「江戸幕府の老中から慶安元年事件評定
 に関して松平(榊原)忠次に宛てられた手紙」
喜連川教育委員会所蔵、『喜連川文書』の一部
    栃木県立博物官研究員による釈文

        55「江戸幕府老中奉書」

           一筆令啓候、喜連川右兵衛方押籠置候所、破之被出候と申来之由承候、
           今程御??半之事候間、先如前々押籠、番之者堅付置候様ニ彼家来江
           被相達犬候、勿論富地江被参候義者、必無用可然候、若言上有之度事
           候ハ?、致書付以貴殿家来被差越候様ニ可被申候、為其如批候、
           恐々謹言
                                            阿部豊後守(忠秋)
            九月七日(慶安元年)
                                            松平伊豆守(信綱)
            松平式部大輔殿(榊原忠次)


          私訳)喜連川右兵衛を押籠(おしこめ)ているが、(喜連川の家臣より)破り出
              てしまうと報告があった。何度も押籠めるよう番の者に堅く(文を)付置
              いているのだが、彼(尊信)の家来では、当然使い物にならない。
              よって、そのような報告もたびたびの事であるので、書面を送って貴殿
              の家来を差し向けてもらえないだろうか。そのような訳である。


          注) この手紙には、なぜか栃木県博物館の研究員の方の訳がつけられて
             いません、狂乱中の様子が書かれているので、当時の喜連川町の意向
             があり、あえて付けなかったのでしょうか?

          一方、「『喜連川町史』 第五巻 資料編 5 喜連川文書 下」(平成19年3月
          30日発刊、の概説では、(P550〜P551)

          [概説]
          差出人の阿部忠秋・松平信綱は幕府老中。榊原忠次の祖父康政は尊信の母
          の養父。忠次は元和二年(1616)に松平姓を賜っている。正保四年(1647)か
          ら慶安元年(1648)にかけて喜連川家では家中騒動が起こり、幕府の裁定を
          受けることになった。その結果、尊信は致仕させられ、その子昭氏が七歳で
          家督を継いだ。昭氏が幼少のため忠次がその後見を勤めた。書状では、幕府
          の詮議中に尊信が押籠められていた場所から抜け出したとある。したがって、
          この書状は慶安元年のもの。
          老中奉書であるが、老中の花押が書かれていない。榊原忠次から喜連川家
          に送られた写かもしれない。

          とある。


        56「江戸幕府老中連判署奉書」

           一筆申入候、喜連川右兵衛(尊信)家来二階堂可被召寄之候、主殿不有
           之候て不成候ハ?、いつれニても似合敷者壱人参候様、ニ可被申遺候
           恐々謹言
                                            阿部対馬守(重次)
            九月十二日(慶安元年)
                                            松平伊豆守(信綱)
            松平式部大輔殿(榊原忠次)


          私訳)喜連川尊信の家来、二階堂を(江戸へ)被召(呼んでいる)ので、主殿
              は不有(喜連川にはいない)ので不成(主殿は当てられない)、ともか
              く相応の者を一人(喜連川に)参らせるように、申し残す。


           以下は、栃木県立博物館の研究員による、上記2通の手紙(書簡)の
           概説である。

            「喜連川尊信の家来として二階堂主殿を当てるようにしたが、うまくゆか
             ないので、ともかく相応な者を一人遣わすようによろしく取り計らうよう
             にとの内容である。」

            注)なぜか、上記二通の手紙の概説といいながら、先の九月七日の手紙
               の訳は、いっさい付けられていません。????

