「上杉禅秀の乱から享徳の乱までの関東一色家と足利義嗣の動向」


                                       321-2522  
                                       日光市鬼怒川温泉大原 270番地

                                       喜連川一色家末孫  根岸剛弥



  応永二十三年(1416)

    十月二日夜 << 上杉禅秀の乱勃発 >>

            【 上杉禅秀方の武将 】(前の関東管領)(「鎌倉大草紙」)

            足利義嗣(将軍足利義持弟)、足利満隆(持氏叔父)・足利持仲(持氏異母

            兄弟・満隆の猶子) 、足利満直(持氏叔父・陸奥国篠川御所)下総国千葉

            兼胤・上野国岩松満純・下野国那須資之 ・甲斐国武田信満、常陸国佐竹

            与義・小田治朝・大塚満幹・下野国宇都宮持綱・相模国曽我・中村・土肥・

            土屋氏・伊豆国狩野介一類、結城白河満朝、その他在鎌倉衆の中に百余

            人の同心者


            【 鎌倉公方足利持氏方の武将 】(「鎌倉大草紙」)

            御所から関東管領上杉憲基のいる佐介に向かう持氏に従った者。

            禅秀の謀反を鎌倉御所にて酒宴中の持氏に伝えた木戸満範と持氏の従者

            、 一色兵部大輔子息左馬之助 ・同左京亮・讃州兄弟 ・掃部助 ・同左馬助

            ・竜崎・品川・梶原・印東・那波・海上・江戸・三浦・今川・畠山・二階堂・宍戸

            氏ら総勢五百余騎、上杉憲基(時の関東管領)・長尾・大石・寺尾等の被官

            を含め七百余騎。



   翌十月五日、合戦の最中、足利持氏は下野国長沼義秀に「下野国長沼庄の右衛門佐入道

            (上杉禅秀の所領)跡」を没収して与え、見方としている。 (「皆川文書」)



     十月六日、禅秀方の岩松軍が扇谷を固める持氏方の上杉氏定軍を破り、化粧坂に押し

            寄せ、佐介の国清寺に火を放つ。 この火が上杉憲基邸に移り、 防ぎきれ

            ないと悟った憲基は持氏を奉じて極楽寺口から片瀬腰越を抜黄昏には小田

            原に到着。禅秀方の土肥・土屋氏が小田原宿に火をかけ。  小田原を追わ

            れた持氏 ・憲基は、夜陰に箱根山に入り、ここで持氏と憲基ははぐれてしま

            う。



     十月七日、持氏は箱根山別当の証実の案内で幕府領駿河国の大森館に入り、 後に同

            国瀬名へ移り、今川氏の庇護下に入った。  駿河国の今川範政は持氏方の

            上杉氏定の女婿。  また、上杉憲基は伊豆国の国清寺にたどり着き、ここで

            敗戦後に越後国へ落ちた。 持氏を鎌倉から追い出した満隆・禅秀は鎌倉を

            掌握。満隆は公方と称し、武蔵国辺では禅秀方と持氏方は戦を繰り返した。



   十月廿九日、持氏は将軍足利義持の烏帽子子であるので、 幕府は駿河守今川氏と越後

            守の上杉氏(上杉憲基の生家)に持氏の扶持を命じる。

           ( 『看聞御記』伏見宮貞成親王の日記 国書出版株式会社 )



  十二月廿三日 今川軍に守らた持氏は、鎌倉奪還のため駿河国瀬名を発つ。 

           (「皆川文書」)


  十二月廿五日、今川範政は、関東の武士(禅秀方に同心した、関東にあって幕府の扶持を

            受ける武家)に持氏に同心するよう幕命の書簡を発す。(「結城文書写」)



  十二月三十日、足利義嗣が突然逐電する。高尾の神護寺で出家し捕らえられ、仁和寺から

            相国寺へと移される。 

           (『看聞御記』伏見宮貞成親王の日記 国書出版株式会社)



  応永廿四年(1417)

   正月、      今川駿河守範政と一色宮内大輔直兼を大将とする持氏軍は小田原合戦に

            打ち勝ち、 幕府の援軍が相模国に入ったとの報に、 禅秀方の大半が持氏

            方に寝返り、満隆以下は孤立。(「火へんに因田文書」)



   正月  十日、鎌倉雪ノ下御坊にて満隆・持仲・禅秀父子等は自殺して果てる。

            (「鎌倉大草紙」)



   五月廿四日、持氏が生母(一色範直の姉)に上総国内に料所を進める。

           (「上杉家文書」『新潟県史』 資料編3 所収)



   十月十七日、持氏が生母(一色範直の姉)に上総国内に料所を進める。(「上杉家文書」)


           注)「系図纂要」では、持氏の生母は「一色範直の姉」とあるが、現存す一色

             家関係の系図においても、この時代に「範直」は確認できない。 しかし、

             関東一色家の一色氏兼の長男に「満直」がいる。そして、四代鎌倉公方

             足利持氏の側近として、時の関東管領職の上杉憲実をも脅かし、所領で

             ある三浦郡葉山にて蟄居させられるほどの権勢を誇った一色宮内大輔

             直兼がいる。 彼の長兄がこの一色宮内少輔満直で「範直」とは「満直」

             のことと考察すると理解しやすい。 当初、満直は氏兼から家督を継いで

             鎌倉公方足利満兼の側近として奉公していたが、病弱を理由に弟の直兼

             に家督を譲っている。

             (『幸手一色氏』系図と系譜 新井家系譜 幸手市教育委員会)



  応永 廿五年(1418)

