昭和52年版の喜連川町誌に付けられていた年表の内、喜連川騒動に関係する事項を以下に
抜粋する。
1588年 天正16年 上総国新庄之御所源(足利)左兵衛督頼純の息女(島子)、塩谷安房
守惟久の室となる。
1590年 天正18年 小田原征伐。八月晦日、秀吉の命にそむき、日付の相違にて安房守
浪人となり塩谷氏没落する。
十二月二十日下総国古河鴻之巣において国朝古河公方義氏の娘氏
女と婚礼、喜連川城主となる。
(ページ執筆者補足:ここで、「塩谷氏の遺臣潔く退散す
る。」とすべきではないのか?)
1592年 文禄元年 朝鮮出兵。秀吉より尾張名護屋十八万石をたまわう命あり京都におい
て官任。
御弓御所足利頼純下総竜ヶ崎より喜連川に移住する。
1593年 文禄二年 国朝芸州海田羅において病により二月遡日逝去、連光院に葬る(嫡子
なし)。
弟頼氏還俗して兄国朝のあとを継ぐ。
1594年 文禄三年 国朝の遺臣等上総より来る。一色下野守・堆津下総守(後の二階堂)
等二十四名。・・・・・・・・・・・・??(「上総より来る。」??芸州海田羅
か、尾張名古屋から来たのでは??)
(また、この一色下野守とは喜連川騒動
における一色刑部の祖父一色右衛門
佐氏久であると思われる。
『及聞秘録』と古河鴻巣徳源院過去帳
を参照。)
塩谷氏の遺臣潔く退散する。・・・・・・・・??この年であったのか??
1598年 慶長三年 秀吉死ぬ。外征諸兵召喚
1599年 慶長四年 島子江戸市ヶ谷に庵を結ぶ
1606年 慶長六年 家康より奥州高貫郷千石の地贈られる。
諸役を免除される。
(ページ執筆者補足:将軍家親族扱いとされる)
1614年 慶長十九年 大阪冬の陣。
八月三浦掃部、義方を焼き亡ぼす。
(ページ執筆者補足:前藩主国朝の遺児が喜連川に入ったが、
彼が有能であったため、藩政の乱れを恐れた現藩主頼氏の命
にて行われた。
彼は国朝と氏女との子ではなく、京都にて他女に孕ませた庶子
であったとされる。)
館殿府庫火災により古記録多く烏有となる。
(ページ執筆者補足:義方暗殺との関わりはなかったのか?)
山城は不便のため山下に館を設ける。城の一部を
引取り館の用材に使用する。
(ページ執筆者補足:山城は、一部焼けてしまったので、
不便となったのでは?)
1615年 元和元年 大阪夏の陣。豊臣氏滅亡。武家諸法度を定む。
二階堂主殿・竜崎玄蓄をして江戸に登らせ秀忠を訪問させる。
(ページ執筆者補足:藩内に藩主のみ家老不在は、考えられず、
一色下野守は筆頭家老として藩内にいたと思考する。
また、喜連川家は徳川将軍家の親族扱いであるので同家家老の
将軍への謁見が可能であった。
一般には、大名家の家老は、将軍との謁見は、許されていない。)
1619年 元和五年 尊信古河鴻之巣に誕生。
(ページ執筆者補足:この記述には、追記事項がないので信頼でき
るものであると判断できる。)
1620年 元和六年 五月六日氏女鴻之巣にて逝去。
1622年 元和八年 下野国芳賀郡高根沢村・七井村の地を似て奥州高貫の地と交換する
1627年 寛永四年 七月四日河内守義親(尊信の父)古河鴻之巣にて逝去(二十九歳)
1630年 寛永七年 六月十三日左馬頭足利頼氏喜連川に逝去。
尊信古河より喜連川に移る、将軍秀忠の命により家督をつぐ。
1643年 寛永二十年 城内の一部焼失。
(ページ執筆者補足:焼失&一部解体された山城のさらなる焼失なの
か、新しい館の一部焼失なのか?
前年の寛永19年12月2日には、3代尊信の側室であり4代昭氏と
実弟氏信の生母は、その出産にともない死去している。
出火の原因は、嫡子を産んだ最愛なる側室の死去に落胆し、不仲で
ある正室との関係に、疲れ、狂乱した藩主尊信による火付けの可能
性はなかったか?