         一方「 『喜連川町史』第五巻 資料編 5 喜連川文書 下」平成19年3月30日
         発刊における、解説では、(P554)

          一筆申し入れ候、喜連川右兵衛(尊信)家来二階堂主殿これを召し寄らせる
          べく候、主殿これ有らず成らず候わば、いずれにしても似合わしき者一人参り
          候様に申し遣わさるべく候、恐々謹言、

         [解説]
          喜連川家の家中騒動に際しての老中奉書、幕府の詮議中の時期と思われる。
          幕府は喜連川家の重臣二階堂主殿を召還し、尋問しようとしていたと考えられ
          る。この老中奉書も花押がなく、榊原忠次から喜連川家に送られた写かもしれ
          ない。



        57「江戸幕府老中奉書」

           喜連川右兵衛(尊信)事、狂乱無粉候慮、隠置候義不届候間、領地?可被
           召上候、異他家義候間被成御有免候、似相之所相囲差置之、息梅千代者
           幼少之事候間、其方萬事致差?、家来共守立候様ニ可仕詣、被?仰出候
           次一色刑部・柴田久右衛門・伊賀金右衛門・事者、右兵衛狂乱之段不申上
           隠置候義、曲事被思召、大嶋江被慮流罪、彼者共男子之分者、所々江御預
           之事候、然者二階堂主殿者代替ニ付き?、其方被成御預候、可被得其意候
           恐々謹言
                                            阿部対馬守(重次)
           十月十八日(慶安元年)
                                            阿部豊後守(忠秋)
                                            松平伊豆守(信綱)
           松平式部大輔殿(榊原忠次)


          私訳)喜連川尊信のことであるが、狂乱は紛れも無いところで、長く隠し置いた
             ことは、不届きであり、領地没収(めしあげ)のところであるが、他家のこと
             とは異なり許すことと成った。

             似合の所、相囲みこれを差し置くので(尊信は致仕とする)息子の梅千代
             (昭氏)が幼少の間は、そのほうに、万事まかすことにする。
             家来とともに守りたてる様に、(上様から)おうせがあったので、被仰出候
             (登城するように)。

             次に、一色刑部と柴田久右衛門と伊賀金右衛門のことであるが、右兵衛(
             尊信)の狂乱を申し出ずに隠し置いたことは、曲がりごとであると思うので
             大嶋へ流罪とし、かの者の嫡子(男子之分者)は、所々へ御預かりの事
             となった。(曲事とは、当時の諸法度に照らし正しくないの意味である)

             したがって二階堂主殿者は代替(二階堂主殿の嫡子)であるので、その方
             で預かることと成った、その意を得ていただきたい。


           以下は、栃木県立博物館研究員の訳

            「藩主喜連川尊信が、紛れなく狂乱である状態であることを隠して届けなか
             った件について、当然領地を没収するに価するものであるが、お家の大事
             に係わることでもあるので、ご赦免となった。

             尊信の息子の梅千代(昭氏.)は幼少であるので、その方が万事指図をして
             家来ども援護するようにとの上意があった。

             次に、一色刑部・柴田久右衛門・伊賀金右衛門のことは、尊信狂乱のことを
             報告しなかったことは、けしからぬ事であり、大嶋へ流罪に処す。彼らの男子
             は、それぞれ所々へお預けとし、二階堂主殿は代替えとなるので、その方が
             預かることとする。以上よろしく。」

          一方、「『喜連川町史』 第五巻 資料編 5 喜連川文書 下」(平成19年3月30
          日発刊)の概説では、(P552〜P553)

          [概説]
          「似相之所相囲差置之」とは、隠居することを意味する。大島は伊豆大島。正保
          四年(1647)から慶安元年(1648)にかけて起こった喜連川家の家中騒動に対し
          幕府は尊信の隠居、その子昭氏の家督相続と榊原忠次の後見、家臣一色刑部
          ・柴田久右衛門・伊賀金右衛門の大島流罪、彼らの男子の諸家預け、家臣二階
          堂主殿の榊原忠次家預けという裁定を下した。この老中奉書は、榊原忠次に昭
          氏の後見と、二階堂主殿の預けを命じたものである。したがって、この奉書は、
          慶安元年のもの。なを、この老中奉書も前号のものと同じく花押がなく、榊原忠
          次から喜連川家に送られた写かもしれない。

          とあります。


      皆さんは、私の訳と栃木県立博物館研究員の方の訳との違いが判っていだけました
      でしょうか?