   正月廿四日、 足利義嗣、将軍義持と富樫が密儀して、この命令を受けた加賀国守護代の

             山川兄弟に相国寺で討たれる。諸大名は将軍義持の所へ駆 けさ参じた。

             即刻、その首は冨樫の宿所へ、体は等持寺に運ばれたと報告された。  

            義嗣が自分で部屋に火をかけ逃げようとしたと報告されたが、山川兄弟が

            義嗣を殺害後に、盾つく者一人を討ち取り、相国寺に火をかけたという。



            廿五日 晴・・・・夜前丑刻輪光院炎上。

            押小路亞相入道叛逆巳後被押籠在所之間騒動。

            諸大名室町殿へ馳参。亞相令自焼被没落之間。

            奉討之由有披露。則取頭冨樫宿所へ持参。

            等持寺へ被渡伝々。密議者室町殿冨樫二被付。

            加賀守護代山川。山川舎弟奉討取頭伝々。

            世者一人同被討了。其後寺家二放火焼佛伝々。

            (「看聞御記」伏見宮貞成親王の日記 国書出版株式会社)



             この時、義嗣の屋敷にいた、母と乳母に抱かれた六歳嫡男と二歳の男子

            が捕らえられ代官の伊勢貞経の宿所に渡された。 母と乳母は嘆叫び、

            まるで平家六代の御前を召し取った時のようだと聞く。



            焼亡最中亞相 宅二六歳男子嫡子。二歳男子等。

            母儀乳母懐抱之處押寄奪取伊勢宿所へ被渡。母儀乳

            母叫喚。其有様平家六代御前召捕時も奴然興伝々。

            (「看聞御記」伏見宮貞成親王の日記 国書出版株式会社)


            義嗣の嫡子は幕府評定の結果、討たれることなく、泉涌寺の喝食となる

            ことで許され、泉涌寺長老の弟子となるという。



            廿八日 ・・・・・仰聞。押小路亞相禅定門嫡子可討興不評定。

            然申請人被免死罪被喝食伝々。泉涌寺長老為弟子伝々。

            (「看聞御記」伏見宮貞成親王の日記 国書出版株式会社)



   四月      足利義嗣の嫡男六歳(後の一色直明)が泉涌寺の喝食となっていること

            を聞いた仙洞(後小松天皇)が自ら「謀反人の子息である。」と冨樫に召し

            返させる。



            五日 晴・・仰聞。押小路大納言入道子息泉涌寺入屋

            成喝食了。爲謀反人子息之間。彼寺居住不可然之由。

            自仙洞披仰。 此間召返冨樫ニ披預云々。世以不便御沙

            汰之由申云々。

            (「看聞御記」伏見宮貞成親王の日記 国書出版株式会社)



  五月  九日、上総国狼藉張本人を退治に一色左近大夫将監が鎌倉を発行。

           (同年四月二十六日持氏御教書案写「楓軒文署参六十五諸家文書」)




  応永 廿六年(1419)


  五月 廿六日、一色宮内大輔直兼、大将として長沼氏家人の戦功を持氏に注進。
           (「長沼文書」)



  応永 廿九年(1420)


  十月 十三日、佐竹与義に不審な動きがあり、上杉憲家(一色直兼の外孫)が大将として

            、 鎌倉を発向。(「生田本鎌倉日記」)

           *上杉憲家は宅間上杉憲直の子であり、生母は一色宮内大輔直兼の娘。

             (「生田本鎌倉日記」)つまり、直兼と憲直は義兄弟であった。



  応永三十 年(1423)

   八月       小栗氏討伐の先手大将に一色左近大夫将監。(「鎌倉大草紙」)


  応永三十 年(1423)

   八月十六日、 上杉憲家(一色直兼の外孫)、大将として甲斐国の武田信長退治に発向。

            (「生田本鎌倉日記」)


  応永三十一年(1424)

  六月   二日、持氏が母(一色氏)に武蔵国内に料所を進める。(「上杉家文書」)


  六月 十七日、持氏が母(一色氏)に武蔵国内に料所を進める。 (「上杉家文書」)


  応永三十三年(1426)

            甲斐国武田氏の討伐に一色刑部大輔持家(一色直兼の甥)が大将として

            向かう。(「鎌倉大草紙」)


   八月十一日、 持氏御教書に一色刑部少輔持家が江戸氏の戦功を注進したとある。

           (江戸文書)


 十二月十九日、 一色持家書状の端書に、「関東一色殿 相州守護」とある。

            (「前田家所蔵文書実相院及東寺宝菩提院文書」)



  永享 四年(1432)

   四月廿八日、 持氏は相模国大山寺造営奉加帳の筆頭に名を記す。この時、馬一頭を

            寄進した者八名の中に、一色直兼、一色持家の名が連ねて確認できる。

            他は上杉憲実・武田信長・千葉胤直・某理兼・東満康・梶原憲景である。

            (「相州文書」所収大山寺八大坊文書)


  永享 七年(1435)

   六月十一日、 一色宮内大輔直兼、持氏方の大将として合戦に発行。

            (「石川文書」『福島県史7古代・中世資料』)




