『鎌倉御所方過去帳』
鎌倉殿・古河・喜連川御所様御代々碑名帳(高野山櫻池院所蔵)
関東将軍家御所方過去帳
長寿寺殿仁山妙義大居士 贈従一位、大相国源尊氏公 神儀
延文三戊戌四月廿九日
大休院殿吉山源公大居士 源直義公
神儀
観應三壬辰二月念六日
賽□院殿瑞山推公大居士 京二代源義詮公 神儀
貞治六丁未十二月七日
瑞泉寺殿玉巌道マ公大居士 関東元祖源基氏公、
神儀
貞治六丁未四月十六日
鹿苑院殿天山道義公大居士 京三代源義満公 神儀
(京相国寺では太上天皇) 應永十五戌子五月初六日
永安寺殿壁山全公大居士 関東二代源氏満公、
神儀
應永五丁丑十一月四日
勝光院殿泰岳道安大居士 関東三代源満兼公、
神儀
應永十六己丑七月廿二日
勝定院殿顕山詮公大居士 京四代源義持公 神儀
應永三十正月十八日
長春院殿陽山継公大居士 四代源持氏公、
神儀
永亨十一己未二月十日
乾亨院殿久山昌公大居士 五代古河源成氏公、
神儀
明應六丁巳九月晦日
甘譽院殿吉山道長大居士 六代古河源政氏公、
神儀
亨禄四辛卯七月十六日
千光院殿高山貴公大居士 七代古河源高基公、
神儀
天文四乙未十月八日
永仙院殿系山道統大居士 八代古河晴氏公、 神儀
永禄三 申五月廿三日
香雲院殿長山周善大居士 九代古河義氏公、 神儀
天正十壬午十二月六日
法常院殿珠山良公大居士 十一代喜連川源国朝公
神儀
文禄二發巳二月塑日
徳源院殿慈峰晃公大居士 十代古河氏女公、義氏公姫君
神儀
元和六 申五月六日
天寿院殿儀山英公大居士 十三代古河源義親公、 神儀
寛永四丁卯七月三日
大樹院殿涼山蔭公大居士 十二代喜連川源頼氏公、
神儀
寛永七 午六月十三日
瑞芳院殿昌山桂公大居士 十四代喜連川源尊信公、
神儀
承応二 巳三月十七日
令徳院殿孝山恭公大居士 十五代喜連川源昭氏公、
神儀
正徳三 巳年十一月十一日
太常院殿天山道公大居士 十六代喜連川源氏春公、
神儀
享保六辛丑六月廿九日
「古河鴻巣 徳源院過去帳」
「徳源院過去帳」から一色下野守と一色刑部の記録を抜粋しました。なお、「徳源院」
とは、足利氏女(氏姫)が大檀那である古河鴻巣村に明治時代まで存在した寺です。
『古河市史』の資料として掲載された史料です。
上記の過去帳の一色下野守の戒名「松香院圭峰周玄居士」に使われている「香」と「周」の
字は、古河公方足利義氏の戒名「香雲院殿長山周禅大居士」からの二字で「峰」の字は、
足利義氏の息女氏女(うじひめ)の戒名「徳源院殿慈峰晃香大禅定尼」から一字使われて
いることが確認できます。
また、初代藩主足利国朝が共に記録(供養)されていることと、『及聞秘録』での一色氏の
記録から後北条家幕下にあったことにより、足利義氏、氏女、国朝の三代に主に仕えた、
一色右衛門佐氏久がこの「一色下野守」であることが理解できます。 さらに、「一色下野
守」を弔った人物は、だれであったのか?ですが、この過去帳より初代藩主足利国朝は
文禄二年(1593年)に死去しており、一色下野守は慶長六年(1602年)の死去となります
ので、存命中の二代藩主足利頼氏と一色下野守の嫡子一色刑部少輔義久であることが
理解できます。
次に、上記の過去帳では一色刑部の戒名「翠竹院松山宗貞居士」中の「松」の字は、祖父
である一色下野守氏久の戒名「松香院圭峰周玄居士」から一字とったもので、「山」の字を
この場所で用いるのは足利家代々の男子の戒名の慣習のようです。
(喜連川一色家の墓の写真参照。)
すなわち、喜連川騒動事件により大嶋にて死去した「一色刑部」は、四代藩主喜連川昭氏
公と共に足利一門の男子として葬られていることが理解できます。 また、一色刑部少輔崇
貞の死去年は、明暦二年(1656年)七月ですので、彼の妻子は『及聞秘録』により泉州岸
和田藩岡部家預かり中であり、喜連川にはいませんので、彼を葬った人物はだれであった
のか?です。
このことは、三代喜連川尊信公の死去年は、一色刑部の死去の三年前、承応二年(1653
年)ですので、ここで一色刑部と共に葬られている正徳三年(1712年)に死去した、まだ
存命中の四代藩主喜連川昭氏公自信であることが理解できます。 当然この過去帳には、
一色刑部と同じく、遠流先の大嶋にて死去したと思われる、喜連川家にとって事件の主犯
となる旧家臣、高四郎左衛門と梶原平右衛門の名はありません。
さらに、一色刑部の嫡子、一色左京の戒名は喜連川の龍光寺の墓石より「乾利院道山松
公居士」(死去年は天和(1683年)三年四月十一日)であることが解っています。つまり、
四代喜連川昭氏公の死去年は正徳三年(1712)でしたので、一色左京の死去年天和三
年(1683年)から、彼を弔ったのも四代喜連川昭氏公であると判断できます。
そして、室町三代将軍足利義満の戒名「鹿苑院殿天山道義公大居士」であり一色左京は
足利義満の次男足利義嗣の流れを引く者で同族であるという喜連川藩主の認識により、
「道山公」の文字が彼の戒名に付けられ、「松」の字は父刑部の戒名から取っているよう
でもある。
なにより、一色刑部と左京親子の墓があるのは、喜連川足利家の菩提寺龍光院にあり、
しかも藩主の墓の正門前で、戒名を付けるのは寺の住職です。 このへんの認識が喜連
川藩主と住職になければ事件後に、このような戒名が付けられ、墓石が立てられる理由
が見つからないからです。さらにこのことは、一色左京が許されたのが事件の十四年後
となる徳川家光の十三回忌(1663年)であることを考慮すると、岡崎藩に喜連川一色家
百人扶持(2000〜3000石)が20年に渡って客分として存在したことになりす。 また、
一色左京の死去年齢ですが、事件の時仮に元服前の10歳であったとすると45歳、14歳
であったなら49歳で死去したことが想定されます。
なお、「山」と「公」の場所に注目したい。 「□山□公」は、足利家男子の戒名のパターン
です。岡崎藩水野家で、客分にて2000石〜3000石で再興された一色左京の戒名として
考えると理解できます。一色家の墓の写真にて確認ください。 そして、鎌倉・古河御所系
の男子に「□山□公」のパターンでない当主もありますが、これは室町の足利本家への
遠慮ではなかったか?足利本家滅亡以後は、古河公方家では積極的に「□山□公」が
使われているようです。また、「古河徳源院」は禅宗の寺ですので、戒名の「大居士」は
「大禅定門」になっているようです。
以上、ここでの資料は全て『古河市史』にて確認できます。
321-2522
栃木県日光市鬼怒川温泉大原270番地
喜連川一色家子孫 根岸 剛弥
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