12 <<『喜連川町誌』の誤記と矛盾の修正>>
『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」では、尊信公(7歳)が3代藩主となった
ことになっているが、同誌年表では尊信公は1619年生まれとされています。
よって、3代喜連川尊信公の、1630年の家督相続年齢は、実際は10〜11歳が
正しくなります。
『喜連川町誌』昭和52年版(1977年)の「喜連川騒動の顛末」の執筆者は、検証
もせずに、『喜連川郷土史』明治44年版の「狂える名君」の名君が4代昭氏として
書かれていたので、4代昭氏の家督相続時の年齢7歳をそのまま
、「喜連川騒動の顛末」の3代尊信公の家督相続時の年齢を7歳と記載していた
のでしょう。
よって、7歳と言う4代昭氏の家督相続年齢と後見人榊原忠政の記述が、巧妙に
歪曲された喜連川町発行の2誌(史)の喜連川騒動事件記述における矛盾検証
のキーワードとなりました。
つまり、尊信派は、3代尊信公を直訴事件により失脚隠居させたことになりますの
で実は、3代尊信にとっての真の逆臣は「喜連川騒動の顛末」で記述された尊信派
となります。
尊信派こそ、藩主3代尊信公の力を衰退させ、親族一色刑部および一色派を追い
出し、幼少の4代昭氏(7歳)を傀儡として、喜連川藩の実権を握るべく、喜連川騒動
事件を起こし、「藩政乗っ取り事件」を偽装した罪人と言えるのである。
『喜連川町誌』昭和52年(1977年)版の「喜連川騒動の顛末」では、尊信派は一色
刑部を失脚させることにより、藩主3代尊信公の力を復権させようとしたので仙台藩
の伊達騒動を題材とした、山本周五郎先生の「樅の木は残った」の説と類似すると
記述されているが、その記述さえ絵空話となるのである。
次に、事件後の喜連川家家臣団の情勢についての史実を検証することにより、この
事件の真相を究明するのも一興かと思います。