  永享 九年(1437)<< 永享の乱勃発(「続群書類從」永享記を中心に) >> 


   四月、     上杉陸奥守憲直(詫間上杉)を大将として、武州本一揆に出発するよう仰せ

           付けられた。 ところが、どのような野心の者が言い出したのか、これは信濃

           への加勢ではなく、管領を誅罰するための軍勢だという風聞が流れたため

           憲実の被官、旧功恩顧の者が諸国から馳せ集まった。天下の一大事と、肝

           を冷やさない者はいなかった。



   六月 六日、 鎌倉中が騒然となり、上下男女が逃げ惑って資財道具を持ち運んだ。 

           そこで、公方が七日の暮れ方に憲実の宿所においでになり、いろいろ仰せ

           になったため、騒ぎは少々おさまった。



     十五日、 しかし、管領父子は鎌倉にいては危ないと思い藤沢へ移た。そこでもなお

           不安があるので、七歳の嫡子をひそかに上州に落とした。



    二十七日、 憲実が、これは直兼(一色直兼)や憲直(上杉憲直)らがいろいろ讒言した

           ために故なく御勘気をこうむったもので、身に覚えのないことだということを

           何度も申し上げたので、讒言が真実か否かをただして、一色宮内大輔直兼

           らを三浦へ追い下された。(『喜連川判鑑』では一色宮内大輔直兼が三浦に

           て蟄居とある。)また、「管領家で、大石石見守憲重(武蔵目代)と長尾左衛

           門尉景仲(白井長尾。憲実の執事)がいろいろ讒説をかまえている」と公方

           が仰せになったため、景仲と憲重は山内殿(憲実)の御前に参上して、「我々

           が鎌倉にいることが御屋形のために良くないのでしたら、国元に帰ります」と

           しきりに申し上げた。 しかし、たとえ両人が下国しても状況が変わるとは思

           えなかったので、両人はそのまま鎌倉にとどまった。



  八月十三日、 公方持氏が憲実の館においでになっていろいろとおなだめになり、管領職

           と政務を元のままに仰せ付けられた。憲実は再三辞退したが 、強いて仰

           せ付けられた。しかし、武州の代官職は仰せ付けられず万事苦々しいまま

           その年は暮れた。



永享 十年(1438) 

  六月、     公方(持氏)の若君吉王丸が御元服されることになり、善美を尽くして御祝

           儀の用意を行った。この時、 管領が、「代々、御元服の際は、京都に御使

           者を出して諱(いみな)の一字をいただいております。先例の通り、御字を

           お申し受けください。御元服が間近で御使者を出すのが難儀なら、幸い馬

           なども用意しておりますので、 それがしか弟の上杉三郎重方が京に上り

           ます」と、申された。 持氏は、これについては御承引されず、御祝儀のため

           に国々から指名して御勢を召し寄せ、直兼(一色)や憲直(詫間上杉)も許

           されて鎌倉に戻った。  ところが、何者が言い出したのか、御祝儀の際、

           憲実が出仕したら殿中で誅せられるという噂がたったため、憲実は病と偽

           って出仕をやめ、弟の重方が代わりに出仕された。管領はこのようなことに

           なって、いよいよ君を恨み奉ることになった。公方はこれを聞こし召し、房州

           (上杉安房守憲実)の無実を信じている、予を恨むことは短慮の至りである

           、それなら、若君の義久公を憲実の宿所に置いてもよい、このうえは遺恨を

           残してはいけない、と仰せ下されたので、管領は御礼申し上げ、諸人も喜ん

           だ。


           ところが、そうしたところに、若宮の社務の尊仲がひそかに参上して、憲実

           のことをいろいろ讒言申し上げた。公方はそれを信用され憲実の館に若君

           を移すのは取り止めになった。それによって、管領はいよいよ公方をお恨

           むようになった。まことに君臣不快の始まりで、嘆いても余りあることであっ

           た。


  八月十二日、長尾尾張入道芳伝(忠政。総社長尾)が御前近く参上し、ともかく憲実をお

           なだめくださって世上を平穏にしてくださるようお願い申し上げたが、御了

           承は無かった。



  八月十四日、戌の刻に上杉憲実は同名修理大夫持朝(扇谷上杉)、同名庁鼻性順(庁鼻

           上杉憲信)、長井三郎入道、小山小四郎、那須太郎以下、一味同心の大名

           を伴い、山の内殿を出て、鎌倉から逃れ所領である上州に向かった。


  八月十五日、一色宮内大輔直兼、甥の一色刑部大輔持家が大将として御旗を賜り上州へ

           下向した関東管領上杉憲実を打つべく鎌倉を発つ。


     十六日、 三浦介を鎌倉の留守役にして、公方持氏は武州高安寺へ御動座。


  九月 十日、 京都からの討手の大軍が足柄と箱根の二手に分かれて押し寄せる。


   二十九日、 持氏は相州海老名道場に御陣を御動座。


  十月 三日、 京公方(将軍)から三浦の元に御内書が届いていたため鎌倉警護役の三浦

           介は鎌倉を立ち退き、その知らせが早馬で持氏の元に届く。



       四日、 憲実追討のために下向した一色の人々も、従えていた軍兵がいつのまにか

           管領方(憲実方)に寝返り、手勢だけでは大敵を討つこともできず、海老名の

           陣に引き返す。



       同日、上杉憲実は数万の軍勢を従えて上州を出立。



     十七日、 三浦介が二階堂の一族と共に鎌倉に押し寄せ、大蔵、犬懸などに夜討ちを

           かけて、数千軒の在家に火をかける。



     十九日、 関東管領上杉憲実は数万の軍勢を従えて分陪に着陣。これを見た、持氏方

           の御旗本にいた人々は、御内・外様の侍、奉行頭人にいたるまで、寝返り、

           憲実方の軍勢に加わってしまい、持氏は宗徒の御一揆とわずかな譜代旧功

           の勢ばかりとなった。



  十一月一日、 三浦介を大将として、二階堂の人々、持朝(扇谷上杉)の被官らが一味同心

           して大蔵の御所に押し寄せる。守備も少ない御所方のは、若君(足利氏義)

           を扇谷に逃がした後、なりを静めて寄せ手を待ち受けた。 しかし、防ぎ矢を

           射た簗田河内守、同出羽守、名塚左衛門尉、河津三郎を初めとして一人も

           残らず討たれてしまう。



      同日、 長尾尾張入道芳伝(忠政)が鎌倉の警護のために分陪河原を発って上って

           来る途中、同二日に持氏が海老名から鎌倉に帰るため、相州葛原で、一色

           持家を御使者として持氏と芳伝(忠政)が参会した。「累祖等持院殿(尊氏)

