天正 十年(1582) 足利義氏 古河城にて死去 「香雲院殿長山周善公大居士」
天正十一年(1583) 一色右衛門佐氏久等の御連判衆に北條氏政からの書
(喜連川文書)
同年 一色右衛門佐氏久等の御連判衆に北條氏照からの書
(喜連川文書)
天正十三年(1585) 一色右衛門佐氏久等の古河足利家奉公人連署書
(喜連川文書)
天正十五年(1587) 嶋様(小弓公方家足利頼純の娘)十八歳にて野州塩谷郡
喜連川領主塩谷阿波守惟久へ輿入。
此の時の御輿付 本名三浦 高瀧清兵衛
天正十八年(1590) 古河公方家足利氏女と小弓公方家足利国朝婚姻により下総
古河に移り、野州喜連川に四百貫の所領賜り国朝は古河公
方足利義氏の家を相続。
同年 一色右衛門佐等、御連判衆に山中長俊からの書有り
(喜連川文書)
天正十八年(1590) 寅歳十月二十二日小弓公方家足利国朝、下総国古河鴻巣にて
古河公方家足利氏姫と御婚禮。
この時のお供之者
国朝様御守 山名 豊前守
豊前 嫡子 山名 将監
同 二男
玉井 主馬
豊前 弟
山名 采女
二階堂
椎津 下総守
同
又市郎
土屋 織部
小俣 甚五左衛門
三戸 新左衛門
武田 重右衛門
芦屋 次郎左ェ門
海老名 大谷 内匠
文禄 元(1592) 辰年二月 小弓公方足利頼純が喜連川に移った時、下総国 龍ヶ崎から
の御供の者
竜崎玄蕃弟 佐野 甲斐
本名武田黒駒 佐藤 蔵人
同 図 書
東条 近江守
小関 強右衛門
小関 太郎左衛門
石井 大左衛門
海上 大学
多々良六左衛門
三上 長右衛門
大野 伊織
文禄二年(1593) 足利国朝、豊臣秀吉の朝鮮出兵に応呼、芸州にて病卒
「法常院殿球山良公大居士」
同年 国朝の弟足利頼氏(11歳)、氏女と婚姻兄国朝の遺領相続し
、喜連川に移る。
頼氏の御供として、房国朝夷隅丸庄石堂寺村より移し者供
高瀧清兵衛弟 三浦 掃 部
石堂寺西之坊
観 明 院
観明院之甥 冨田 九右衛門
遠藤 左 近
慶長始(1596) 被来候 逸見 山城守
同 三 郎
慶長元年(1596) 一色右衛門佐氏久等御連判衆に大久保長安ら連署書
(喜連川文書)
慶長二年(1597) 一色右衛門佐氏久等御連判衆に増田長盛から書状
(喜連川文書)
慶長六年(1602) 一色下野守(氏久)・死去、法名 松香院圭峰周玄居士
(古河徳源院過去帳)
慶長七年(1603) 一色刑部義□(古河)を筆頭に二階堂主殿久□(小弓)
の二名連名で龍光院に「寺領宛行状」付給
(喜連川文書)
慶長十年(1605)頃、古河より喜連川へ移り来た者達(足利氏姫31歳の時))
一色 刑 部
刑部嫡 立花家 同
左 京
刑部三男 石堂 八之丞
閑間 次郎左ェ門
同
五左衛門
中村 四郎兵衛
右三人安房里見家 里見 主 馬
○ヶ下里見家滅之後来る 龍崎 玄 蕃
高城 左衛門
元和元年(1615)
二月 一色下野守(前刑部少輔)に「長百姓・由緒の者由来仰せ渡し書」
が小関郷右衛門、黒駒七左衛門、富田又左衛門の三名の連名で
提出される(喜連川文書)
元和五年(1619)
喜連川尊信、古河鴻巣御所にて生誕
元和六年(1620)
五月 足利氏姫 古河鴻巣御所にて死去、享年46歳 「徳源院」
寛永四年(1627)
八月 喜連川義親 古河鴻巣御所にて死去、享年28歳
寛永七年(1630) 二代喜連川頼氏、喜連川にて卒 「大樹院殿涼山蔭公大居士」
同年 喜連川尊信(11歳)、頼氏の遺領を相続、 三代喜連川藩主となる。
