8 << 喜連川藩の傀儡藩主時代の到来 >>
4代昭氏の養子となった弟氏信は、喜連川騒動事件の約一年後の1650年の
生まれで1670年に約21歳で死去している。養父より先に亡くなったのである。
『寛政重修諸家譜』では生母は兄昭氏と同じとなっている。 ところが、先に
述べたとおりで4代昭氏の生母「欣浄院殿」の死去日は氏信生誕日の約7年
半前の1642年12月2日ですので、4代昭氏と弟氏信の生母は同じであるわけ
がなく 、この『寛政重修諸家譜』の記録は故意的な歪曲記録といえます。
氏信の生母は、隠居した3代尊信と正室の子である可能性を残しているので
す。 つまり、喜連川騒動事件がなければ氏信が本来の4代藩主になってい
たと考えられるのです。
氏信が正室の子であれば、当然新たな「お家騒動の種」となるので4代昭氏
と同腹であるとすることが喜連川藩(喜連川足利家)にとって都合が良かった
ことが、この歪曲記録の原因ではなかったか? そして、喜連川足利家は
4代昭氏の死後、嫡子は無く、親族の幕府高家旗本となっていた宮原家か
ら養子を迎え5代藩主春氏が相続しました。 ここに、男系としての小弓公方
足利家嫡流の流れが途絶え、喜連川家は宮原公方流喜連川家の流れに変
ったのである。 (もっともこの時点では、宮原家は古河公方家の分家である
ので、まだ古河公方家の血流はつながっています。)
そして、以後の喜連川藩主は殆どが他家からの養子であり12代藩主喜連川
縄氏(15代将軍徳川慶喜の実弟)を迎えるまでの藩主は皆、藩政に口を出さ
ない、幕府や家臣達にとって都合のよい傀儡藩主(俗に家臣には名君といわ
れる)であったと言えます。 さらに、喜連川騒動により白河藩主榊原(松平)
忠次に預けられた、二階堂又市(主膳介)は事件の23年後に帰参しておりま
すので、この時の喜連川藩には一色家は無く、残された家臣達の中では二
階堂家が筆頭の家格となります。(古河連判衆の一人で梁田高助の娘婿、
椎津行憲の流れで、彼は国府台合戦の時、小弓公方足利義明に味方し、
その時の傷が原因で死去している。椎津行憲の子孫でもある)
よって、二階堂家にとって汚点となる喜連川騒動を歪曲するにしても、大変
都合のよい時代になったともいえます。 そして、武家(大名・旗本)の婚姻
や養子縁組については幕府の許可が必要な時代ですので、旧足利将軍家
の流れである喜連川家の、嫡流の血を他家の血に替えてしまい傀儡状態に
することは徳川将軍家にとっても幕府安泰の為、都合の良いことであったと
いえます。
しかし、最後の将軍徳川慶喜の実弟であり、水戸尊皇攘夷派であり政策好
きな十二代喜連川縄氏と、これまで何代にも渡り、喜連川藩主を傀儡として
きた二階堂家の二階堂親子との藩政をめぐる対立は、当然のことであったと
いえます。 また、この頃では喜連川騒動事件当時とは異なり、小弓公方家
家臣逸見祥仙の子孫となる次席格の参政であった逸見家(小弓公方系)の
存在は、喜連川家家臣を束ねるに十分な家格となっていたが、喜連川騒動
の汚点を持つ国老二階堂家の存在は薄いものとなっていたのではなかった
か?(この逸見家が喜連川家最後の国老です。)
余談ですが、旧喜連川町の通称「専念寺」にある、この逸見家の墓は、子孫
が絶え、墓守がいませんでしたが、親戚の方が墓もりをすることになったそう
です。甲斐国をめぐる、武田家・逸見家の戦いなど関東の戦国期を語る名族
の嫡流が絶えることは残念なことであります。