      原文を照らし合わせながら、読むと、公的機関の訳が、いかにいい加減なのか、ご理
      解いただけるかと思います。訳し方一つにも旧喜連川町の意向が入ってしまっている
      ようです。思い込みでしょうか?

      また、喜連川尊信が江戸にて押籠になっているように受け取れる、幕府老中からの
      手紙の文面ではあるが、『及聞秘録』を参照するならば、幕府目付(御上使)からの
      報告を基に、幕府老中達が榊原(松平)忠次に宛てた手紙と判断でき、喜連川尊信
      の押籠めは喜連川でのことと判断できる。

      そして、この手紙に出てくる二階堂主殿とは、事件の22年後に白河藩から帰参した
      二階堂又市(当時15才)と考えることが出来る。

      このことは、幕府の事件における、三家老(一色刑部、二階堂主殿、柴田久右衛門)
      の扱いは、一般的な容疑者に対するそれとは異なっており、一色刑部、柴田久右衛門
      の二家老と伊賀金右衛門が先に事情説明の為、幕府目付(御上使)と共に自ら江戸に
      向かい、留守役として残っていた二階堂主殿(又市)が後から江戸に呼ばれていたと
      見ることができる。


       


    「古河公方家御連判衆に
       宛てられた後北条氏からの手紙」



            29「北条氏政書状」(1584年)

              四日之芳墨今六日到来升陸奥守所へ委
              細之篠々披露之候、得心申候、然者御葬豊之義、
              先代々之模様不存候間、至干時達候、
              其上?境目加様之取成、令思慮故一端之愚意候
              華意?御富城成共無異儀至干仕置者、
              各可為御随意候、曲時分虎口故
              陸奥守遅参努不可有無沙汰候、委曲
              陸奥守可申入候 恐々謹言

                    天正十一年正月六日   氏政 (花押)

                       芳春院(北条氏綱娘)
                       一色右衛門佐殿(氏久)
                       町野備中守殿(義俊)
                       小笠原兵庫頭殿(氏長)
                       高大和守殿(氏師)
                       梁田右馬助殿(助寛)
                       徳隠軒(昌伊)(渋江景胤)


            31「北条氏照書状」

              急度以使申入候、先日者間宮若狭守(信綱)を以一二ヶ條被仰届処、
              何も?其地落着の趣蒙仰候間、別二申事無之候間、其以後者是非不
              申入候、一御葬儀之場古河之儀者、境目之事外聞寛儀不可然候、
              御先代御菩提所天下無其隠地二候之條、
              如御先例?久喜被御執行可燃之由被仰届処、各一同二其地二被定之
              由家仰之間、?被任御存分候、申迄?無之候、加様之時者、
              従方々徒者馳集儀候條、其覚悟肝要候、華意従他来者を一途に可被
              停事可燃存候、但各不可過御分別候、一批度円覚寺被請之由先段も
              如被仰届、何分二も如御先筋目他之無批判様二御取扱?候、批儀者
              両寺幸御葬儀之刻如何様二も令示弓候、万端走廻度?存候、虎口手
              前之義之候條、
              無?如何様二も御中陰之内令参上、御焼香申上度念願迄候、
              一先段如申入、大細御用等候者、時々刻々可蒙仰候、布施所迄
              就御届者即刻可指越之間可蒙仰候、一以御連状蒙仰候、則為申聞候
              従氏政御返礼進入申候、一批度之御香銭参萬?従氏直進上被申候、
              委曲口上二申含候、御用之義候者、可披露御回答候、恐々謹言、

                    天正十一年.正月八日    氏照 (花押)