藩主でなければ、当然、詳細な犯人の記録が残るはずである。
一方、藩主の火付けであれば、尊信の狂乱の事実は家臣達、皆が
周知のこととなり、当然、犯人探はされないし、詳細な記録は残さな
いはずである。
この資料の有無が事件の真相解明の鍵の一つとなるのだが。
しかし、資料は未公開である)
1647年 正保四年 御家騒動起こる。
1648年 慶安元年 首謀者、伊豆大島へ流罪。
二階堂又市(家老)十五歳で白河城主へお預かりとなる。
(ページ執筆者補足:ここでは、首謀者名が明示されていないので
この記述は、信頼できると判断できる。)
1651年 承応元年 由比小雪の乱。(幕府の情勢を知るべく、ページ執筆者の追記)
1652年 承応二年 三月十七日尊信逝去。
昭氏家督を継ぎ、幼年のため将軍家綱の命にて榊原式部大輔忠政を
以て後見とする。
(ページ執筆者補足:榊原忠政は3代尊信の叔父であるが、すでに
1607年に死去している人物である。
よって、この場合、忠政の後を継いだ榊原忠次の誤りとなる。
そして、この1652年当時の榊原忠次は播磨姫路藩主であり、後見人
としてのつじつまが合わない。
しかし、4代昭氏の家督相続が喜連川騒動事件のあった1648年であ
れば、榊原忠次はまだ白河藩主であったので幕府の指定した後見人
として正当性が見えてくる。
また、「喜連川騒動の顛末」には、3代尊信の家督相続は、7歳であ
ったと記されているが、この年表によると、彼は、1619年の生まれで
あり、1630年の家督相続時は、11歳であることが判断できる。
よって、4代昭氏の時の事件として記述された、明治44年出版の喜連
川町史「狂える名君」の改定版としての昭和52年版である喜連川町
誌の「喜連川騒動の顛末」執筆者の3代尊信の家督相続年齢におけ
る誤記は、4代昭氏の家督相続年齢7歳に起因したと判断できる。
そして、この年表における4代昭氏の家督相続年(1652年)で7歳で
あるならば、4代昭氏の生まれた年は、1645年となるが、彼の生母は
1641年には死去しており、4代昭氏と実弟氏信の出生の歴史が完全
に消えてしまうのである。
よって、この年表の4代昭氏の家督相続年(1652年)では、矛盾が発
生する。
ところが、4代昭氏の家督相続が喜連川騒動のあった1648年であっ
たとするならば、すべての矛盾が解決するのである。
よって、この年表の4代昭氏の家督相続の記述は、3代尊信の死去
に合わせて、単純に追記したものであると判断できる。
*平成19年に発刊された公的文献「『喜連川町史』第三巻資料編3
近世」に収録された『喜連川義氏家譜』(東京大学史科編纂所所蔵)
と『足利家御家譜』(相馬氏所蔵)の4代喜連川昭氏の家督相続の
記録では
「慶安元年(1648年)大猷院殿(徳川家光)の命により、榊原式部
大輔忠次を後見として家督相続」
となっているのである。この「足利家譜(喜連川)」は、当時の同町
編纂委員会にはなかったのか?
もっとも、この文献があれば、4代昭氏の生誕記述(1641年)が
この年表に残されるはずであるがが?それもない。)
1662年 寛文二年 二階堂又市帰参し、主殿と改む。
(ページ執筆者補足:1648年の幕府評定記述では二階堂主繕助と
記されているが?二階堂主繕助又市ということか?)
1682年 天和二年 正保年中御家騒動に功労のあった百姓五名を引見し賞を与える。
(ページ執筆者補足:事件の内容にかかわりなく、藩のために働いた
ことであり、藩政の安定を支える忠義の心を讃えることは、藩主として
当然の施策であり、事実であろう。
一方、この年表が収録されている『喜連川町誌』に同時に収録されて
いる「喜連川騒動の顛末」の元である古文書『喜連川家由縁書』の
記録日は寛文十一年(1671)であり、これより先に「五人の百姓は
事件の功により喜連川藩士として取り立てられていること」がすでに
記録されれているので、昭和52年発刊の『喜連川町誌』内の記録に
おいて矛盾が生じている。
よって、この年表の元になった、なんらかの記録『古文書』が正しいと
すれば五人の元百姓の連判で書かれた家伝書『喜連川家由縁書』
の信憑性がここでも問われることになる。)
1713年 正徳三年 十一月昭氏逝去。
以後の年表は事件との関連はなく省略しました。
以上です。
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