『寛政重修諸家譜』喜連川尊信の項
尊信
龍千代丸 右兵衛督 母は(榊原)康政が養女
元和五年下総国鴻巣に生る。寛永七年台徳院殿(徳川秀忠)の命により
祖父が遺領を継。時に十二歳
慶安元年尊信が家臣二階堂主膳助某、高四郎左衛門某と争論し、互に
その党を結ぶ。三月十八日二人を評定所にめし問る。事決するのうち、
四郎左衛門は上田主殿助重秀に、其党一色刑部某、伊賀金右衛門某をば
山名主殿矩豊、青木二郎左衛門直澄にめし預らる。
のち四郎左衛門言葉屈し雌伏せるにより、十二月二十二日其の党二人と
ともに大嶋に配流せらる。
尊信も厳命によりて致仕す。承應二年三月十七日卒す。
室は那須左京大夫資景が女
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以上が慶安元年の喜連川騒動事件(1648)の150年後、1799年の二階堂
体制下の喜連川家から幕府に提出された資料により編纂された、喜連川尊信
の項の内容です。
当然、喜連川家と二階堂家にとって汚名となる記述はされていないことは、
『喜連川文書』・『及聞秘録』・『喜連川義氏家譜』・『喜連川家由縁書』と比較
することで理解できます。
なんと、驚かされることは浪人中の高四郎左衛門の党に筆頭家老である一色
刑部某と家老伊賀金右衛門某が存在し、しかも其の配下であるかのような記述
となっています。
さらに、二階堂主膳助某が争論に勝ったような記述です。
事件の150年後の権力者(二階堂)が、自己の都合で過去の史実を歪曲した
典型的な事例と判断できます。
しかも、この『寛政重修諸家譜』が編纂された時の喜連川藩主は、加藤家か
らの養子で喜連川恵氏の時代で、明らかに足利家の血筋ではなく、国老で
である二階堂のいうがままであったことは、十分察し得ることです。
とはいえ、高四郎左衛門が言葉屈して、大嶋に配流になったことは、事件内容
を記録した喜連川文書の騒動関係書面(幕府老中から榊原忠次への手紙や
『及聞秘録』・『喜連川義氏家譜』などの事件当時の文献からも十分に察し得
ることです。