2 <<喜連川騒動に関する文献の紹介>>
『喜連川町郷土史』と『喜連川町誌』の該当文章は、物語調であった為、この本文
ページでは、基本的には、私の要訳文となっておりますが、対比検証の為、一部
抜き出し文もあります。
該当文章の全文は、当ページ記述の検証の為、下記の「内部リンク」にてご紹介
させて いただいております。
『喜連川町郷土史』(明治44年編纂)「狂える名君」
『喜連川町誌』(昭和52年編纂)「喜連川騒動の顛末」&年表の一部
あくまでも、上記リンク先は参照用ですので、あえて一字一句、誤字を含め本文
は変えておりません。 本文紹介終了後に線引きを行い、私のコメントを入れて
あります。
上記文献の執筆者関係以外の方には、当説を理解する上で、下記の説明に入
る前に是非上記の二つの、文献を一読願います。内部リンクさせてあります。
原本は、栃木県さくら市喜連川支所図書館に保存されており、自由閲覧・署名
によりコピーも可能です。
また、喜連川町は現在存在しません。平成の市町村大合併により現さくら市に
なりましたので上記2誌の著作権等は、さくら市に移行されました。 そして、同
2誌の内容を当ページ内で参照している件は、平成18年11月に現喜連川町史
編纂委員会室をたずねて私が口頭にて直接、同町職員である編纂担当者にお
伝えさせていただきましたことを、改めて先にお断りさせていただきます。
なを、本説の実証となる史料を先に公開します。
東京大学史料編纂所の大日本史総合DB
を「喜連川」に「綱文」の項目をクリックして検索してください。
慶安1年12月22日2条
「 是より先、喜連川藩主喜連川尊信の家臣二階堂主膳助等、高四郎左
衛門等と事を相訴ふ、是日、幕府、其罪を断し、尊信に致仕を命し、四郎
左衛門等を大嶋に流す。」
この綱文の出典資料として、「人見私記」「万年記」「慶安日記増補」「慶延略記」
「寛明日記」『寛政重修諸家譜』「足利家譜(喜連川)(按)(又按)」
「{参考}『及聞秘録』」などがあげられている。
この綱文では、幕府は、事件の原告である「高四郎左衛門」(旧喜連川町発刊の
2誌では事件のヒーロー老臣高野修理)等を大嶋に流し3代喜連川尊信を、隠居
させていることが記録されております。
また、幕府の公式文書『徳川実紀』の「徳川家光の日記」には、
慶安元年7月3日条
「喜連川右兵衛督尊信病に伏しければ。老臣の沙汰として。
松平式部輔忠次が家医である関ト養をして治療せしむ。」
と記録されており、旧喜連川町の発刊した『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」
に記述された、幕府の御上使が事件調査のため喜連川に出発した7月11日の、
なんと8日前に、幕府はすでに、喜連川尊信の病状を確認できていたことは明白
であり、高野修理(高四郎左衛門)らの直訴内容の虚偽を確認できていたことが
わかります。 また、この記録中の「老臣の沙汰」とは、当然「幕府老中の沙汰」
です。 当時、徳川家親族でもある白河藩主松平(榊原)忠次に沙汰を出せる
人物は、将軍か幕府老中以外、存在しません。
そして、この喜連川尊信の病状を「発狂」と記録している史料は、以下の三点で
ある。
@ 喜連川文書の騒動関係書面(幕府老中から榊原忠次への手紙
A 『及聞秘録』
B 『喜連川義氏家譜』
また、幕府の公式文書『寛政重修諸家譜』の喜連川家の「尊信」の項には、以下
の記録がある。
「元和五年下総国鴻巣に生る。 寛永七年台徳院殿(秀忠)の命により、祖父
が遺領を継。 時に十二歳。 慶安元年尊信が家臣二階堂主膳助某、高四郎
左衛門某と争論し、互にその党を結ぶ。 三月十八日二人を評定所にめし問
る。 事決するうち四郎
左衛門は上田主殿助重秀に、其党一色刑部某、伊賀金右衛門某をば、山名