                       芳春院(北条氏綱娘)
                       右衛門佐殿(一色氏久)
                       町野備中守殿(義俊)
                       小笠原兵庫頭殿(氏長)
                       高大和守殿(氏師)
                       梁田右馬助殿(助寛)
                       徳隠軒(昌伊)(渋江景胤)


            39「山中長俊書状」

              芳?拝読候、乃御腰物師光被贈下之候、御懇情本望存候、
              然者今度者殿下様御一宿之刻、御仕合能上?之御方御出仕、
              因滋?少分候、姫君様御堪忍分之儀被仰出、先以可然存候、
              為其御示豊傍々遠路之所上?御越候、御大儀千万候、孝蔵
              主引付申候、彼是旨趣言上候、弥首尾可然時分何分二も可致
              馳走候、?己来?不可存疎略候、心事連々天徳寺へ可申顕候、
              委曲上?御方鳳桐寺口上二申渡候、其元之儀彼是増田方へ
              書状遺候、有御内見以天徳寺早々可有御届候、恐々謹言

                                        山中橘内

                    八月廿二日       長俊(花押)

                    芳春院(北条氏綱娘)
                        永仙院(昌伊)
                        一色右衛門佐殿(氏久)
                        町野備中守殿(義俊)
                        小笠原兵庫頭殿(氏長)
                        高修理亮助殿(氏師)
                        梁田右馬助殿(助寛)
                           各
                            御報


            43「増田長盛書状」

              古河姫君様御知行分御被官百姓之事、
              自然逐電之族?有之者、被任御法度之旨、
              狗候所へ?可被相届候、若不能帰候者、
              可被申上候、達 上聞可被加御成敗候、
              恐々謹言、
                             増田右衛門尉

              二月十二日 長盛(花押)


               一色右衛門佐殿(氏久)
               町野孫七□□{郎殿}
               小笠原兵庫頭殿(氏長)
               高修理□殿{亮}
               梁田□□□□{右馬助殿}
               永仙院
                  御宿所


            54「大久保長安等連署奉書」(1596年)

              尚々彼両人へ
              尋可申子細御急度令申候、乃
              座候間、早々
              御祈人様御知被仰付御越行之内古河之可被成候、
              以上養泉院二被居候嘉座主・珍座主被両人へ尋可申
              儀共御座候間、其元より被仰付早々御越可被成候、
              若彼寺二不被居候者、只今何方二居住に?候哉其寺二
              て御聞被成、具二御報令待入存候、恐々謹言

                               本佐(花押)(本多正信)

               閏(文禄)五年七月十二日
                                 
                               伊熊(花押)(伊奈熊蔵)
                               長谷七左(花押)(長谷川藤広)
                               彦小刑(花押)(彦坂元成)
                               大十兵(花押)(大久保長安)

               養泉院
               寛珠院
               一色右衛門佐殿(氏久)
               高修理助殿
               小笠原兵庫介殿


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 喜連川頼氏・尊信期の
       一色刑部等に宛てられた文書



          「土井利勝からの書状」(喜連川町史 第五巻 資料編 5 喜連川文書 上)


               猶以印判御免可被成候、以上
            尊書忝致拝見候、改年之御慶珍重納候、隋 年頭之御礼ニ御参向可被成候
            処ニ、旧冬ヨリ御煩敷御座候故、為御名代二階堂主殿助方を以被仰候、奉得
            其意候、委細之段老中より可被申達候、然者、為御祝儀 子十被下置候、
            是被為入御念候段、過分忝奉存候、此等之通、宜預御心得候、恐々謹言、

                                            土井大炊頭

              正月六日                             利勝

              一色刑部殿

           訳「尊書かたじけなく拝見いたし候、改年の御慶び珍重申し納め候、ついで、
             年頭の御礼に御参向なさるべく候ところに、旧冬より御わずらわしく御座候
             ゆえ、御名代として二階堂主殿助方をもって仰せられ候、その意を得奉り候
             委細の段.、老中より申し達せらるべく候、さらに、御祝儀として雉子十下し
             置かれ候、まことに御念入らせられ候段、過分かたじけなく存じ奉り候、
             これらの通り、よろしく御心得に預かるべく候、恐々謹言
             猶以て、印判御免成らるべく候、以上」

