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まず、下のリンクを参照してください。
足利国朝と喜連川の地に入った家臣団
この38名の多くは、足利氏姫の婿となる足利国朝を迎えにいった古河公方家
の家臣達であり、小弓公方家の家臣は10名前後であった。現在の所、喜連川
足利家の重臣の中で確認できる、小弓公方家家臣は椎津某(椎津下総守主殿
と思われる)と逸見三郎ぐらいです。 黒駒家は、足利頼淳が喜連川入城の時、
従った家臣と思われ武田系です。 逸見三郎は、国府台合戦にて戦死した小弓
公方家家臣逸見祥仙(1499〜1538)の子孫と思われる。 甲斐国の主権を武田
家と争った逸見家の末裔か?
小弓公方家は国府台合戦に破れ足利義明と長男の義純は死去、幼い次男頼淳
は上総里見義暁に保護され石塔寺で育てられた。小弓城廃城となっているので、
この時期の小弓御所とは足利頼淳の通称である。 一説では、豊臣秀吉の北条
征伐のあと里見義暁と成人した足利頼淳はかってに軍を動かし旧上総の領地を
奪還し小弓城も奪還したといわれるが、この件で里見義暁は、上総と安房の領地
を没収されたとあり、小弓城での在住は定かではない。
実際のところ、北条征伐の2年前、足利頼淳の長女島子は、旧喜連川城主塩谷
惟久からの縁談話により、口減らしのため塩谷家に嫁いでおり、塩谷惟久の北条
征伐への遅延弁解の使者として、当時宇都宮にいた豊臣秀吉に面会したが、
この時、塩谷家を捨て秀吉の側室となった。 塩谷惟久にしてみれば踏んだり蹴
ったりの悲劇である。 そもそも、惟久のマザコンにあきれた島子の里を思う心に
より喜連川足利家が誕生したのである。(『下野の戦国史』) よって、塩谷家に
島子が嫁ぐくらいに、小弓公方家の家政は、そうとう苦しかったことが、伺える。
小弓公方家の足利国朝が喜連川に向かった後、上総には国朝の父足利頼淳が
残ったはずであり、石塔寺には足利頼氏がおります。少ない家臣の多くを国朝に
付けることは不可能であったのです。 その後、足利氏姫と足利頼氏の婚姻を
もって、古河公方家と小弓公方家の合併統一がなされたので、小弓公方足利頼
淳は喜連川の地を踏みました。 よって、1590年の喜連川足利家の発祥時より
元古河公方家御連判衆筆頭の一色右衛門佐氏久または、その子一色刑部少輔
義久を筆頭家老として、古河公方家家臣を中心に藩政は運営されたことは必然
でした。
一方、古河系家臣には、古河鴻巣御所に死ぬまで在した、足利氏姫付きの家臣
があり、2代喜連川足利頼氏の死去に伴って、3代尊信の喜連川領入国のお共
として、古河鴻巣御所をたたみ、喜連川の地に入った最後の家臣があります。
以下がその記録から見れる序列です。(東京大学史科編纂所、所蔵)
高
修 理
伊勢守子 伊賀 金右衛門
高修理弟 印東 内 記
讃岐守子 相馬 勤 ○
柴田 久右衛門
梶原 平右衛門
本名細井 渋江 弥五兵衛
三家老の二人、伊賀金右衛門と柴田久右衛門の前に高修理(高四郎左衛門)
、その後に梶原平右衛門(梶原孫次郎)の名が見えます。
次の文書は、幕府老中本田正純から、名代の高修理亮宛で、古河鴻巣御所
の足利氏姫と喜連川義親に送られた手紙です。
「本多正純からの書状」(喜連川町史 第五巻 資料編 5 喜連川文書 上)
以上、
従義親様御書致頂戴候、乃 御老母様儀ニ付 御参府被成度由御座候
得共、御煩故其儀無座候、少も不苦御事ニ御座候間、御延引可被成候、
将跡素麺一折・鮭二尺送被下候、過分至極ニ奉存候、此等之趣可然様ニ
御披露候所、仰候、恐々謹言、
本多上野介
九月二十四日 正純(花押)
高修理亮殿
訳「義親様より御書頂戴いたし候、よって御老母様儀につきて、御参府なされ
度き由御座候えども、御わずらいゆえ、その儀御座なく候、少しも苦しから
ざる御事に御座候、御延引きなさるべく候、はたまた素麺一折・鮭二尺送り
くだされ候、過分しごくにぞんじ奉り候、これらの趣しかるべき様に御披露候
ところ、あおぎ候、恐々謹言 以上
*注)喜連川義親から徳川秀忠の側近(老中)であった本多正純に、江戸に参府
するとの書状があったが、御老母(足利氏女)様が病気中でもあるので、
なんの気兼ねなく、江戸参府を引き延ばしになられたらよい。という手紙が
近習の高修理亮に宛てられた。
この文書からは、このころ(元和2年〜5年)高修理亮はまだ喜連川城下には
無く、古河鴻巣御所にて氏女、義親、幼少の尊信に仕えていたことがわ
かる。(足利氏女は生涯、喜連川の地を踏んだことはないため)
すなわち、古河系家臣団と上総小弓系家臣団の2回にわかれた喜連川入国が
1648年の喜連川騒動(幕府への直訴事件)の発生要因の一つであったと思わ