同年六月 喜連川尊信が古河鴻之巣より移った時、同じく移った御供の者
高 修 理
伊勢守子 伊賀
金右衛門
高修理弟 印東 内 記
讃岐守子 相馬 勤 ○
柴田 久右衛門
梶原 平右衛門
本名細井 渋江 弥五兵衛
吉田・堀江は小田原北条から 吉田 六大夫
の御輿付で御中居様始と 堀江 彦右衛門
智勝院様付きとなる 大草 茂右衛門
同年 一色下野守義久は隠居、嫡子一色刑部少輔崇貞が喜連川足利家の
筆頭家老となる。
寛永十九年(1642)
十月二十八日 喜連川昭氏、喜連川御所にて生誕
同年十二月 喜連川昭氏の生母、卒 「欣浄院殿深誉妙心大姉」
寛永廿一年(1644) 大老土井大炊頭が高齢と病気に て死去。
慶安元年(1648)
二月 一色刑部少輔・柴田久右衛門・伊賀金右衛門等三家老、喜連川尊信
の発狂を幕府に隠した罪により、伊豆大嶋へ流刑となる。
相木金右衛門(刑部長男)父に連座し摂州尼崎青山大膳亮預かり。
一色左京(刑部次男)父に連座し泉州岸和田城主、 岡部美濃守預かり。
一色八郎(刑部三男)父に連座し、兄左京に同じく 岡部美濃守預かり。
一色五郎左衛門崇利、兄刑部に連座し、先代下野守義久の正室・側室
(母)とともに隣藩烏山の根岸の地にて浪人す。
三代喜連川尊信、徳川家光の命にて狂乱を理由に「押込」隠居。
慶安二年(1649)喜連川昭氏(7歳)徳川家光の命に より親族榊原(松平)式部大輔
忠次の後見にて四代喜連川
家当主となる。生母は父尊信の側室 「欣浄院殿」(昭氏を生んだ
同年死去)筆頭家老一色刑部の養女。実父は日光浪人伊藤某。
慶安三年(1650)
五月 幕命にて隠居&押込中の喜連川尊信と正室(那須資実の娘)の間
に次男、喜連川右衛門督氏信、生まれる。
七月十一日 一色下野守義久死去 法名「□□院長岳宗久居士」
(龍光寺の一色家墓所の墓より)
同年 隣藩の氏家根岸の地で浪人中の一色五郎左衛門崇利に喜連川家
より帰参命令が下る。一色五郎左衛門崇利は根岸五郎左衛門崇利
と改姓し四代喜連川右兵衛督昭氏(8歳)と弟喜連川右衛門督氏信
及び先代喜連川左兵衛督尊信(30歳)の親子に再仕する。
『喜連川町史』第三巻 資料編3 近世の「小林家代々日記」より。
以降、龍光寺の喜連川家墓所正門前にある一色家墓所の最初の
墓である実父一色下野守義久と母達の墓石を建立する。
異例となる一色五郎左衛門崇利への帰参命令の理由は、幕府が
任命した、四代喜連川昭氏の後見人である榊原式部大輔忠次に、
翌年には、播磨姫路に、幕府から移封命令が出されたこと。そして
この年に、幕命にて「押し込め」中の前喜連川家当主の尊信と正室
の間に男子(氏信)が生まれたことである。
これは、幕府は幕府体制の安定のためにも、精神的不安定状態に
ある先代喜連川尊信と次男喜連川氏信の存在が、将来の喜連川
家中に与える影響をも危惧して、先々代の喜連川家筆頭家老であ
った一色下野守義久と、先代の一色刑部少輔の実弟。つまり、一色
五郎左衛門崇利の二人を、一色から根岸へ改姓させることで、対外
的に「武家諸法度」を守る形をとり、喜連川家家臣全員が知り、皆が
従う、二人の帰参をもって、家中の乱れを、事前に阻止する奇策を考
えたと思われる。
慶安四年(1651)
六月 奥州白河城主の榊原(松平)式部大輔忠次が播磨姫路城主として移封。
同時に播磨姫路城主の本多能登守忠義が奥州白河城主として移封。
八月 慶安事件発覚。由井正雪は駿府にて、金井半兵衛が大阪で、双方とも