主殿矩豊、青木二郎左衛門直澄にめし預けらる。 のち四郎左衛門言葉屈し
雌伏せるにより、十二月二十二日其党二人とともに大嶋に配流せらる。尊信
も厳命によりて致仕す。承應二年三月十七日卒す。 年三十五。
昌山桂公端芳院と号す。室は那須左京大夫資景が女。」
< 要 約 >
元和五年下総国の鴻巣に生まれる。寛永七年徳川秀忠の命により、祖父の
遺領を継ぐ。十二歳の時である。 慶安元年喜連川尊信の家臣である二階堂
主膳助某と高四郎左衛門某が争論して互いに党を結んだ。 三月十八日に、
被告となる二人を評定所に呼んで審議した。評定が決するまでのあいだ四郎
左衛門は上田主殿助重秀に、一色刑部某を山名主殿矩豊に、伊賀金右衛門
は青木二郎左衛門直澄に預けられる。その後、原告となる四郎左衛門は訴え
が偽りであったことを認めたので、十二月二十二日に、被告となる一色刑部某
と伊賀金右衛門某とともに、高四郎左衛門等(其党二人とは梶原平右衛門(孫
次郎)と草履取り十三郎)は大嶋に流された。 喜連川尊信も幕府の厳命により
隠居した。 承應二年三月十七日死去 。 年三十五歳。 戒名は昌山桂公端
芳院である。正室は、那須左京大夫資景の娘である。
注1)二階堂主膳助の党と高四郎左兵衛門の党が論争したと受け取れる記述
であるが、二階堂主膳助についての幕府の沙汰が記述されていない。
これは「寛政重修諸家譜」が喜連川騒動の約150年後の1799年に、全国の
諸大名家から提出された資料をもとに作成されたためで、当時は二階堂が
筆頭家老を務めていたと考えると、その理由は理解しやすい。
約150年前の1648年に二階堂主膳助の嫡子は、喜連川騒動事件の沙汰
として若干15歳であったため罪を軽減され白河藩にお預けとなるが、22年後
の帰参時は、本来上席となる一色家・高家が1648年の騒動事件により、いな
くなったので以後、喜連川家国老の席は二階堂家の定席となり、事件におい
て自家にとって都合の悪い部分は記述しなかったためと考察できる。 また、
この件は『及聞秘録』においても理解できる。
また、高四郎左衛門の党に一色刑部某と伊賀金右衛門某が存在するような
表現になっている。 これも明らかな二階堂家の歪曲または誤解を招きや
すい記述と考えるべきである。 一色刑部は足利家御門葉であり、二階堂家
より明らかに格上の筆頭家老であり、4代昭氏の外祖父である。
しかも、『喜連川義氏家譜』と『及聞秘録』の記録では高四郎左衛門と梶原平
右衛門は、一色刑部、二階堂主殿、伊賀金右衛門、柴田久右衛門ら家老達
の合議により、追放された者達で、これを不服として幕府に上訴したことが伺
えるので断じて、この記述にある「其党二人」に、一色刑部等はなりえない。
ところが、「高四郎左衛門等が自分で望んで脱藩し、筆頭家老であった一色
刑部等が藩主尊信を正常であるのに狂人扱いにして城内の座敷牢に押し
込め藩政を我がものにしている。と幕府に上訴した。」と、昭和52年に喜連
川町史編纂委員会が編纂した『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」に記
述されております。 しかし、藩主の「狂乱」を幕府に届け出る家臣があの
時代に存在したか?疑問です。 「藩主の狂乱」=「取り潰し」の時代です
ので非常に難しい判断です。
参勤交代の任のない喜連川家であれば「病床中」として「当主の発狂を
幕府に隠す」のが、この時代の家臣の本来の勤めかと考えます。また、
白河藩主松平忠次に預けられた二階堂又市(15歳)の父二階堂主殿助
が、3代喜連川尊信の押籠に賛同していたことを示す文書が喜連川文書
に残されている。1644年に死去した幕府大老であった土井利勝から筆頭
家老一色刑部に宛てられた文書です。 年頭の挨拶に際して、病気寮養
中の尊信の御名代として、二階堂主殿助の江戸出仕を認める知らせが、
