喜連川家筆頭家老一色刑部少輔崇貞は喜連川足利家の家臣ではあるが、同時
に、初代室町将軍足利尊氏の四代前の当主である、足利泰氏の五男であった足
利公深を祖とする足利一門である。 足利公深の嫡子である一色範氏と嫡孫直氏
は早くから宗家である鎌倉の足利尊氏に仕え、室町幕府の初代九州探題となり
親子二代に渡り九州平定に尽力した。 しかし、将軍足利尊氏の長男であったが
副将軍の足利直義の養子となり、南朝方となった足利義冬の乱を鎮めることはで
きず。 後に京に戻され、祖父である足利公深の遺領であった武蔵国幸(薩)手に
戻り初代鎌倉公方となった足利基氏の側近(奉公衆)となった一色宮内大輔直氏
系の一色家嫡流である。
また、室町三代将軍足利義満の次男であった権大納言足利義嗣の遺児(当時、
六歳嫡男:看聞御記より)となる直明が、この鎌倉一色家を継いだ(養子相続)と
され、一色宮内大輔直明の長男で、永享の乱の後、五代鎌倉公方足利成氏の
命により、鎌倉一色家を相続した一色右衛門佐蔵主〜一色刑部少輔〜一色右
衛門佐(下野守)氏久〜一色刑部少輔(下野守)義久〜一色刑部少輔崇貞と一
色五郎左衛門崇利の兄弟へと続いた鎌倉足利一色家の嫡流でもあった。
当然、足利幕府の中枢である三菅四職家であった丹後一色家末孫の一人で、
時の江戸幕府を築いた徳川家康のブレーンとして、天海上人と共に黒衣の宰相
といわれ、幕府体制の礎となる「武家諸法度」・「禁中並公家諸法度」・「社寺諸
法度」を考案し、その草案を作った南禅寺派座主の金地院崇伝(一色崇伝)との
間においても、江戸にて同族として早くから交流があったことも、喜連川の一色
兄弟の名前に用いられている「崇」の字からも伺うことができる。
ゆえに、一色刑部少輔崇貞は室町・戦国時代から新しい時代となる江戸・徳川
の時代における武家の有りかたなど十分に理解していた人物で、喜連川足利家
においても 古河・上総の両公方家の親族であるので、両家の家臣を束ね得る
最上位格の特別な立場にあった人物であることは、当然にして配慮、考察すべ
きである。
寛永十八年(1641)、喜連川家三代当主足利尊信に徳川幕府体制を喜連川足利
家が生き抜く上で問題となる言動や行動があり「狂乱である」として長く城内に一
間を設けて「押籠」とし、幕府には長く通常の病気であると届け、年初の江戸城の
将軍への挨拶には次席家老の二階堂主殿助が御名代として通っていた所、この
二階堂主殿助(又市の父で上総小弓公方家からの家臣)と尊信公の近習であっ
た高修理亮・梶原平右衛門(両名共に古河公方家からの家臣)の二名との間に
いざこざが起こり、それぞれ党を結んだ。
そこで、時の筆頭家老一色刑部少輔崇貞・次席家老二階堂主殿助・家老伊賀金
右衛門の三家老が合議し、高・梶原の二人を喜連川家内の古河と小弓系家臣の
融合を目的として追放した。
その後、二階堂主殿助(又市の父)が死去した為、新しく古河系家臣の柴田久右
衛門が家老に抜擢され二階堂主殿助の子である幼い又市は元服の後、若家老
となり、二階堂主膳助となっていた。
しかし、若家老とは実質「家老見習い」の立場でしかなく、当然のことながら家老
であり喜連川家の実質的な家政を握る三家老は一色・伊賀・柴田の旧古河公方
家家臣で占められ、二階堂主膳助を頭とする反体制派は何かと不満を持つよう
になった。
そして、正保四年(1647)二階堂主膳助(又市15歳)を頭とした反体制派は追放