に幕府の捕り方に囲まれて自害8月10日丸橋忠弥の磔付にて終結す。
承応元年(1652)
9月13日 承応事件が発覚。10月15日に解決。 慶安の変に続くもので、これまで
の武断政治の結果としての浪人増加による事件であり、以後、幕府は、
文治政治へと、政治方針を転換する。
承応二年(1653)
三代喜連川尊信、卒 34歳 法名「瑞芳院殿昌山桂公大居士」
明暦二年(1656)
一色刑部少輔崇貞、伊豆大嶋で卒 法名「翠竹院松山宗貞居士」
寛文二年(1662)
徳川家光の十三回忌の時、一色刑部崇貞の男子三人許され、岡崎藩主
水野監物家にて一色左京を当主とし客分・百人扶持にで再興。その後嫡子
無しにて断絶。『及聞秘録』より
寛文九年(1669)
二月 喜連川左兵衛督昭氏、弟右衛門督氏信を養子とする。
五月 喜連川右衛門督氏信、江戸に出向き四代将軍徳川家綱との初見を果たす。
寛文十年(1670)
五月 喜連川右衛門督氏信 死去(享年20歳)
寛文十一年(1671)
二階堂主殿又市、奥州白河城主本多忠義家より帰還。
根岸五郎左衛門崇利、根岸丹右衛門連達と改名し、城下に宿を三軒営み
商人となる。
天和 三年(1683)
四月十一日 三河岡崎にて一色刑部少輔崇貞の嫡子一色左京死去男子無しにて断絶。
従っていた兄の相木与右衛門にも弟の一色八郎も、男子無し)『及聞秘録』
この時、岡崎藩水野監物家から四代喜連川昭氏を通し、一色左京の死去が
根岸丹右衛門家(実一色五郎左衛門家)に知らされ、一色刑部少輔崇貞・
嫡子一色左京の墓石を建立。
正徳三年(1713)
四代喜連川右兵衛督昭氏喜連川屋形にて卒72歳
法名「令徳院殿孝山恭公大居士」
享保六年(1722)
五代喜連川氏春 卒 法名「太常院殿天山道公大居士」
以後、鎌倉公方家と共に鎌倉〜古河〜喜連川と移った一色家は、喜連川家
筆頭家老一色部少輔崇貞の実弟である一色五郎左衛門崇利の根岸丹右衛
門家となる。
根岸五郎左衛門崇利(実は一色五郎左衛門崇利)は事件後に帰参し、隠居中
の三代尊信と四代当主昭氏、実弟氏信に再仕、幕命により一代家老となった
黒駒七左衛門・渋江甚左衛門 ・大草四郎右衛門等の三家老を取りまとめる、
実質的な喜連川家首席家老となる。
その後、喜連川氏信が20歳を迎える頃には兄である主君喜連川昭氏と意見
が合わず、喜連川昭氏が氏信と生母を同じくする実姉の万姫(佐久山城主に
嫁いでいた)に相談の手紙を出すなど、不仲の状態が続いていた。翌年寛文
十年 (1670年)喜連川氏信(享年20歳)の病死。
これを期に、根岸五郎左衛門は主君喜連川昭氏体制の安泰を確信、長く白河
城主にお預けとなっていた二階堂主殿又市の帰参願いを幕府に提出。
翌寛文十一年(1671年)の二階堂主殿の帰参を機に、、度重なる喜連川家の
お家騒動を恐れてか? 根岸五郎左衛門崇利は根岸丹右衛門と改名し、喜
川城下で三件の宿屋を営む商人となる。屋号は「柏屋」。
以後代々当主は根岸丹右衛門を名乗る。(『喜連川町史』第三巻資料編3近世
にて編纂された古文書である喜連川旧領主塩谷家、家臣小林出羽守から城下
の商人となった、町役の小林久右衛門家の「小林家代々日記」より。)
祖父の話では、根岸党という喜連川城下の有力商家を束ねていたと聞く。根岸
丹右衛門家は町役等の町奉行管轄となる役を務めることは、決して無い特権商
家であった。
321-2522
栃木県日光市鬼怒川温泉大原270
喜連川一色家末裔 根岸剛弥