幕府老中から届くことを示す文書です。 (一色刑部に宛てられた文書を
参照ください。)
「土井利勝からの書状」(喜連川町史 第五巻 資料編 5 喜連川文書 上)
猶以印判御免可被成候、以上
尊書忝致拝見候、改年之御慶珍重納候、隋 年頭之御礼ニ御参向可被成候
処ニ、旧冬ヨリ御煩敷御座候故、為御名代二階堂主殿助方を以被仰候、奉得
其意候、委細之段老中より可被申達候、然者、為御祝儀 子十被下置候、
是被為入御念候段、過分忝奉存候、此等之通、宜預御心得候、恐々謹言、
土井大炊頭
正月六日 利勝
一色刑部殿
訳「尊書かたじけなく拝見いたし候、改年の御慶び珍重申し納め候、ついで、
年頭の御礼に御参向なさるべく候ところに、旧冬より御わずらわしく御座候
ゆえ、御名代として二階堂主殿助方をもって仰せられ候、その意を得奉り候
委細の段.、老中より申し達せらるべく候、さらに、御祝儀として雉子十下し
置かれ候、まことに御念入らせられ候段、過分かたじけなく存じ奉り候、
これらの通り、よろしく御心得に預かるべく候、恐々謹言
猶以て、印判御免成らるべく候、以上」
**注)尊信が病気であるので、御名代として二階堂主殿助を参向させることを
喜連川家筆頭家老の一色刑部少輔が大老土井大炊頭利勝に知らせたこと
に対する返書です。
そして、事件評定時の3家老の一人、柴田久右衛門とは評定前に死去
したと思われる二階堂主殿助の代わりの家老となったばかりの人物で
あることが十分に推定され、この喜連川騒動事件とは「3代尊信の押籠
事件」ではなく、幕府から見れば「3代尊信の狂乱を幕府に隠し、偽りの
直訴を起こした事件」であり、喜連川家から見れば「尊信の狂乱を暴露
され忠臣であった3家老を失った事件」であり、徳川将軍家から見れば
「徳川家光の日記」から3代喜連川尊信の治療に榊原(松平)忠次の
家医を充てていることがわかり、「狂乱」の文字が残されてないことから
同情的な立場であったことも伺われます。
時代は、関が原の戦いに徳川家(東軍)が勝利するために、幕府体制の
安定など二の次とした、有力大名を見方とすべく軍略の後始末を初代家康
から三代家光の代にわたり、執行した土井利勝(古河藩主)の時代であり
、3代家光の実弟であった徳川御三家の駿河大納言徳川忠長でさえ「発狂」
を理由に領地没収(改易)とした時代です。 社会一般に藩主の発狂=取り
潰しの時代です。
喜連川文書の「幕府老中から松平(榊原)忠次に宛てた文書」にて、一色
刑部等の罪の内容を確認いただき、「その他の文書」にて記録されている
宛名の序列を確認し高(こうの)家と一色家の家格を参照下さい。
しかも、元来、喜連川一色家は足利家の同族であり、3代室町将軍足利
義満の次男足利義嗣の嫡子である足利直明(一色直明)の流れです。
さらに、4代鎌倉公方足利持氏の生母と4代喜連川昭氏の生母はこの一色
家の娘であるので、当然喜連川家にあっても親族であり、高、梶原の一味
である理由などないのである。
注2)一色刑部某と伊賀金右衛門某等(二階堂主殿、柴田久右衛門某)の罪は
喜連川藩(足利家)を守る為に「藩主尊信の狂乱」を幕府に隠した罪です。
幕府の体制を維持する為の武家諸法度に照らせば、確かに曲事ではある
が多くの武士によって構成される武家社会では、武士のあるべき姿として
本来「さもあらん」と奨励されるべき行為で、「狂乱中」の君主尊信を座敷牢
に押篭にする行為は、同時代の家老の職権として認められていた、いわい
る正当な主君「押込」であったのです。
かたや、高四郎左衛門(高野修理)等の罪は幕府にとって、「偽りの上訴」
を起こし幕府を騒がせた罪で、武士としてあるまじき姿であり、喜連川家に
とっては「藩主尊信を隠居に追い込み、藩政を正しく預かる家老達を失脚さ
せ藩政を我が物とする為に、しかも喜連川家に改易の危機さえもたらした
大罪」であった。
