14 << 調査結果としての喜連川騒動の概要 >>
明治44年の『喜連川郷土史』と昭和54年の『喜連川町誌』の喜連川騒動
事件記述は、明治と昭和の二名の筆者により都合よく改ざんされた読み
物であり、史実の調査研究を示すものではない。
『喜連川町誌』の年表の執筆者は、「狂える名君」と「喜連川騒動の顛末」
の全容記述を正当化させるべく、4代昭氏公の真実の家督相続年数は喜
連川騒動のあった1648年であったものを3代尊信公の死去年である1652
年として歪曲することにより、この喜連川騒動事件に伴った3代尊信公の
隠居の事実を隠ぺいし、「尊信派」の正等性を誇示していたのである。
これにより、事件の存在事実は、認めるべきものではあるが、実は、同町
の2誌で記述された「尊信派」こそが真の3代尊信公にとって逆臣であり、
「尊信派」が幕府への直訴事件を起こし、3代尊信公を隠居させ、一色派
を失脚に追い込み、幼君4昭氏公(7歳)を担ぎ、藩祖足利国朝公から58
年間に及ぶ一色派政権からの「藩政乗っ取り」を謀った事件といえる。
しかも、「尊信派」は3代尊信公の隠居と一色派の失脚には成功したが、
喜連川騒動事件後、「尊信派」の中心人物達の帰参事実が確認できない。
つまり、失敗して幕府と喜連川家により処罰されていたのである。 『寛政
重修諸家譜』の記録によると、高修理亮(四郎左衛門)等は二階堂主膳
助等と互いに党派を交え争ったが、言葉屈して伊豆大嶋へ流刑となった
とある。 よって、「尊信派」の殆どの家臣達は、事件の史実にしたがい、
幕府の後ろ盾をもって一色刑部少輔崇貞の婿でもある、3代尊信公と孫
4代昭氏の命令によ処罰されたと考えるべきである。 ここでは、若家老
の二階堂又市は、若干15歳であったので、”藩政乗っ取り”を謀る高野
修理(高修理亮(四郎左衛門)と梶原平右衛門等を中心とした自称”尊信
派家臣”達に担がれただけであったので、事件の23年後に4代喜連川昭氏
と意見が合わない弟氏信(正室の子)の死去により、さらなる御家騒動の
種が亡くなったので、これを期とした4代昭氏(側室の子)の幕府への嘆願
により帰参を許されたといえる。
これには事件後、一色刑部少輔崇貞の弟であり宿商人となって4代喜連川
昭氏に仕えていた一色五郎左衛門こと根岸連談(丹右衛門)の考えも含ま
れていたと思われ、喜連川家の安泰を考え、一色家に代わる、喜連川藩内
の主流である古河系家臣を束ねるべき古河系でも上総系でもある椎津家
(二階堂家)の家格が必要であったからであろう。
一色刑部少輔崇貞・左京親子と他の家老達家族は、幕府の秘策に従い主君
3代尊信と一色刑部少輔崇貞の孫でもある4代喜連川昭氏公による喜連川藩
の安泰を確認して喜連川の地を離れ新たな道へ旅立ったのではなかったか?
『及聞秘録』によると一色左京は岡崎藩主水野監物家にて二百人扶持の客分
扱いで再興されている。