していた高・梶原等と手を結び、喜連川家に忠誠を示す、旧喜連川領主塩谷家
臣であった五人の百姓等は、同年八月に反体制派から渡された偽造の「尊信
の命令書」を持って江戸に出て、「三家老達が正常である藩主尊信公を、狂乱
を理由に押籠め、家政を握っている。」と時の老中松平伊豆守宅での直訴に至
った。
百姓達の話を聞いた老中松平伊豆守信綱は他の老中達とも相談したが、喜連川
の一色刑部少輔崇貞はよく知る人物であり、徳川の時代において外様大名家の
家政が主ではなく、家老達に任されていることは幕府安泰のためにも、望まれる
ことであり、これをもって、「家政乗っ取り」というのはどうも理解しがたい。 一応、
この件を時の将軍徳川家光にも報告したが、そもそも喜連川の足利家における
一色家の家格から判断しても一色刑部少輔崇貞等の三家老に家政が任されて
いることに、なんら不自然はない。 しばらく様子を見ることとした。
慶安元年正月、恒例により年初の挨拶に登城してきた尊信の御名代である柴田
久右衛門に事情を聞いては見たが、「尊信は通常の病気である」との報告であり
、幕府が認める旧足利将軍家に連なる関東公方家の末である喜連川足利家の
尊信の御名代であり、深い追求もできなかった。
江戸から帰郷した柴田久右衛門の報告をもとに早速、三家老(一色・柴田・伊賀)
等は藩内における反体制は(直訴派)の洗い出しを始めた。 そして、これを見た
二階堂主膳助(又市)は警戒を強め、直訴に直接係わり、偽の「尊信の命令書」を
五人の百姓に手渡した家臣達と、直訴に及んだ百姓達を先に喜連川から出奔させ
、二階堂主膳助(又市)自身は、高・梶原は父である二階堂主殿助と争論し追放さ
れた者たちであるので、すぐには自分に詮議の目は向けられないと思っていた。
慶安元年(1648年)七月三日、将軍徳川家光と老中達は喜連川足利家の体面に
差し支えのないように、昨年八月の百姓の訴えの真偽を計るべく、喜連川家の親
族であり、徳川家の親族でもある松平(榊原)式部大夫忠次の家医関ト養を尊信
の治療を名目として、喜連川に向かわせることで尊信の「狂乱」の事実を確認し、
江戸では高・梶原等の身柄をそれとなく拘束した。
さらに、慶安元年(1648年)七月十一日、喜連川に向かった幕府目付(探索方)の
目的は、百姓達が持参した「尊信の命令書」の真偽を確かめ一色刑部少輔崇貞
等三家老と寛永十八年(1641年)より押籠中の藩主喜連川尊信の名代として江戸
に年始の挨拶に来ていた、次席家老の二階堂主殿助の嫡子でまだ若家老である
二階堂主膳助(又市)を江戸に召還することであった。
そして、慶安元年の万姫は、3代尊信の御名代で事実確認のために、幕府から江
戸に召されたのであって、直訴にはいっさい係ってはいなかったと判断できる。
万姫(七歳)は、3代尊信の正室の産んだ娘ですので当然、正室の管理下にあり、
万姫を江戸に出向かせ直訴させることは、押込中である3代尊信の「狂乱」を幕府
に知らせることとなり、3代尊信の隠居も必須となる。 さらに、この時、世継ぎと
なれる男子は、3代尊信が「押籠」となった二年後となる寛永拾九年(1642)のに
側室の欣浄院殿(一色刑部の娘)との間に生まれた昭氏(七歳)だけであるので、
男子のいない正室の権力低下は必定となる。 よって、正室が娘の万姫を江戸
に直訴に出す愚行を許す理由もなく、事件の記述を記録した公的文書や書状の
全てに万姫の記述がないことも、その証拠といえる。