また、藩主尊信の「狂乱中の一時的な正常であるかの言動」につられて
誤解を起こし、上訴とゆう行動にでた可能性もあるので、幸いにして死罪は
免れたと考えるべきである。
そして、江戸で裁かれた者達以外の喜連川にいた同士達は、喜連川藩内
において、4代昭氏の後見人である白河藩主松平(榊原)忠次等によって
個々に裁かれたことも推定しえる。
注3)また、記述の登場人物名に「某」が使われていることも注意したい。本来、
当時の人物名には、この部分に本名が入るのですが、この記述には入っ
ていません。
この様な、大事件の被告の本人を特定する本名が入っていないことに、
事件評定の真実、すなわち「幕府の体制を守るための表の評定」と、
『及聞秘録』から伺える「徳川家にとって親族といえる足利家の親族に
対する本意の裏の処置」の存在を留意したい。
当時の武士の名前は「姓(一色)+名のり(右衛門佐)+本名(氏久)」で構成
されているのです。 実際、喜連川家の墓の正面に在する「一色家の墓」に
ある一色刑部と一色左京の石碑には、生前の俗名が刻まれているが、本名
は刻まれていない。 本人を確定させないところに、「幕府体制維持の表の
評定結果」とは別に「真実の幕府の裏の処置」の存在事実が見えるようで
もある。
尚、事件評定中に一色刑部が預けられた山名主殿(とのも)(1620〜1689年)
は新田支族ではあるが、新田義貞を見切り、足利尊氏に見方し、京極(佐々
木)家や細川家、一色家と共に室町幕府の中枢となる三官四職を務めた山名
家の、喜連川騒動当時の当主で、足利一族であり一色家の親族です。
幕府の御目付の報告により、事件の背景と真実を知った上での、一色刑部へ
の配慮がうかがえます。(新田氏の祖は足利義国の長男新田義重である。)
また、栃木県立博物館にて、明治三十二年の足利家(旧喜連川家)所蔵史料の調査
に基ずく東京大学史料編纂所の影写本から収録されている、「『喜連川文書』研究調
査報告書」(平成五年発刊)に掲載されている、「江戸幕府老中連署奉書」3通があり
この手紙は、三人の老中阿部豊後守忠秋と松平伊豆守信綱等から、喜連川昭氏(七
歳)の後見人、松平式部大輔忠次(榊原忠次)にあてたものがある。 リンク先を参照
ください。この、書簡(手紙)は、なんと、「喜連川町(さくら市)教育委員会所蔵」なので
ある。
旧喜連川町誌編さん委員会のメンバーには、当然喜連川町教育委員会の方々や
教育長の存在も確認でき、かつこの「『喜連川文書』の研究調査報告書」は、新市「さ
くら市」の喜連川図書館の郷土史料エリアにて一般公開されており、なんと隣の館に
は、喜連川町史編さん委員会室がります。
事件の評定は、喜連川ではなく、江戸にて幕府により行なわれており、いずれにせよ
事件において「流刑の汚名」(大名御預かりも流刑の一つです)を持つ、事件の14〜
15年後に喜連川に帰参した二階堂主殿の嫡子二階堂某本人、または子孫による二
階堂家政権下に記述された、「喜連川の文献」より、、彼等の手の届かない『及聞秘録』
を含む「江戸の文献」と「喜連川文書の幕府老中から榊原忠次への手紙」の方が、
喜連川騒動事件の史実をかたる公式記録といえます。(二階堂に関する事件記述が
曖昧であるのが、「喜連川の文献」の特徴です)
また、栃木県立博物館の歴史研究員により発刊された「『喜連川文書』の研究調査
報告書」の「文書」の訳は、概訳であり、原文「文書」の内容に誠実に訳されたもので
はなく旧喜連川町の意向がふくまれる訳でなないか?と余計な疑問をいだかせられ
る内容でしたので、原文「喜連川文書」を内部リンクさせ、私訳ですが
解析しておきました。
また、旧喜連川町発行の2誌の「狂える名君」・「喜連川騒動の顛末」の事件記述で
は喜連川尊信は、「発狂の病」として、城代(本当は筆頭)家老一色刑部等により、
