 七月四日(西暦) 下馬将軍、酒井雅楽守忠清 死去。
天和三年 1683年 四月十一日 一色刑部少輔崇貞の嫡男一色左京、三河岡崎にて
死去する。男子無し断絶 喜連川龍光寺の一色家墓所に父刑部と
ともに墓が健立される。
????? 江戸在住の人物により『及聞秘録』が書かれる。
正徳三年 1712年 十一月十一日 四代喜連川右兵衛督昭氏公、高齢により死去
享保六年 1721年 六月二十九日 五代喜連川氏春公、死去。
寛政十一年 1789年 『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)が編纂される。
江戸幕府が編修した系譜集。喜連川尊信の項の編集には『喜連川
判鑑』や当然、家老の二階堂家により都合よく改ざんした喜連川家の
家譜が提供され使用されたと思われる。
慶応〜明治初頭 最後の喜連川藩主、喜連川聡氏は『喜連川義氏家譜』の作成にあたり
喜連川騒動事件の記録に疑問をいだき江戸池之端の藩邸駐在の家臣
に調査させる。
市ヶ谷月桂寺の慶安元年の記録文書などを追加し『寛政重修諸家譜』
の喜連川尊信の項や疑わしい百姓家の伝書『喜連川家由縁書』とは
異なる慶安元年の喜連川騒動事件の詳細が記録される。
明治四十四年 1911年 喜連川町より公的文献『喜連川町郷土史』が発刊され、歪曲記事
「狂える名君」が掲載される。
明治四十五年 1912年 この頃、喜連川一色家嫡流根岸家当主根岸丹一郎が早死し、
三男であった祖父根岸元吉は国のたばこ専売事業に係わり
金子直吉に協力し幹部として鈴木商店に入社、喜連川から満州
に渡り旅順・大連・上海を中心に農産物の輸入・供給と販売事業
を始める。
なを、鈴木商店の解体が栃木農場の前身となる。満州における
関東軍農産物供給の35%を賄う、終戦の頃には支店27店舗と聞
いています。
また、一色刑部等三家老を逆臣とした、旧喜連川町が発刊した
『喜連川町郷土史』の歪曲記事「狂える名君」の影響でしょうか、
祖父の兄弟は皆、喜連川にて婚姻もせず、当然子孫も残さず、
放蕩し死去しております。
さらにこの頃でしょうか、龍光寺にある一色家の墓の正門にある
一色家の家名が削られ、家紋がコンクリートにより塗り潰された
時期であるとにらんでいます。
喜連川小学校の前には、現在も祖父元吉が寄付した栃木農場
の開設記念としての二宮金次郎のブロンズ像と校長室には祖父
の写真が残っています。戦中、陸軍新型戦闘機十機を寄付
戦後、宇都宮戸祭の栃木県議員宿舎「むつみ会館」を寄付
昭和五十二年 1977年 喜連川町より公的文献『喜連川町誌』が発刊され、歪曲記事
「喜連川騒動の顛末」が掲載される。
昭和五十七年 1982年 祖父元吉の法事に、元『喜連川町誌』編纂協力委員であった
小林氏が来られ、喜連川町発刊の『喜連川町郷土史』と『喜
連川町誌』の上記の記事のコピーを持参し歪曲の存在を伝え
られる。
小林氏は、「喜連川騒動の顛末」の記述のあり方に同意でき
ず、途中で辞任した方です。私は当時は中学生でした。
平成
三年 1991年 『喜連川文書』栃木県立博物館研究員らにより編纂される。
平成十一年 1999年
父弥寿雄死去により、小林氏の文献コピーを入手する。
平成十四年 2003年 「狂える名君」・「喜連川騒動の顛末」の記述に疑問点、矛盾点
があることを、口頭により、旧喜連川町史編纂室をおとずれ
担当職員伴氏.に抗議する。
平成十五年 2005年 三月当ページ喜連川騒動における一考察を作成、喜連川町史
編纂委員会をたずね、「狂える名君」・「喜連川騒動の顛末」
の歪曲記事の事実を明確させ抗議する。
平成十八年 2006年 七月インターネット百科事典Wikipediaに「喜連川騒動」・「一色
氏久」・「一色直朝」・「二階堂主膳助」・「高氏師(修理亮)」を
新規投稿編集する。
十月、喜連川町史編纂委員会をたずね、『及聞秘録』原本の
コピーを提示し抗議し、上記の二つの記述の元(もと)史料の
提示を求め、『喜連川家由緒書』の存在を確認、新しい『喜連川
町史』への掲載を要請する。
平成十九年 2007年 三月三十日、さくら市『喜連川町史』第三巻資料編3近世発刊、
(実際は発刊が送れており6月から発売)
『喜連川家由緒書』・『喜連川義氏家譜』、
『長百姓姓名書上』・
『喜連川家分別帳』など多数の古文書が掲載される。
注)「尊信公事件の一件」、『喜連川家由縁書』として、またまた
歪曲文書が掲載される。
六月三十日 『喜連川町史』第三巻資料編3近世の発売開始
七月
三日
上記の『喜連川町史』第三巻資料編3近世を
喜連川町史編纂委員会室にて購入する。
十月二十日 県内公立図書館に『喜連川町史』第三巻資料編
3近世の配刊を確認するも今だ配刊されていない、他の『喜連川
町史』は全て配刊済であるが第三巻3近世のみ配刊されていない
とのことであった。(未配刊の理由は不明・未確認)
平成20年三月三日、喜連川町史編纂委員会を訪問し、確認した
ところ、まだ目標販売部数に達していないので、公的図書館への
配布は、控えているとのことでした。
『喜連川町史』第四巻資料編4近代を編纂中であり、ここには
明治期の喜連川根岸家の功績史料が掲載されているそうです。
平成二十年 2008年 二月十八日 『喜連川家由緒書』の歪曲をあばくために、当ペー
ージの『喜連川家由緒書』(筆者訳と解析検証)の追加作成を
開始する。
二月二十五日 旧喜連川町史編纂委員会の伴氏に当ページを
プリントし持参し提供、専念寺住職・龍光寺住職にも提供する。
十月六日 グラフ社「日本一小さな大大名」山下昌也著が発刊
され、第三章「名君か、珍君か?」にて「喜連川騒動における一
考察」の論点・論調・表現と喜連川文書の江戸幕府老中奉書の
私の私訳が採用、参照され主体的に記述される。
ただし、山下昌也氏からの起用打診も出版の連絡・挨拶等は無し
(無断使用)。私がインターネット上で発見する。
「喜連川騒動における一考察」のメインページで自由に使用しても
良いことは記述してはいますが、礼儀は当然あるはずです。
山下氏の著作本が出版された以上、この点を明確にしていただか
ないことには、私の論点・論拠・表現・古文書の訳でありながら、
私が自由に使用できない時がくることが懸念されます。
とはいえ、これまでは日本中で、『喜連川町誌』(昭和52年発刊)を
編さんした旧喜連川町誌編さん委員会関係者と当家の史実論争で
あった中、当ページ『喜連川騒動における一考察』の論点・論調・私
訳を採用していただき強い味方が二人も現れてくれたと、旧町誌の
「喜連川騒動の顛末」における事件記述の矛盾・謎などが広くこの
出版を通じて広報されることに感動しております。
..・・・当ページの表現も採用していただいたことに感謝でOKかな。
平成二十年 2008年 十二月、山下昌也氏と編集担当者の福島結実子氏より直筆の
礼状と『日本一小さな大大名』グラフ社が一冊が届く。
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