つまり、一色刑部等三家老が3代尊信を「押込」とし、この事実を幕府に届けない
でいた判断の意味は、彼らは「3代尊信の押込」を合議する以前にすでに家政を
任された家老達であるので「家政(藩政)乗っ取り」とはいわない。 一色刑部等
三家老がが3代尊信の「狂乱」を幕府に届け出て、一色刑部の孫の昭氏(7歳)
が4代当主になり、幕府公認のもと榊原忠次や一色刑部が後見人になろうが、
これをもって、「家政(藩政)乗っ取り」とはいわない。
そして、3代喜連川尊信の「狂乱」の真偽であるが、実際この時代の「狂乱」の文字
には多くの意味が含められている。 三代将軍徳川家光の実弟駿河大納言徳川忠
長は正常ではあったが「軍勢をもって猿退治をする」など奇行があった。 これに対し
て将軍家光は幕府への反逆の表れであると判断し、「狂乱」を理由に彼を改易にし
た。
三代喜連川尊信は古河鴻巣御所にて、十一歳まで幼少期を過ごしている。 気位
が高く、足利国朝・頼氏兄弟との婚姻生活において新領地である下野国喜連川の
地には一度たりと足を運ぼうとしなかった古河公方家当主足利氏女(氏姫)を祖母
として古河公方家の嫡流として育てられた可能性があり、時代錯誤があったのか
もしれない。
「徳川家とは我が足利家の分家である新田家の庶家である得川家の分家だそう
だ。」 「なんで、足利将軍家(本家)が絶えた今となっては足利家嫡流となる俺が
徳川などの江戸城まで出向いて、年初の挨拶をしなきゃならんのか? 気が乗ら
ないので行きたくない。」 ぐらいの気質があった可能性があります。
寛永十八年、時世の変化を判断できずにこのような考えの行動や言動を表わす
ようになった君主尊信を見た一色刑部少輔崇貞等三家老(一色・二階堂・柴田)
は徳川の時世を考慮し喜連川足利家の安泰を目的として合議し、やむなく主君
である尊信を表向きは「狂乱」として館内に押籠めとした。 狂乱中の言動なら
幕府の耳に入ったとしても咎められることもないという判断からであろう。
三代将軍徳川家光と幕府老中達もこの事実を知り、尊信の思考と態度はけしか
らんと思いつつも、当時の時世を考慮し喜連川(足利)家の存在は徳川幕府の
安泰の為に必要である。
そこで、幕府は一色刑部少輔崇貞等三家老の判断と同じく、尊信を対外的には
「狂乱」とし隠居させ、喜連川尊信のただ一人の男子(一色刑部崇貞の養女であ
る側室の欣浄院殿と喜連川尊信の間に生まれた子)の昭氏(七歳)を四代喜連
川家当主とし、白河城主松平(榊原)式部大夫忠次を後見人として、幕府にとって
要注意人物となった足利宗家(喜連川公方)である喜連川尊信の見張りも兼ねさ
せる秘策を選択した。
『喜連川義氏家譜』の事件記述にある幕府が喜連川へ遣した人物は、確かに
当時の若年寄支配下の目付職の人物として確認できる花房勘右衛門です。
このことは老中支配下の大目付ではないことから、この頃、幕府は喜連川家を
参勤交代を免除した特別な高家旗本として扱っていたことになり、関東公方家
の末裔として古河鴻巣御所で育てられた三代喜連川尊信の心中は十分伺い
知れるものです。
つまり、幕府はこの事件を通して旧室町将軍家の分家である関東公方家末裔
である喜連川尊信の心中を察し、息子の四代喜連川昭氏の時から喜連川家に
御所号を許し、国主格でありながら、参勤交代を免除し無役とするなど喜連川家
を特別な大名家として優遇することで、徳川幕府体制の安泰を狙ったとすると
理解しやすい。