        **注)尊信が病気であるので、御名代として二階堂主殿助を参向させることを
             喜連川家筆頭家老の一色刑部少輔が大老土井大炊頭利勝に知らせたこと
             に対する返書です。

             つまり、文中で「旧冬より御わずらわしく御座候」と『喜連川義氏家譜』

               「高膳(尊信)乱心せしを家老等をもかくし通し、例病気のよし申候て
                久しく参勤なし」

             の事件記述が一致し、さらにこの書状の「老中より申し達せられべく候」の
             記述表現より土井利勝はすでに老中の上位職である大老職にあったと
             判断できる。

             つまり、喜連川尊信の押籠中の書状である。そして、「旧冬より御わずら
             わしく御座候」から、この書状の日付は「寛永十九年正月六日」であること
             がわかる。

             すなわち、当然にして二階堂主殿助(二階堂又市の父)も寛永十八年の
             尊信の押籠に家老の一人として合意していたことを示す書状であり喜連
             川騒動の真実をかたる貴重な書状の一つととらえることができる。

             また、この書状は昭和52年の喜連川町誌の年表記述の歪曲の証拠でも
             ある。二階堂主殿が藩主の御名代として江戸に上洛した記述の年が三代
             藩主喜連川尊信の押籠中であるものを、先代の喜連川頼氏の生前中の
             ことと強引に詐称記録していることがわかる。(当ページ筆者の解析)

              「1615年 元和元年 二階堂主殿・竜崎玄蓄をして江戸に登らせ秀忠
               を訪問させる。」喜連川町誌の年表



          「本多正純からの書状」(喜連川町史 第五巻 資料編 5 喜連川文書 上)


               以上、
             従義親様御書致頂戴候、乃 御老母様儀ニ付 御参府被成度由御座候
             得共、御煩故其儀無座候、少も不苦御事ニ御座候間、御延引可被成候、
             将跡素麺一折・鮭二尺送被下候、過分至極ニ奉存候、此等之趣可然様ニ
             御披露候所、仰候、恐々謹言、
                                             本多上野介
               九月二十四日                        正純(花押)

                高修理亮殿

           訳「義親様より御書頂戴いたし候、よって御老母様儀につきて、御参府なされ
             度き由御座候えども、御わずらいゆえ、その儀御座なく候、
             少しも苦しからざる御事に御座候、御延引きなさるべく候、
             はたまた、素麺一折・鮭二尺送りくだされ候、過分しごくにぞんじ奉り候、
             これらの趣しかるべき様に御披露候ところ、あおぎ候、恐々謹言 以上

       **注)喜連川義親から徳川秀忠の側近(老中)であった本多正純に、江戸に参府
            するとの書状があったが、御老母(足利氏女)様が病気中でもあるので、
            なんの気兼ねなく、江戸参府を引き延ばしになられたらよい。という手紙が
            近習の高修理亮に宛てられた。

            この文書からは、このころ(元和2年〜5年)高修理亮はまだ喜連川城下には
            無く、古河鴻巣御所にて氏女、義親、幼少の尊信に仕えていた
            ことがわかる。(当ページ筆者の解析)



          「土井利勝からの書状」(喜連川町史 第五巻 資料編 5 喜連川文書 上)


                高修理殿                  土井大炊頭
                                             利勝

             心元就参尊書、殊更歳暮之御祝儀与被仰、料紙三十束被下置候、
             是以奉忝存候、右之通宜預御心得候、恐々謹言、

               極月二十九日                     利勝(花押)

           訳「こころもと尊書御参につき、殊更歳暮の御祝儀と仰せられ、料紙三十束
             下し置かれ候、まことにもってかたじけなく存じ奉り候、
             右の通り、よろしく御心得に預かるべく候、恐々謹言」

