3 << 読者への報告、平成19年7月12日追加更新 >>


      本日喜連川町史編纂委員会をおとずれた所、発刊予定から三ヶ月遅れて

      「『喜連川町史』第三巻資料編3近世」が発刊されていたので、これを入手

      購入しました。私の、前述の喜連川町史編纂委員会への警告の後であり、

      しかも、これが最後の出版であるので、期待を持って、この『喜連川町史』

      の内容を確認したところ、喜連川騒動についての、過去の同町出版物の

      記述「狂える名君」「喜連川騒動の顛末」の元となった史料となる文書とは

      、なんと事件の23年後、二階堂政権下となる寛文11年11月(1671年)に以降

      に書かれたとしか判断しえない、『喜連川家由緒書』(原文)が載せられてい

      ました。


      この『喜連川家由緒書』(原文の表題は喜連川御家書)は、事件で活躍した

      五人の百姓の一人、飯島平左衛門(佐野越後)が子孫に書き残した家伝書

      であると思われ、旧葛城村佐野家の所蔵文書だからです。 いわば百姓家

      の先祖の功績を誇る武勇伝でした。 1671年と言えば、一色刑部等三家老

      (一色、伊賀、柴田)が幕府から許された徳川家光の十三回忌となる1662年

      の9年後に書かれたもので、内容は旧喜連川町発刊の2誌の記述の内容が

      一部ですが確かに原文で書かれておりました。  しかも、この原文を読むと

      五人の百姓は、この時、喜連川家の一代家臣として取立てられてたと記述さ

      れているのです。


      しかも、この五人の百姓は事件の数年後にその功績により松平伊豆守より

      江戸に呼ばれ、いつでも望むならば、それぞれに100石あたえ松平家にて

      召抱えると云う、ありがたい書簡をもらったが、帰りの栗橋のあたりで5人で

      合議し、船から利根川にこの書簡を捨て帰り、喜連川家に忠義を示し、仕官

      したことも記録されており、しかも、彼等が「二階堂又市の白河藩主本多能登

      守預りからの帰参願い」を鷹狩り中であった4代喜連川昭氏に願い出、これを

      受け入れた4代昭氏が「二階堂の帰参願い」を江戸に提出し、二階堂の帰参

      が許されたとも記録されているのである。


      一方、喜連川家は、この時期は江戸時代初期であり、新田開発も充分でなく

      実質4600石程度の小藩ですので御所号を許された喜連川家の家政の維持

      もあり、筆頭家老の家禄でさえ200石あったかどうかです。 当然にして、この

      仕官の記述は怪しいものです。 一般の家臣は8〜12石程度です。 そして、


         (1)事件の当事者で、幕府評定に参加したとする執筆者本人が、二階堂

           又市のお預け先は奥州白川城主榊原式部大輔忠次であったものを、

           当時まだ西国の姫路城主であった本多能登守を、東北の「白川城主

           本多能登守」などと相違して記述したり、

        (2)事件評定の担当老中に、すでに4年前(1644年、寛永二十一年七月)に

          死亡していた徳川家康の隠し子と言われ、右腕とも言われていた古河

          藩主の大老土井大炊頭(利勝)の名を評定役の中に連ね、しかも彼の

          名を、無礼にも格下となる老中酒井雅楽頭(忠清)、松平伊豆守の後に、

          阿部豊後守(忠秋)と同列で記述しています。 しかしながら、この頃に

          酒井雅楽頭はまだ存在しません。若年寄の酒井河内守忠清ならいたが

          彼が雅楽頭となるのは、この時の将軍三代徳川家光期ではなく四代の

          徳川家綱期の老中に就任した時です。 叔父の大老酒井讃岐守忠勝が

          後見人である。


       (3)幕府の目付衆2名にかんしても「御上使3名」として改ざんし、御上使の一

         人に、当時長崎奉行であり、長崎在任中の甲斐庄公(楠木正成の子孫)の

         名を連ねるなど。滅茶苦茶すぎです。


      当時の幕府体制と矛盾する記述は他にも、多々あります。



      つまり、この『喜連川家由緒書』は、喜連川騒動事件にて直訴を手伝ったと自ら

      で主張し、現在の喜連川町内で事件の英雄とされる「五人の百姓」の子孫であり

      、江戸時代に名主であった佐野家に残された、歴史の専門家の史料検証にも値

      しない、明らかに怪しい家伝書で、おそらく佐野家の先祖が江戸時代中期にでも

      誇張し作成した、「自己満足的な家伝書」といえ、地方自治体で、公平であるべき