以下は、この喜連川騒動事件を年表にあらわしたものです。
寛永十八年(1641年) 喜連川右兵衛督尊信は筆頭家老一色刑部少輔、二階堂
主殿助、伊賀金右衛門等、三家老の合議によって城内で
押籠めとなる。
*『喜連川家由縁書』と喜連川文書の古河城主で大老
土井利勝から一色刑部少輔崇貞への書状より。
寛永十九年(1642年)
正月 二階堂主殿助(又市の父)、尊信の御名代として将軍家へ
の年初の挨拶のため江戸へ行く。
*喜連川文書の土井利勝から一色刑部少輔崇貞への
書状より
十月二十四日 押籠中に三代喜連川尊信の長男昭氏生まれる。(生母
側室「欣浄院殿」一色刑部少輔崇貞の養女)
十二月二日 昭氏の生母、欣浄院殿、死去。
前記の二項は、『喜連川義氏家譜』より
年月不明 二階堂主殿助(又市の父)と高・梶原が争論し高・梶原の
二名は追放となる。
年月不明 二階堂主殿助(又市の父)死去。柴田久右衛門が新しく
家老に抜擢される。
正保四年(1647年)
月日不明 二階堂主膳助(又市)と高・梶原が直訴を密議。
八月 五人の百姓が江戸へ直訴。 『喜連川家由縁書』の「尊信
の命令書」から
慶安元年(1648年)
七月 三日 幕府老中の取り計らいにより、尊信は松平忠次の家医、
関ト養の治療を受ける。
『徳川実紀』徳川家光(大猶院殿)の日記より
七月十一日 幕府目付け花房勘右衛門等2名が喜連川に遣わされる。
日付は『喜連川家由縁書』を参考に して
『喜連川義氏家譜』より
十八日 評定所にて尊信の御名代万姫・三家老・二階堂又市・高・
梶原を交えて評定吟味が開始される。
『喜連川家由縁書』・『寛政重修諸家譜』・『喜連川文書』より。
九月七日 幕府老中達から松平(榊原)忠次に押込中である喜連川尊信
の番人を要請する書状が送られる。 『喜連川文書』より
九月十二日 幕府老中達から松平(榊原)忠次に押込中であ喜連川尊信の
番人を催促する書状が送られる。二階堂主膳助(又市)は江戸
に召還していることも、記述されている。喜連川文書より
十月十八日 幕府老中達から松平(榊原)忠次に尊信狂乱の事実と致仕
(隠居)命令を下したこと、嫡子昭氏と喜連川家の後見を依頼す
る書状が送られる。『喜連川文書』より
十二月 喜連川騒動解決、昭氏(数え七歳)四代喜連川家当主となり
松平(榊原)忠次が後見し、尊信は致仕(隠居)。三家老(一色・
伊賀・柴田)は伊豆大島へ流刑その家族は大名家預かり。高・
梶原も伊豆大島流刑。二階堂主膳助(又市15歳)は白河藩松平
忠次へお預けとなる。 『喜連川家由縁書』を参考に『足利家系
譜(喜連川)』・『寛政重修諸家譜』・『及聞秘録』・『喜連川義氏
家譜』より。
慶安二年(1649年)
六月九日 白河城主松平(榊原)忠次が姫路城主となり、替わって姫路城主
本多忠義が白河城主となる。『寛政重修諸家譜』より
おそらくこの時、一色刑部少輔崇貞の実弟一色五郎左衛門崇利
に帰参命令が下り、一色から根岸へと改姓し、大甥となる四代喜
連川昭氏公(八歳)を補佐する特別な側衆として仕え根岸五郎左
衛門崇利(連達)となる。
慶安三年(1650年)
七月十一日 喜連川家二代筆頭家老一色下野守(前刑部少輔)義久、高齢に
より死去。(喜連川一色家墓所の墓石より)墓石正面には「□□
院長岳宗久居士」さらに、右側面には「二代頼氏公直臣」「大禅
勘平胤栄」左側面には「慶安三年七月十一日」と刻まれている。
一色五郎左衛門崇利は浪人中に「山本勘平」を名乗っていた。