           が天下の武将であった時からこのかた、汝らの先祖上杉民部少輔、長尾

           弾正は当家譜代の家僕として主従の礼儀を乱さなかった。 しかるに汝ら

           は重代の身に余る恩を忘れ、穏やかに子細を述べることをせずに大軍を興

           した。 これでは、たとえ持氏を滅ぼしたとしても、天罰を逃れられぬであろ

           う。憤ることがあるのなら、退いて所存を申すがよい。しかし、もしも、讒者の

           真偽にことよせて国家を傾けようとの企てなら、問答には及ばない。自害し

           て白刃の前に命を断ち、黄泉の下で汝らの運命を見守ろう」と、持氏が仰せ

           になった。芳伝(長尾忠政)は馬から下り、「これほどの仰せをうけたまわろ

           うとは思いもしませんでした。ただ讒臣の憲直(詫間上杉)、直兼(一色)の

           申すことが誤りであることを申し開き、讒者を討って後人の悪習をこらしめよ

           うと思って兵を発したのです」と言って、楯をふせて畏まった。そこで、憲実

           の申されるとおり、憲直と直兼を罪科に処すことにしたため、芳伝は喜悦の

           眉を開いて装束を改め、出仕して銀剣一振りを進上した。 公方も御剣を下

           されたため、人々はみな色を直し、安堵の思いをなした。 そして、芳伝が

           御供して鎌倉にお戻りに永安寺に入った。



      五日、 永安寺にて、持氏は剃髪して墨染めの衣の姿となり、法名を長春院殿揚山

           道継と号する。



      七日、 長尾尾張入道(芳伝、総社長尾忠政)を大将として、憲直以下の 讒臣を

           退治するために数千騎が金沢へ発向。



      同日、 芳伝らが攻め入った武蔵国金沢の称名寺で「『主が憂えば、すなわち臣辱

           めらる。主辱められれば、すなわち、臣死す』と言う。今となってはどうして

           死を惜しもうか」と、心静かに最期のいでたちをして、静まりかえっていた。

           やがて討手の大将の芳伝入道が半町ばかりのところにさしかかって、馬を

           さっと駆け寄せ、一斉 に鬨の声をあげた。  そこに、(一色)直兼の郎党の

           草壁遠江が名乗りをあげ、紺糸の鎧に同じ毛の五枚甲の緒を締め、瓦毛の

           馬に乗って先頭に進み、父子四人で少しもためらわずに大軍の中に駆け入

           った。馬けむり を立てて切り合い、切っては落とし、八方に戦って、一歩も退

           かずに討死した。これを見て、帆足、斎藤、餐場、場喜、ならびに板倉西大夫

           以下の侍も口々に名乗りをあげ、敵の真っ只中に会釈もなく駆け入って一騎

          も残らず討死した。  そのすきに一色父子三人(一色直兼・直明(26歳)及び

          直明の次男で嫡子の亀乙丸)、憲直父子二人(憲直と憲家)の他、浅羽下総

          守以下一族門葉の人々は心静かに念仏を唱え、刺し違えて果てる。

           (永享記)(『幸手一色氏』幸手一色家系譜 幸手市教育委員会)


          憲直の二男、上杉小五郎持成は山の内の徳善寺にいた。これを聞いて乳母

          の鱸御前を呼んで自害しようとしていたが、またすわり直して、硯を取り寄せ、

          筆に墨をつけて、辞世の詞を書いた。


           「合受百年煩悩業、今朝端返転身清、滅却心頭化、縁尽本来空性行」 


          これをくるくると押したたみ、西に向かって手を合わせ、念仏を百回ほど唱えて

          雪の肌を押し肌脱ぎ、九寸五分の刀を抜き、左の脇から右の乳の下まで引き

          廻したところを豊前守がうしろから首を打ち落とした。 その太刀を取り直して、

          自分の胸元に鍔元まで刺し貫いて亡くなった。そのありさま誉めない人はいな

          かった。そのほか、

          永安寺の中の平雲庵という寺で長尾出雲守が三戸治部少輔を討った。海老名

          尾張守入道は、六浦引越の道場で自害した。その弟の上野介は、上杉大夫持

          朝の家人どもが取り籠め、扇谷の会下寺海蔵寺で腹を切った。 この人は兄に

          似ず、公方に再三、 「世の中を静めることこそ大切です」と諌言申し上げていた

          ことがわかったので助命するようにと管領(憲実)が使いを送ったが、その使者

          が到着する前に自害してしまった。不運の至りであった。若宮の社務の尊仲も

          生け捕られた。 これは讒言の張本なので尋問することもあろうと、京都に送っ

          たが、結局誅せられたという。(永享記)



    十一日、 永安寺にて、持氏は自殺を図るも失敗。上杉修理大夫持朝、大石源左衛門尉

          憲儀、千葉介胤直らが交代で禁籠。(永享記)



永享十一年(1439)

   二月 十日、京都での評定の結果、持朝(扇谷上杉)と胤直(千葉)が永安寺に押し寄せ、

           稲麻竹葦のように取り囲み、持氏を自害させた。 御近習伺候の人々がこれ

           を聞き、木戸伊豆入道、冷泉民部少輔、小笠原山城守、設楽因幡守、印東

           伊勢守、武田因幡守、加島駿河守、曾我越中守、設楽遠江守、治田丹後守

           、木内伊勢守、神崎周防守、中林壱岐守が敵の中に駆け入り、蜘手十文字

           に駆け散らそうとわめきながら集まって、押しつ返しつ引っ組み引っ組み差し

           違えた。寄せ手が左右にさっと分かれて散々に射立てたので御所方は退き

           かかったが、再び取って返して討死した。満貞(稲村御所)の御馬廻り、南山

           上総入道、同左馬助、里見治部少輔、今川左近入道蔵人、二階堂伊勢入道

           、同民部少輔、下條左京亮、逸見甲斐入道、石川民部少輔、新五十郎左衛

           門尉、岩淵修理亮、泉田掃部助は横合いから討ってかかり、両方の手勢を追

           いまくり、真っ只中に会釈もなく駆け入り、引っ組んで落としては、刺し違えて

           死んでいった。その間に、公方持氏と御舎弟の満貞は御自害された。哀れな

           次第である。御馬廻り、旧功の人々も、一人残らず討死した。神妙なことであ

           った。二階堂信濃守はこの君に深く頼りにされてきたが何を思ったか公方の

           御没落の前にどこかに落ちて行って、行方知れずになってしまった。

           (永享記)