れます。 喜連川藩の家臣には、先に喜連川に入った家臣と後から入った家臣
の間に大きなな藩政における権力の差が生じており、これが三家老と高修理・
梶原平右衛門等とゆう家臣間の派閥が発生したと思われる。 古河派・小弓派
ということではない。
二階堂又市(15歳)については、これとは別で、やはり幕府体制下の藩政とは
何かを知らない、若さゆえ担がれたとも取れるが、本当に「尊信派」であったか
は疑問に残る。『及聞秘録』の記録で考えるなら、疑問はあっさり解消されます。
次に、喜連川騒動事件解決(1648)後の資料として、194年後の資料ですが、
下記のリンク先を参照して下さい。
天保十三年(1842年)喜連川足利家臣団の家禄&役責取り決め
スライドショウ写真の1枚目と2枚目の資料の表右端の表記は「総」が小弓系で
「河」が古河系の派閥を表しております。
そして、喜連川騒動事件の立役者であり、主君を助ける為に切腹を謀ったり、
直訴のために浪人(脱藩)までした、事件の大英雄である浪人高修理と梶原平
右衛門の子孫となるであろう高家と梶原家を名乗る家臣の姓が存在しません。
どうしたことでしょうか? 『喜連川郷土史』の「狂える名君」と『喜連川町誌』の
「喜連川騒動の顛末」によれば、この事件の一番の功労者は「高修理」と「梶原
平右衛門」のはずですので、彼等に助け出された正常であった主君尊信公には
別格の扱いを彼等が受けていて当然なはずです。 また、当時、二階堂又市と
協議し直訴計画を決定した武田市郎左衛門・高滝清平・高瀬善左衛門の子孫が
おりません。 しかし、小関嘉之助の子孫らしき人物名「小関延射、給人 22石
「総」は確認できます。これは、「喜連川騒動の顛末」の記述の中に、
「控訴中断の報が国元へ伝わるや、梶原平左衛門は、浪人を願い出、急ぎ
江戸表へのぼって、同誌と会い、対策を講じた。この様子をみて、尊信派に
連判した者に心変わりする者が現れ動揺が見えてきた。」
とありますので、この時寝返った家臣が小関嘉之助ではなかったか?と思われ
ます。 他の動向から判断すると確定できるものではありませんが。以外と「喜
連川騒動の顛末」は、このような記述には、正確性があるようです。
一方、直訴に向かった万姫に密かに護衛として従ったとされる5人の同心、富川
定右衛門以外の星作右衛門・恩田新左衛門・高塩清左衛門・高橋善左衛門の
子孫は残っています。 これはつまり、直訴に向かった万姫のお共ではなく、幕
府評定所から呼ばれ、江戸に向かう万姫のお供であったということです。
つまり、「尊信の命令書」である書付の日付が「正保四年八月十日」であること
から、直訴は慶安元年の前年となる正保四年(1647年)八月に五人の百姓に
より完成しており、万姫は直訴に係わることなく、事情聴集の目的で慶安元年
に評定所に呼ばれただけであり、彼等はそのお付の家臣でしかなかったので
、咎められる訳がなかった。 と考えるほうが本筋です。
当然、「喜連川騒動の顛末」における多々発生する矛盾は、この筋で解釈する
と、全て解決できるのです。(五人の百姓は評定所にはいなかっつた。) ゆえに
この事件から194年後においても5人の同心中星作右衛門等4人と尊信派を離
れた小関嘉之助の家系が残っている訳です。 また、断絶かリストラでもなけれ
ば、戦のない時代ですので、「喜連川騒動の顛末」の記述が正しいのならば、
当然、多くの尊信派と記録された家臣の子孫は喜連川藩士として残っていて、
しかるべきですが、『喜連川郷土史』(明治44年)と『喜連川町誌』(昭和42年19
77)で記述された喜連川騒動のヒーロー尊信派の、殆どの家臣達の凱旋帰参
の事実がない。 194年後の喜連川家家臣団の名簿に無く、領内に墓もない。
『喜連川町誌』の年表によると、慶長十九年(1614年)館殿府庫火災により古記
録多く烏有となる。とありますが、事件は慶安元年(1648年)の裁決ですから
ここで資料が焼失されることはないことは明白です。 彼等は、歴史の真実に
より帰参出来なかったのです。 『及聞秘録』を参照ください。
明治44年発刊の『喜連川郷土史』と昭和52年発刊の『喜連川町誌』は、町民の
税金を使い、町民のために作成されたもので、一般書店で販売されるものでは
ありません。 町民にとって耳障り良く作成されることは、当然のことであり仕方
ないことです。 史実に忠実である必要など毛頭無いのである。
一方、史実を曲げることに納得がゆかずに、この『喜連川町誌』の編さん協力
委員を辞職し、貴重な情報をご提供いただいた故小林正治氏に、喜連川一色
家の子孫として心からお礼申し上げると共に、ご冥福をお祈り申し上げます。