      市町村が公表すべきしろものとは思えません。


      また、『喜連川判鑑』(4代昭氏までの足利家系図)には、4代昭氏の生誕年は

      寛永19年10月24日(1642年)で、生母は欣浄院殿。相続は事件のあった慶安

      元年で後見人は榊原式部大輔忠次とハッキリ記録されております。  しかも、

      最後の記録は、喜連川昭氏ですので、昭氏本人が自分の記録を間違えるとは

      思えません。


      そして、江戸の文献『及聞秘録』によると、二階堂主殿の嫡子は、事件の14年後

     、徳川家光の十三回忌法要の時、一色刑部、柴田某の男子等と共に赦免され、

      それぞれ主取としたと記録されております。  よって、この『喜連川家由緒書』にて

      記録された五人の元百姓の活躍の場は、実際の所は無かったようです。であれば、

      この『喜連川家由来書』が史実を語る多くの「江戸の文献」や『喜連川判鑑』の記録

      と異なる記述となることは当然といえます。


      さらに、自分達が「高野修理と梶原平右衛門等に騙されて、喜連川家断絶の危機を

      もたらした、幕府への直訴に加担した。」とは書けない訳である。


      しかし、この家伝書の筆者である、「五人の百姓」の一人、飯島平左衛門(佐野越後)

      の仕官の記述を信じるならば、彼等にとって不幸中の幸いとなったのが、この事件の

      二年後(1650年)に本来の世継ぎとなるはずであった4代喜連川昭氏の弟であり、

      幕命により隠居し「押籠中」であった3代尊信と正室の子であろう次男、喜連川右衛

      門督氏信が誕生したことではなかったか?


      実際の所、4代昭氏の生母「欣浄院殿」は事件の約5年前(1642年)に死去している

     こと、隠居して「発狂中の尊信」が新しい側室を娶ることは考え難いので、狂乱中の

     尊信が作った実子となれば、この氏信(右衛門督)は正室の子であると考えるのが

     普通です。


      すなわち、正室の子である氏信生誕の二年前、「五人の百姓」の幕府への直訴事件

      により、3代尊信(28歳)の「発狂の事実」が幕府に発覚し、強制隠居させられたので

      、この時、結果として3代尊信の男子は側室(一色刑部の娘で一色左京の姉)の子で

      あった昭氏(7歳)だけゆえに、正室の子でない昭氏が4代藩主となれたことは、ある

      意味、彼等の手柄ともいえ、これが後々、彼等の喜連川家への仕官理由となったと

      もいえなくもない。



      また、事件の二十数年後(1671年)に4代昭氏にとって親族であり忠臣であった、

      祖父一色刑部と叔父一色左京等に流刑をもたらした彼等を、憎き高四郎左衛門

      (高野修理)と梶原孫次郎(平右衛門)等に騙されたのであり、亡き父3代尊信の

      為に、彼等(五人の百姓)が命を賭けたことの忠義の事実を認め、彼等の仕官を

      許した4代昭氏は、やはり「名君」であったといえる。 しかし、この元百姓であった

      家臣の家の「喜連川家へ仕官できた由縁書」が「喜連川家由縁書」であり『喜連

      川町誌』の「喜連川騒動の顛末」『喜連川郷土史』の「狂える名君」の基となり、

      改竄まで明確になった訳で、あまりの馬鹿馬鹿しさに、 ガッカリさせられた次第

      です。   しかも、他の「古文書」は、現物写真で掲載されているの中で、この

      『喜連川家由緒書』(表題は喜連川御家)という題目の「古文書」の現物写真は

     、掲載されていないのである。 つまり、この古文書の存在を仮に認めるとしても、

      『喜連川家由緒書』という題目の存在が疑われるものである。


      新市「さくら市」の事件記述に対する意向は、この五人の百姓の子孫が、旧喜連

      川町史編さん委員会に提出した、古文書『喜連川家由緒書』に基いているという

      主張であり、旧喜連川町は過去の出版物(「喜連川郷土史」、「喜連川町誌」の

      記述内容に矛盾が多々存在していても、未来永劫、現「さくら市」には責任はない

      という意向なのであろうか。



      しかし、実際の所、現さくら市の喜連川町史編さん委員会は、この家臣の子孫

      から旧喜連川町に提出された『喜連川家由緒書』の作成年代の鑑定は行った

      のでしょうか?書かれている和紙の質から、現在ならある程度の年代鑑定は

      できたはずです。? しかも、事件の真実にせまる文献「喜連川文書(原本、

      さくら市教育委員会所蔵)」や「『及聞秘録』(原本、筑波大学中央図書館所蔵)