     廿八日、 若君の義久は十歳であったが、討つことが決まったため、人々が馳せ集ま

           って報国寺におわした若君に申し上げたところ、仏前に御焼香され、念仏を

           十遍お唱えになって、御守り刀を抜き、左の脇に突き立てて引き回し、うつ

           伏せにお倒れになった。 哀れというもおろかなことであった。(永享記)



永享十一年(1439)

           一色刑部少輔(時家)が鎌倉から逐電、同族であり、室町幕府の四職家で

           あり、四か国の守護職で侍所別当である一色義貫が領内である三河国の

           豊川に一色城を築く。  また、隣国は一色家親族である今川領・吉良領で

           あり、関東が静まらない中、将軍足利義教といえど、手を出せない状態であ

           ったことは理解できる。

            『姓氏家系大辞典』(時家=持家?)




永享十二年(1440年)


  正月十三日、鎌倉から逐電していた一色伊予守が相州今泉にいることがわかった。

           「あわや天下の大乱は間近い」などと言っているうちに、このたび降人となっ

           て命をつなぎ、世の聞こえを口惜しく思っていた人々が、これ幸いと伊予守

           に同調し、ひそかに集まって相談していることがわかった。「大事に至らない

           うちに退治せよ」と、長尾出雲守憲景太田備中守資光を大将として相州今泉

           の館に押し寄せた。ところが、国中みな内通しており、伊予守はどこかに落ち

           て行方知れずになってしまった。」(永享記)


           ***一色刑部少輔(時家)と一色伊予守の足利持氏の自決前の逐電は、

           足利持氏の遺児、次男安王丸・三男春王丸も逐電しているので.足利持氏の

           密命によるものであったとの見方もある。 先の相州葛原での、一色持家を

           御使者として、足利持氏と上杉家家老の長尾芳伝(忠政)が参会した時の

           足利持氏の言葉は

           「累祖等持院殿(尊氏)が天下の武将であった時からこのかた、汝らの先祖

           上杉民部少輔、長尾弾正は当家譜代の家僕として主従の礼儀を乱さなかっ

           た。 しかるに汝らは重代の身に余る恩を忘れ、穏やかに子細を述べること

           をせずに大軍を興した。 これでは、たとえ持氏を滅ぼしたとしても、天罰を

           逃れられぬであろう。憤ることがあるのなら、退いて所存を申すがよい。 

           しかし、もしも、讒者の真偽にことよせて国家を傾けようとの企てなら、問答

           には及ばない。 自害して白刃の前に命を断ち、黄泉の下で汝らの運命を

           見守ろう」であった。


           つまり、鎌倉公方足利持氏は一色宮内大輔直兼親子と宅間上杉憲直親子

           、そして自ら公方親子の自害(切腹)をもって、ひとたびこの永享の乱を収束

           させ、持氏は密命の書状を一色刑部少輔(時家)と一色伊予守に渡して、二

           人を逐電させ、関東地方の豪族達と播磨・大和と中部地方の豪族達を連携

           させ、関東管領の上杉憲実のみならず、無能な将軍、足利義教を討とうとし

           たのかもしれない。 四職とも六職家ともいわれ、幕府の侍所別当を務める

           赤松・一色・土岐・今川・京極・山名家、この時の動きはどうであったか。 

           気になるところです。



   三月   << 結城合戦 >>

           近国や他国から牢人や志を同じくする大名小名が馳せ集まり、結城の城に

           立て籠もった。もともと城は堅固であったが、急いでさらに大堀を掘り、塀を

           塗り、櫓を上げ、見せ勢を出し、御旗を打ち立てた。 白旗、赤旗、二引両、

           左巴、釘貫、穀(かじ)の葉の紋などの旗が、数知れず翻った。 また、古河

           城を修繕して、野田右馬介を大将として矢部大炊介以下が立て籠もった。 

           この知らせが早馬で京都に届いたので、急いで追討するようにと将軍足利

           義教は御教書をお下しになり、御旗を下された。 管領の上杉清方(越後

           上杉)が、武蔵国司上杉庁鼻性順(憲信)に発向して退治するようにと下知

           されたが、勢が足りなくて難しいと言うので、長尾左衛門尉景仲を加勢とす

           ることにした。(永享記)



    十五日、  両大将は二手に分かれて鎌倉を発った。 性順は苔林(一書に苦林、ある

           いは芳林)に陣を張り、景仲は入間河原に陣を取って、軍勢が馳せ加わる

           のを待った。 その頃、新田田中、佐野小太郎、高階、傍士、飯塚修理亮、

           桃井の被官の者、野田右馬介の郎党加藤伊豆守たちが、鎌倉御所方とし

           て足利荘高橋郷野田の要害に馳せ集まり、旗を揚げた。 これを討ち平ら

           げるために、上州の者たちが評定し、上州の守護代の大石石見守憲重が

           上州一揆を催促して退治のために発向させようとして触れまわったが、両

           軍のどちらが優勢かを伺ったのか、誰も軍勢催促に応じなかった。

            (永享記)



  四月 六日、 都からしきりに出陣を要請してきたので、伊豆国におわした安房入道長棟

           禅門(上杉憲実)も、伊豆国を発って山田庄に帰参し長尾郷に逗留。

           (永享記)




  四月十九日、 上杉兵庫頭清方(越後上杉)と同修理大夫持朝(扇谷上杉)が鎌倉を発ち

           、あちこちで催促して軍勢を集めた。

           東海道はもちろんのこと、武蔵、上野一揆や越後、信濃の軍勢が数万騎も

           馳せ集まった。(永享記)