城内の(本当は屋形内)座敷牢に幽閉されていたが、「二階堂又市等」と「高野修理」
・「梶原平右衛門」等の活躍により、「正常であった」として、3代喜連川尊信は開放さ
れ、晴れて藩の主権を取り戻すことが出来たと記述されている。
しかし、この記述は幕府の公式文書や同町所蔵の『喜連川文書』に含まれる「事件
評定にかかわった三人の老中から喜連川昭氏の後見人、榊原忠次(松平忠次)に
宛てられた手紙の内容と照らし合わせても歪曲であることは前に述べたとおりです。
史実は、旧喜連川町が発刊した2誌で、忠臣「尊信派」と記述される「高四郎左衛門
(高野修理)、梶原平右衛門(孫次郎)等」が、あろうことか藩主喜連川尊信と足利家
親族一色刑部を筆頭とする三家老を「偽装した幕府への直訴」により失脚させ藩政
乗っ取りを謀った事件であったのである。
この歪曲の原因として喜連川足利家臣団の家禄&役責取り決めのスライドショー3
枚目を確認すると理解できる。「喜連川町誌」昭和52年編の町誌編纂委員会および
協力委員の中に、一人ずつ計2名の事件の忠臣とされる尊信派家臣、「高野修理」
と「高塩清左衛門」の子孫の名が確認できる。(高塩清左衛門とは万姫に付けられ
た五人の同心の一人である。)
実際の所、現喜連川町史編纂委員会に確認したところ、「喜連川町誌」の「喜連川
騒動の顛末」は、「町内の高塩家に保管されていた古文書(高塩家文書)に基ずき
記述されたものであり、旧喜連川町誌編さん委員会の文献記述に間違いはない」
との見解でした。
しかし、同編纂室には、史実を語る国史大系『徳川実紀』・『寛政重修諸家譜』・
『足利家譜(喜連川)』の存在を私は確認しており、当然、彼等は史実を調査済み
であるはずであり、隣の喜連川図書館には「調査研究報告書『喜連川文書』」栃
木県立博物館発刊が閲覧、貸出可の状態であるのにです。
『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」以外にも同誌の「付属年表」においても、
「足利家譜(喜連川)」、「寛政重修諸家譜」などを参照すれば明らかであるはず
の、4代喜連川昭氏の誕生年が抜けており、彼の相続年が喜連川騒動のあった
「1648年である」ものを、3代喜連川尊信の死去年に合わして「1652年」と記録し
さらに後見人として「榊原忠次」として記録すべきものを、なんと「1607年」に死去
している「榊原忠次」の実父「榊原忠政」と記述するなど、無謀なつじつま合わせ
がみられる。(3代喜連川尊信の誕生年に関しては「1619年}と正しく記録されて
いる。)
そして、彼等が事件の真実を「改ざんした」とまではいわないが、先祖の記録を
子孫として信じるあまり、町内の資料で簡単に出来る史実の検証を怠り、公的
文献となる昭和52年発刊の「喜連川町誌」に発表し、結果として喜連川騒動事
件の「歪曲」に至ったこと、執筆者の家は、旧町議、旧町長、旧県議などを出し
ており、旧町としては、これを正式に認められないことも理解できる。
しかし、この「歪曲」は、事件により断絶となった尊信派家臣の子孫達のルーツ
をも喜連川騒動事件において遮断することとなります。(忠臣でありヒーローで
あったのに、なぜか一族の墓は、みな喜連川以外の他所に存在する。)
本ページは、彼等のルーツをつなぐためにも、旧喜連川町発刊の公的文献2誌
の歪曲を明確にすべく、現在編纂中の「『喜連川町史』第三巻資料編3近世」で
の修正を望むべく作成した。 喜連川町は今はなく、新市「さくら市」となりました
ので、同誌の編纂が最後となります。 ここで、過去の歪曲をゆるすことは、同町
の汚点を長く歴史にのこすことにもなりかねないと考えております。
また、本ページは現在作成中であり、さらなる事件史料の調査中です、新たな、
史実の発見等により追加修正されることもあります。