      」・「東京大学史科編纂所の綱文」・「徳川実紀」・「寛政重修諸家譜」の記述を

      知り、かつ喜連川町史編さん室で所持しながら、これらの信憑性の高い文献

      の記述は、『喜連川郷土史』と『喜連川町誌』を否定する歴史文献資料と判断

      したのか、掲載されておりません。


      そしてなんと、この過去の2誌の執筆者(旧町長家、旧町議家、旧県議家の

      子孫)の名誉を守るべく事件の23年後に、五人の元百姓により書かれた明

      らかに歪曲にあたいする家伝書『喜連川家由緒書』(261ぺージに掲載)を

      掲示し、これが喜連川家の「尊信公の一件」として題して掲載公示している

      ようです。


      実際に、1648年の事件評定の責任者である幕府老中が尊信の嫡子4代

      喜連川昭氏の後見人となった白河藩主松平(榊原)忠次に宛てた手紙

      『喜連川文書』や第三者として事件後に、江戸在住の執筆者により書かれた

      『『及聞秘録』』と事件の20数年後に、元百姓の下級家臣が子孫に書き残した

      矛盾だらけの家伝書『喜連川家由緒書』のどちらが正しいかは明白です。


      しかも、喜連川尊信を「狂乱」として表記された文書は『及聞秘録』だけですので

      、過去の2誌の執筆者はいずれも、この文書の内容を知りながら、これを改竄し

      て、都合よく執筆していた見られることは、執筆者の責任として覚悟すべきです。


      また、この『喜連川家由緒書』の出所が「喜連川郷土史」明治44年発刊時に、

      旧喜連川町議、旧町長、旧県議の家であり、旧町における権力者の家であった

      ことが、この歪曲の主要因で、これが、現在の新「さくら市」の責任ある仕事かと

      、正直落胆を隠せませんでした。

      このような歪曲を貫くことも、現在の新「さくら市」においては正しい市政のあり方

      であるようで、地方行政権を振り回す一部の者達による歴史の歪曲の構図を、

      まざまざと見せられた次第です。



      本日は、同編さん委員会室に『及聞秘録』の写しを持参したのですが、担当者に

      「近世の編さんにあたっては、筑波大学の教授先生にまかせてあるので、当然

      知っているはずですよ。」と、かわされました。そしてすかさず、この「『喜連川町史』

      第三巻資料編3近世」を開き、五人の百姓の家に残された家伝書『喜連川家由緒書』

      を指して、「これを収録したことで旧喜連川町が明治44年に発刊した『喜連川郷土史』

      の「狂える名君」および昭和52年に発刊した『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」

      における私からの疑問点に全て、答える形で編纂できました。」という、堂々としたお

      答えでした。


      しかし、直接調査編纂に当たった『及聞秘録』を所蔵している筑波大の教授先生の

      立場はどうであったのか? ただただ、行政の闇を感じるしかありません。



      「『喜連川町史』第三巻資料編3近世」の最後には、この町史編さんにおいて責任者で

      はあるが直接執筆編纂に係わることのない旧役場職員の実名が、恥じることなく掲載

      されています。



      「『喜連川町史』第三巻資料編3近世」の最初に記述された「発刊のことば」には、

      新さくら市市長、秋山喜平氏の顔写真が掲載されており、彼の言葉として「故永原

      慶二監修者の教えにより『喜連川町史』の編さん方針は第一に徹底的な資料収集

      とその厳密な調査・分析、第二にそれをふまえた客観的で、公平な目による歴史

      叙述、第三に叙述は地域住民の生活史の展開に重点をおき、平明な叙述とする

      ことによって、住民の皆様が、歴史をふまえて現在・未来を考えることができるよう

      なものにする、とゆう点におかれています。」と書かれています。


      「発刊のことば」にある「徹底的な資料収集」・「厳密な調査・分析」・「公平な目に

      よる歴史叙述」はどこに行ってしまったのでしょうか?自信をもって本人の写真まで

      掲示されている新市長である秋山喜平氏には”正に歴史に残るいい面の皮”とな

      ってしまいました。 正直、同市編さん委員会の一部の者達により、その威信を落

      とされたといえる、市長である秋山喜平氏と他の町史編さんに係わられた方々に

      は、同情の念を隠し得ません。


      人と云うのは、裸一貫で生まれて来て、生中には、食欲、物欲、色欲、名誉欲、

      権力欲を得、また得ようとし生きております。 そして、必ず死んでゆくのですが、

      この五欲はいずれもあの世には、持って行くことはできません。皆、子孫に名誉

      か恥を残して土となるのです。 名誉と恥だけが、永遠に子孫に残せる物です。