  四月二十日、 鎌倉の警護のために三浦介時高が参上した。 



  五月 一日、 上杉中務少輔持房(犬懸上杉)が京都の御旗を奉じて鎌倉に下向。

           (永享記)




           このころ、将軍足利義教は、侍所別当の一色義貫と土岐持頼に大和国の

           越智氏討伐の命を下し、大和へ出陣させた( 大和永享の乱)。  一方、

           将軍足利義教は同時に、幕府に対して挙兵した鎌倉公方足利持氏の

           残党(一色時家等)を匿った件で、武田信栄に一色義貫の追討の密命を

           出した。




  五月十一日、安房入道長棟禅門(上杉憲実)は神奈川へ出陣した。(永享記)



  五月十五日、 一色義貫は足利義教の命にて大和国に越智氏討伐の陣を張るやいなや、

           その背後から足利義教の密命を受けた武田信栄から腹背を攻められ、大

           和国信貴山竜門寺で一族と共に自害して果てる。土岐持頼も越智氏討伐

           の陣を張るも、一色義貫と同様に足利義教の密命を受けた長野満藤・草生

           大和・中尾民部・雲林院等その一族などに三輪にて攻められ殺害される。


          ** 足利義教が横暴をふるうこの時代。仮に、一色義貫と土岐持頼と赤松

              親子などが、反体制側の越智氏と内通し、鎌倉公方足利持氏の密書を

              持つ一色時家と合流、一色・斯波・今川領の伊勢・尾張・三河・駿河から

              一色、斯波、吉良、今川、土岐、越智等の軍勢が、足柄を超え海路から

              鎌倉府を奪還し、一色伊予守が鎌倉から連れ出した足利持氏の遺児二

              人を神輿とする下総国結城城に結集した関東勢と、この新鎌倉勢により、

              関東管領上杉勢と幕府勢を挟み撃ちとしたならば、幕府軍敗北の可能性

              は高くなる。

              さらに、都を固める播磨の赤松親子と丹後の一色勢が足利義教を襲い

              隠居させる。 幕府の侍所別当を務める六職家が、反足利義教に傾く

              中、三管領家の畠山・細川に鎌倉公方の密書は届いたのか?

              歴史のタラレバが面白くなるところです。 ***



  七月 一日、 一色伊予守が武州北一揆を語らって利根川を越え、武州の一揆須賀土佐

           守入道の宿城に押し寄せて、これをことごとく焼き払った。須賀の郎党たち

           はしばらく城を守って討死した。 この知らせが届いたため、同三日、庁鼻

           性順(上杉憲信)と長尾景仲(白井長尾)が成田の館に発向した。しかし、

           一色は少しも騒がず、東に向けて布陣し直して、しずかに敵を待ち受けた。

            やがて両軍が馳せ合わせ、追いつ返しつ土ぼこりを巻き上げて十数度に

           わたって戦った。 一日じゅう戦い、夜になり相引きとなった。(永享記)



     四日、  両者とも戦い疲れていたが、一色方に雲霞のごとく軍勢が馳せ加わった。

           しかし、上杉方の味方に新たに加わったのは入西の毛呂三河守と豊島の

           清方の被官たちだけで、もってのほかの無勢であった。この軍勢だけでは

           勝てそうにないと退き気味になったところ、伊予守はこの様子を見て「それ

           っ、敵は退却するぞっ。どこまでも追い討ちして、討ち取れっ」と、荒川を渡

           って村岡川原に向かった。 勝ちに乗った時はありがちなことだが、軍勢の

           手分けもせず、急ぎすぎたようであった。性順と景仲が軍勢を一手にして、

           新手を先に立てて魚鱗に連なり、蜘手十文字に駆け破ったところ、伊予守

           の軍勢は破られ、一度も返し合わすこともなく、手負いを助けようともせず、

           親子の討たれるのも顧みず、物の具を捨てて小江山まで退却し、そこから

           、ほうほうのていで落ちて行った。

           (永享記)



     八日、 長棟庵主(上杉憲実)は、神奈川を発って野本唐子に逗留。(永享記)



    廿九日、 上杉持朝と管領の清方は道中で軍勢を催しながら結城に到着。(永享記)