       **注)この文書は、古河鴻巣御所に仕えていた近習、高修理への手紙であるこ
            とから、尊書とは足利氏女の手紙であり、氏女からの歳暮に対して、
            徳川秀忠の側近(老中)として土井利勝からの御礼を喜連川家の鴻巣御所
            の近習である高修理亮から氏女に伝えるよう宛てたものであると判断できる。
            これは、歳暮とは古来、家と家との儀礼であるが、氏女は生涯において、
            喜連川に足を踏み入れたことがない。つまり、このことを考察すれば理解で
            きることとで、古河鴻巣御所は足利氏女にとってあくまで古河公方家であり、
            喜連川家ではないという認識が氏女にはあったことがうかがえる。
            ゆえに、氏女が生存中であればこその古河公方家から徳川将軍家への歳暮
            であったことが理解できる。
            氏女の死後、古河鴻巣御所の主は子の義親となるが、彼の父は喜連川頼氏
            であるので、義親が父の喜連川頼氏を差し置いて、勝手に徳川将軍家に歳暮
            を送ることは非礼となり、ありえないのである。
            なお、義親は幼い尊信を残し、父である喜連川頼氏より先に死去しており以後
            古河鴻巣御所の主は、喜連川頼氏が死去するまで幼い尊信となる。
            (当ページ筆者の解析)




   <<その他、喜連川藩内の一色刑部の地位を示す文書>>


          「松平正綱からの書状」(喜連川町史 第五巻 資料編 5 喜連川文書 上)

              以上、
            従 右兵衛督様尊書、殊蕨之粉壱箱致拝受候、誠御墾志添次第ニ奉存候
            此等之趣可然様ニ御取成所、仰候、恐々謹言

                                           松平右衛門大夫
              二月二十八日                       正綱(花押)

              一色刑部殿
              二階堂主殿殿

           訳「右兵衛督(尊信)様より尊書、殊にわらびの粉一箱、拝受いたし候、
             誠に御墾志添なき次第にぞんじ奉り候、これらの趣、しかるべき様に
             御取成すところ、仰ぎ候、恐々謹言 以上」



          「神尾元勝からの書状」(喜連川町史 大五巻 資料編 5 喜連川文書 上)

            一色刑部少輔様                      神尾内記
            二階堂主殿助様                         元勝
                     人々御中

            一筆致啓上候、然者、尊信様来二日ニ御出仕被成候付、私式も能出、
            御馳走可申上由奉得其意候、随 任到来さざえ壱折進上仕候
            可然様御披露奉頼候、恐皇謹言、

              極月二十九日                         元勝(花押影)

           訳「一筆けいじょういたし候、しかれば、尊信様来る二日に御出仕なされ候に
             つき、私もまかり出で、御馳走もうし上ぐべきゆえ、その意を得奉り候、
             ついで到来にまかせ、さざえ一折を進上仕り候、しかるべき様、ご披露たの
             み奉り候、恐皇謹言」



          「松平忠次からの書状」(喜連川町史 第五巻 資料編 5 喜連川文書 上)

            為歳暮之御祝儀御使者、殊更杉原十束・雉子十把拝受仕、添奉存候、致登
            城御使へも不能面談候、御参勤不存候、早々自是不申上致迷惑候、
            可然様被仰上可給候、恐々謹言、
                                            松平式部大輔
               極月二十八日                         忠次(花押)

             一色刑部少輔殿
             二階堂主殿頭殿

           訳 「歳暮のご祝儀として御使者、ことさら杉原十束・雉子十把拝受つかまつり
              かたじけなく存じ奉り候、
              登城致し御使へも面談あたわらず候、御参勤存ぜず候て、早々これより
              申し上げず迷惑いたし候、しかるべき様おうせ上げ給うべく候、恐々謹言」