      特に、書物は永遠に残される名誉と恥の源であり、正しいものであれば名誉とし

      て残り、間違った書物は、不名誉なものとして永遠に恥として現世に未来永劫残

      されるものです。


      一冊3000円でしたが、事件にのみ興味のある方には購入するまでもありません。

      いずれ公立図書館に配置されるので一度読んでみるのも、ある意味おもしろいで

      すよ。数年前になりますか? ネット上ですので、個人を限定することとなる場所

      は公表しませんが同地域だったかと思います。旧町議による、「飲酒運転人身事

      故での身代わり出頭事件」、「旧町長による贈収賄事件」を思い出します。 同地

      域の地方行政体質は今だ変わっていないようでもあります。そして、あの『日本

      書記』がそうであるように、その時々の公的権力が、歴史の真実を歪曲し続けて

      いる事実を体験させられた次第です。


      さらに一言いわせていただくならば、昭和52年に発刊された『喜連川町誌』に収録

      された年表に記述されている「4代昭氏の相続年齢、七歳」の件です。彼の相続

      年齢を記録した史料は、東京大学史科編纂所所蔵の『喜連川義氏家譜』以外に

      は、存在しないのです。


      すなわち、この年表を記述した人物は『喜連川義氏家譜』に記録されていた、4代

      昭氏の相続年齢を出典根拠としていることになります。     しかし、この記述は

       『及聞秘録』の喜連川騒動に関する記述とほぼ同じ内容となる、この4代昭氏の

      相続年齢七歳と実際の後見人、親族榊原式部大輔忠次を記録した喜連川家の

      騒動記述の中で記録されているのです。 彼は、『喜連川義氏家譜』の事件記述

      を同じ編纂委員の仲間にも回覧し話したと考えられます。

      このことは、当然のことだと推測されます。

      しかし、なぜ彼等は、『喜連川義氏家譜』の記録と異なる、「喜連川騒動の顛末」

      の収録をゆるしたのでしょうか? 大きな疑問です。 この件で、彼等が十分な

      討論を繰り返したならば、『喜連川家由緒書』の矛盾を、おのずと見破れたはず

      であり、このような歪曲を繰り返すことはなかったといえます。



      小学生でも知っている、一万円札の肖像である、江戸時代から明治時代を生き、

      世界の現実に目覚められた、慶應義塾大学の初代学長である福沢諭吉先生の

      『学問のすすめ』の十五編に 「信の世界に疑詐多く、疑の世界に心理多し。」と

      いう、短い言葉が残されています。 世の中で、あたりまえとされることの中には

      、実は偽りが多く、疑う心(学問)には、物事の真実が与えられるといっているの

      です。


      ここでは、物事は公共機関が編纂した書物に記されていれば、それが正しい。 

      とか百科事典に書いてあるから、絶対正しいというものではないことを、疑いの

      実践(学問)をもって申し述べたく思います。 極論でいうならば、現在の共産主義

      国家や、かつて日本がそうであった皇国主義国家が、その体制を維持するために

      偽った歴史教科書を作り、それを教える教師を養成し、国家による教育という洗脳

      にさらされた、あわれな、国民(人間)には、なるべきではないということです。


      現在の日本においても、一部の権力を持った者達により国民は、洗脳されようと

      している危険にさらされていることを、また、そうではないにしても、常に疑い学ぶ

      ことは、我々の現在の平和な社会を守るための、唯一残された武器なのです。


      しかしながら、現実としては、信じることは大切なことです。 多くの人間は、この

      「信じること」いいかえれば「素直であること」を重用し、「良い人」だったと言われ

      死んで行くのです。 矛盾した言い方ですが。

      そして、これが人間社会の難しいところなのです。 多くの人が過去の恥となる

      真実を隠し恥の真実を格好良く歪めるがゆえに、真実を子孫に伝えられず人間

      は同じ過ちを繰り返すことも事実ではないでしょうか?  また、私は福沢諭吉

      先生の信者ではないことも申し述べておきます。


      彼の言葉には、

      「人は、シナ人のように、自分の国だけが偉く、世界の中心であり、外国を四足

      の畜生のように見立て、外から何も学ぼうとしない、愚民にだけはなってはいけ

      ない。」

      正確な言葉は、忘れましたが、このようにいっております。


      これは、日本人に学んでほしいいがために、シナ(China)人をダシに使った暴言

      です。 ここに、かれの人間臭さが見とれます。 いわれることは理解できますが

      そういう諭吉氏の言葉にも、当時のナショナリズムが感じられます。


      確かに、現在の中国にもその傾向は、みられますが・・。中華料理は大好きです。