   八月九日、長棟庵主(上杉憲実)が、小山庄の祇園の城に到着。信濃国の住人、大井

          越前守持光が御所方(鎌倉公方方)になって旗を揚げ、臼井峠まで押し寄

          せたという知らせが来たため、これを防 ぐために上杉三郎重方が国分に陣

          を取った。上杉修理大夫は、相州警護のために相州高麗寺の下、徳宣に陣

          を取る。また、箱根別当、大森伊豆守はもともと無二の御所方だったので、

          結城の後詰めのために馳せ参ずると言われていた。これを防ぐために、今川

          上総介が平塚に陣を取り、蒲原播磨守は国府津の道場に陣を取って待ち受

          けた。結城城は天然形勝の地に築かれ、守備に適した要害である。そこに

          兵糧をたくさん用意して一騎当千の兵が立て籠もったので、力攻めでは落と

          せそうになかった。


          城には結城中務大輔、同右馬頭、同駿河守、同七郎、同次郎、今川式部丞、

          木戸左近将監、宇津宮(宇都宮)伊予守、小山大膳大夫、子息九郎、桃井刑

          部大輔、同修理亮、同和泉守、同左京亮、里見修理亮、一色伊予六郎、小山

          大膳大夫の舎弟生源寺、寺岡左近将監、内田信濃守、小笠原但馬守以下の

          人々が 、屈強な軍兵を多数率いて立て籠もっていた。


          先手の総大将の清方は、諸卒を下知して陣を張った。 西は上州一揆、北西

          は持朝を大将として安房国の軍兵、北東は京の軍勢と宇津宮右馬頭、 土岐

          刑部少輔、上杉治部少輔、小田讃岐守、常陸の北條駿河守、南東は越後 ・

          信濃の軍兵、武田大膳大夫入道、南は岩松三河守、小山小四郎、武田刑部

          、武蔵一揆、千葉介、および上総下総の軍勢であった。


          敵の陣と味方との間は、わずかに三町ほどであった。その間に大堀を二重に

          掘り、逆茂木を引いた。これは城内に兵糧を運び込む通路を塞ぐためである。

          清方、持朝、千葉、土岐らの陣の前には、十丈あまりの高さの井楼を二重三

          重に組み上げた。 しかし、城内では死生を顧みない者どもがここを先途と命

          を捨てて戦い、寄せ手は、功高く、高禄の大名どもが、ただ味方の大軍を頼む

          ばかりで、これこそ我が一大事と思っている者はいなかったので、毎日の合戦

          に城方がいつも勝っていた。そのため城方がいささか機を得たとはいえ、寄せ

          手は日本半国の兵が四方を取り囲んでおり、城方はただ城一つのみで、結局

          のところどうにもなりそうにないため、籠城の張本人氏朝の弟の山内兵部大輔

          が降人となって管領の元に出て来た。


          これは、もしも戦いに負けた時に結城一門が絶えるのを嘆いて結城の名跡を

          続かせようとしてのことのようであった。 長沼の元にて子細を申したため、お

          許しになって在陣するよう申し付けた。 城内の兵たちは、堅い守りの城を構

          え、数万石の兵糧を蓄えてあったので、機を見て駆け合わせて合戦をしても

          また、立て籠もって戦っても、一年や二年では容易には落とされないだろうと

          最初のうちは勇んでいた。


          鬨の声や弓矢の音が毎日やむことがなく上は梵天四天王、下は黄泉金輪際

          まで響き渡るかのようであった。  守りの堅い要害だったので寄せ手は城に

          近付くことができず、一方、城中の兵は四方を囲まれて気疲れし、軍勢も減っ

          たため駆け合わせて合戦することもなく、城を出て落ちることもせず、双方互

          いに睨み合って対陣したまま、いたずらに時日が過ぎていった。(永享記)




  永享十三年(1441年)嘉吉と改元

  嘉吉 元年(1441)


  四月十六日、辰の刻から、幕府郡による総攻めが始まる。城内の兵どもは、もともとどの

          ようなことになろうとも死を決していた者たちだったので少しもためらわず、

          大軍の中に駆け入っては駆け散らし、鶴翼魚鱗に連なって、東西南北に寄

          せ手を駆け悩ました。 馬の足を止めずに敵勢に駆け入ったため、朱に染まっ

          た無人の馬が数知れず馳せ回り、切って落とした敵が蹄(ひずめ)の下に散乱

          した。 そうしたところ、何者の仕業か城の櫓に火が放たれ、風が強かったので

          、その火が城内に吹きかけて、城内の建物は一つ残らず焼け失せてしまった。

          城兵は煙にむせび、気を屈して退いたため、寄せ手はこの機に乗じて追いかけ

          て攻め寄せた。退く途中の兵が難所に追い詰められ、城の東の切岸や川に追

          い込まれて討ち取られ、多数の者が水に溺れて死んでいった。


          結城家御廟 一日の合戦で討ち取られた兵は数万人に及び、立て籠もってい

          た人々は一人も残らず討死した。 総大将の安王殿・春王殿は、越後の大将

          長尾因幡守が生け捕りにした。籠輿に乗せて御上洛させることになった。

           (永享記)



 五月 四日、  大将分の首二十九を若君に添えて、京都に送った。両佐々木が若君を濃州

           垂井の道場金蓮寺までお迎えになり、同五月十六日、御兄弟とも害したてま

           つった。 御年十三、十二であった。持氏遺児の安王丸・春王丸・成氏の弟の

           三人が捕えられたが、永寿王丸(成氏)は幼少のため信濃国に落ち延びてお

           り、戦場にはいなかった。  この時、兄の安王丸・春王丸は京に連行される

           途中、将軍足利義教の命により、美濃国垂井宿の金連寺で殺された。(永享

           記・喜連川判鑑) この時、結城城で一色伊予守六郎に連れられた一色直清

           (この時は幼少で?丸(不明)。 兄の亀乙丸は先の永享の乱にて祖父直兼

           ・父直明と共に自決。永享記の記録では「一色父子三人」とある)は姉と弟の

           其阿と共に捕らえら足利安王丸・春王丸と共に京に連行されたが姉と弟其阿

           は、安王丸・春王丸を供養する者として、金連寺の喝食として住職の弟子と

           なり、直清(??丸)は京に連行された。 (永享記・幸手一色家系譜)



 六月二十四日、京都四職の一人で無双の出頭人であった赤松左京大夫満祐が逆心を企て、

           公方の普光院殿義教公を討ち奉った。赤松は本国播州へ馳せ下り、自分の

           城に立て籠もった。細川、畠山、山名らが攻め下って赤松を討ち取り、義教

           公の若君の義政公を征夷大将軍に備え奉って天下は元のようになった。

           しかしながら、これは時節がすでに澆季に及んだしるしである。 臣が君を弑

           し、子が父の敵となる世となって下剋上の奴ばらが王侯貴人をも恐れず跋扈

           する時節が到来したとはいえ、持氏の御生害後 、三年のうちに忽ち報いて

           京都公方も御生害に及んでしまった。これも因果というもので、おそろしいこと

           




  文安 四年(1448)<< 鎌倉公方家の再興 >>


   三月     八代将軍義成が幼少である中、幕府評定により、永寿王による鎌倉公方家

           再興が決定される。


   八月     永寿王(成氏)が信濃から鎌倉に帰還。五代鎌倉公方となる。



  宝徳 元年(1449) 
  
   六月頃    永寿王が元服。将軍足利義成(後の義政)の偏諱(「成」の一字)を与えられ

            「成氏」となる。(喜連川判鑑)