「『喜連川町史』第三巻 資料偏 近世」の掲載文書「小林家代々
日記」の「根岸丹右衛門のこと」より。
七月二十日 押込め中の三代喜連川尊信と正室の間に次男氏信(四代昭氏公
の弟)生まれる。(側室の欣浄 院殿は八年前に死去、ゆえに
生母は正室)『喜連川義氏家譜』より
承応二年(1653年)
三月十七日、三代喜連川尊信死去 『喜連川判鑑』・『喜連川義氏家譜』より
明暦二年(1656年)
七月 喜連川家三代筆頭家老一色刑部少輔崇貞、「伊豆大嶋ニテ逝ス」
観喜佛 翠竹院松山宗貞居士
(埋葬者はおそらく四代喜連川昭氏。徳源院は臨済宗鎌倉第二位
円覚寺の支寺。喜連川一色家の祖は鎌倉の逗子藤沢を領した
鎌倉一色家当主、一色宮内大輔直兼の養子で、三代将軍足利
義満の次男義嗣の嫡子直明であり、この一色直明の長子で臨
済宗鎌倉第一位建長寺の僧侶であった一色右衛門佐蔵主(従
五位下)であり、永亨の乱(1438年)の後に再興された五代鎌倉
公方であり初代古河公方となった足利成氏が、その側近とする
べく、還俗させた人物である。なお、喜連川一色家の墓も鎌倉
円覚寺支寺である喜連川龍光寺にあり、一色刑部と嫡子左京
親子の墓石が残されている。 ここにも四代喜連川昭氏の意向
が読み取れる。)古河鴻巣御所にあった徳源院の過去帳「古河
市史」より
寛文二年(1663年)
四月二十日 徳川家光の十三回忌、三家老(一色・柴田・伊賀)許されるが
いずれも高齢の為死去、三家老の嫡子もゆるされ、みな譜代
大名家にて再興される。一色家は岡崎藩水野監物家にて客分
扱いの百人扶持(禄高2000石)で召呼されるが、その後一色
左京に嫡子なしにて断絶。『及聞秘録』より、(喜連川龍光寺
の一色家の墓の刑部と左京の墓石は一つで正面が左京、側面
に刑部の形で二人の名と戒名が刻まれていることから、この件
が岡崎の水野監物家から四代喜連川昭氏に知らせがあり、昭氏
によって墓石が建立されたことが十分伺われる。つまりこの墓石
は一色左京をメインとした記念碑であるといえます。)
寛文十年(1670年)
五月十四日 四代喜連川昭氏の実弟氏信(21歳)病死。 『喜連川義氏家譜』より
寛文十一年(1671年)
二階堂主膳助(又市38歳)四代喜連川昭氏の嘆願により幕府から
罪を許され、白河藩(本多忠義)から帰参。『喜連川家由縁書』より
月 日不明 五人の百姓の一人佐野越後(飯島平左衛門)により、百姓家の偽
家伝書『喜連川家由縁書』 (表題、喜連川御家)が記述される。
宝暦元年(1751年)
岡崎藩水野監物家にて水野騒動が起こり宝暦二年三月二十二日
に解決し養子の水野監物忠任が家督を相続するが、水野監物忠辰
は八月十八日幽閉のまま死去。
このように年表にすることで3代喜連川尊信が三家老達と幕府による形式上の「押
籠中」に「尊信が4代昭氏と氏信をもうけ得た事実」と喜連川騒動の真実も理解できる。
そして、一色刑部少輔崇貞の嫡子一色左京の再興先であった水野監物家でも、一色
左京が経験した喜連川騒動の103年後に、君主押籠があったことがわかります。喜連
川の騒動事件を聞いていた家老達によって行われたのでしょうか。この時は家老達が
幕府に報告していたので、水野忠辰の押籠を執行した家老達は罰せられることはなか
った。 つまり、「君主押籠」とは、けして家政の乗っ取り行為ではなく、この時代の主家
と家臣団の生活を守るために家老達が執行する当然の職務であり、幕府も認めた武家
の制度なのです。