  八月廿七日  成氏は左馬頭に任じられ、同時に従五位下に叙される。((「喜連川判鑑」)




  宝徳 二年(1450)


   四月    << 江の島合戦 >>

          山内上杉家家宰の長尾景仲及び景仲の婿で扇谷上杉家家宰の太田資清

          が成氏を襲撃する事件(江の島合戦)が発生する。成氏は鎌倉から江の島

          小山持政・千葉胤将・小田持家・宇都宮等綱らにより長尾・太田軍を退ける。

           (喜連川判鑑)



  宝徳 三年(1451)成氏は従四位下左兵衛督に昇進。(「喜連川判鑑」)

           一色右衛門佐蔵主、鎌倉一色家を相続。一色直明の長男蔵主、成氏の命

           により建長寺の僧から還俗。右衛門佐に任じられ、従五位下に叙される。

             (「幸手一色家系譜」『幸手一色氏』幸手市教育委員会)

           *幸手一色家系譜に、蔵主は直清が九州に下向していたので蔵主が公方

            成氏の命により還俗し、右衛門佐に任、従五位下を賜るとある。 つまり、

            不明であった蔵主が還俗した時は結城合戦が終結し、直清が京に護送さ

            れた、1441年から直清が国に帰る11年後となる、1452年より前であり、

            公方成氏が四位下左兵衛督となった後が蔵主の還俗した時であることが

            また、旧鎌倉奉公衆の再編の時期もこの年と考察できる。



  宝徳 四年(1452) 一色宮内大輔直清、幸手一色家を相続。

            一色直明の三男直清(??丸)は結城合戦で捕らえられ京に送られたが、

            京に着いた頃、赤松親子に将軍義教が謀殺され、幕は直清の処置を決め

            られず、命は助けられ三年牢屋で囲われた後、京の室町にて元服、幕臣

            として九州に下っていたが、京に連行されてから十一年後となるこの年、

            鎌倉に帰り、鎌倉の一色家は長兄の蔵主が還俗し相続していたので、幸手

            の一色長兼の家を相続する。

            (「幸手一色家系譜」から考察)




  享徳 三年(1454)<< 享徳の乱勃発 >>

             この頃、「成氏鎌倉年中行事」(作者:海老名季高 )が成立。そこには

             成氏の近臣達の名が残され「御所奉行」に佐々木近江守、宍戸、二階

             堂信濃守、寺岡但馬守、本間遠江守、海老名」「奉行人」に壱岐、明石

             宿老」に木戸、野田、「成氏社参ノ御劔役」に一色左衛門佐が見える。

             (一色右衛門佐蔵主が昇格して一色左衛門佐か?)




 十二月廿七日  五代鎌倉公方足利成氏が管領上杉憲忠を鎌倉西御門第に呼び寄せて

            謀殺。(「喜連川判鑑」)



            その後、上杉の老臣で知謀無双の古つわもの、長尾左衛門入道昌賢が

            はかりごとをめぐらせ、この頃上杉民部大輔顕定が十四歳で越州におわ

            したのを呼び寄せ上州に立て籠もって公方家と四年にわたって合戦に及

            んだ。(永享記)八幡神社(古河) ついに、八か国の軍兵を退治して顕定

            を山内殿に移し、関東の成敗を司ることになった。やがて、執権を仰せ付

            けるとの御教書が京都から到来し、公方成氏はついに敗れて鎌倉を捨て

            、下総国下河辺庄古河郷に移り住みたまい、古河御所と称された。

            (永享記)


            古河殿は公方というのは名ばかりで、御牢人も同然で分国も持っていな

            かった。簗田・一色という家来が少々いたが、軍勢も領地も少なかったの

            ることはなかった。  しかし、そうは言っても、公方家の旧功を思う人々も

            さすがに多

            かったので、今さら上杉の下知に従うのも口惜しいと、上州・武州・両総州

            で両上杉の軍勢と公方家の軍兵が国を争い所のあちこちのあちこち続い
            
            た。(永享記)




応仁元年(1467)

  五月二十六日、京都で合戦が起こって天下がおおいに乱れた。その原因を伝え聞くところ

            によると、その頃の公方義政公に御代を相続するべき御子が無かったため

            、浄土寺殿(義視)を還俗させたてまつって御養子とし、公方を相続させた。

            ところが、その後、実子の若子がお生まれになったので、公方はこれを取り

            立てて御代を相続させようと思し召した。御台所の御方から山名右衛門佐

            持豊入道宗全をお頼みになったため浄土寺殿(今出川義視と号す)は管領

            細川右京亮勝元、京極、武田以下一味同心の大名を引率して謀反を起こし

            た。山名入道と畠山義就以下は一味同心して若君(義尚)を取り立てようと

            したため、京都で大合戦となり、洛中は焼け失せたという。(永享記)



文明三年(1471)、関東の公方成氏は古河の城をも上杉に攻め落とされ、千葉介を頼んで千葉

            城にお移りになった。  しかし、末世の濁乱に及ぶといえども、さすが日月

            までは地に堕ちていないしるしに、随従し奉る者も多く、その後、たびたびの

            合戦に勝利された。(永享記)



文明九年(1477)

   七月十七日、ついに、君臣和睦となって、公方成氏は古河の城へ帰還された。その頃は

           御年四十二歳であった。 古河城の隣り、関宿の城に梁田中務大輔を配さ

           れて、成氏は故下河辺庄司行平の館として知られる古河城にお移りになっ

           た。その後、城の南の鵠の巣というところを御所とされ、京都との和睦もとと

           のった。 関東の権柄を御心に任せることはできなかったが両上杉も八家

           も、古河殿と崇めたてまつった。 いわゆる八家というのは、千葉 ・小山・

           里見・佐竹・小田・結城・宇津宮・那須がこれである。(永享記)