【源姓足利一色氏】



        【 一 色 氏 】

   一色氏(いっしきうじ)は、日本の氏族で武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の1つ・河内源氏の名門足利氏支族の1つ。


   源姓足利家4代泰氏の子の足利公深を祖とする。建長三(1251)年十二月二日に鎌倉幕府の筆頭御家人であった足利家3代

   義氏の嫡子、泰氏が下総国埴生(現・千葉県成田)にて幕府に無断で自由出家して家督を嫡子の頼氏に譲り[10]同十二月七日

   には所領である下総国埴生荘を没収され、本領の下野国足利荘足利館内にて隠居して鑁阿寺で仏門に入る。


   その十二年後、弘長(1263)三年十月二十三日に公深が泰氏と側室との間に生まれ、二年後の文永二(1265)年三月に足利荘

   平石の地に泰氏が建てた真言密教系の智光寺で他の兄弟達と共に幼少期をすごした。その後、母方の外祖父で三河国吉良荘

   一色(現・愛知県西尾市一色町)郷の地頭であった桜井判官俊光に養育された後、近江国甲賀郡岩本の飯道寺で山伏として修

   験道に学び奉仕後、桜井判官俊光の所領を相続し地頭職となる。その時、公深は一色姓を名乗る。


   その後、一色公深の嫡子範氏が主君足利尊氏の鎌倉幕府倒幕を目的とした、京六波羅探題攻めに従がい鎌倉から京にのぼり

   、足利尊氏が後醍醐天皇(南朝政権)と敵対、光厳天皇(北朝政権)の御旗のもとに九州を平定し、南朝政権から京の奪還を図

   った時、一色範氏は尊氏の命により筑前に残って室町幕府の初代九州探題となる。


   一色範氏はその後、高齢により九州探題職を嫡子の一色直氏に譲り、次男の範光と三男の範房が従う。  その後の一色範氏

   親子による約20年に渡る九州統治は「観応の擾乱」(室町幕府内の権力闘争)や主君足利尊氏の長男足利直冬が敵方である

   南朝から九州探題に任命されるなど、九州における武家勢力の変動が連動する、正に苦難の道であった。


   範氏親子は将軍足利尊氏の死去を期に、京へ一度帰還して新将軍足利義詮の将軍宣下に参列。後に九州に戻るも、嫡子直氏

   は関東の旧領であった武蔵国幸手領に下る。その後、範氏と次男範光も京に戻り二代将軍足利義詮に仕え戦功を立て若狭守・

   三河守護に範光の嫡子詮範も義詮に重用され侍所頭人となり、丹後・尾張知多守護を加増、さらに三代将軍足利義満の頃には

   詮範の嫡子満範が尾張海東郡を加増されて実質的な3カ国と尾張二郡の大守護となり、足利一門であることから累代、室町幕府

   の侍所所司を勤める四職の筆頭として重用された。


    目  次

     1、経 歴

     2、諸家に分裂

     3、繁 栄

     4、衰 退

     5、戦国時代

     6、織田時代

     7、一色氏の一族

       創成期

       <丹後一色家>

       <兵部一色家>

       <一色右馬頭家>

       <式部一色家>

       <式部一色家分家>

       <金丸一色家>

       <宮内一色家>

       <尾張一色家>

       <関東一色氏:鎌倉一色家:幸手一色家>

       <美濃一色氏>

     8、系 図

     9、一色氏の庶流

     10、主要家臣団

     11、一色氏縁故社寺・菩提寺

     12、脚 注

     13、参考文献


      1、経 歴

     一色氏は室町幕府下で繁栄した。  始祖の一色公深はその隠居にあたり、長子の一色頼行に三河吉良荘の一色郷を譲り、

     次男の範氏を伴い父である足利泰氏の遺領であった武蔵国田宮荘の幸手郷に館を構え、嫡子の範氏は、宗家である足利尊氏

     と共に鎌倉幕府に仕えた。


     足利尊氏が倒幕のため鎌倉から京の六波羅に進軍した時、範氏もこれに従い、三河にて兄の頼行等の足利一族と合流した。 

     室町幕府が創立されると一色範氏が初代九州探題に、嫡子の直氏が二代九州探題となり実弟の次男一色範光と三男範房の

     二人もこれに従った。 しかし、室町幕府初代将軍足利尊氏の死去を期に、一色親子等による20年にわたる苦闘の九州統治に

     終止符を打つことになる。


     頼行も九州で幕府御家人として南朝方と戦ったが犬塚原の戦いで戦死した。ために、一色氏は一時衰退するも直氏の嫡子であ

     る一色氏兼は東国(関東十か国と陸奥国・出羽国などの東北地方一帯)の武家を統治支配する鎌倉府の三代鎌倉公方であった

     足利満兼のもとで家勢を回復する。  途中、直氏の動向は史料がなく不明であるが嫡子である氏兼の動向から旧領である武蔵

     国田宮荘の幸手領に戻ったと思われる (江戸時代初期に書かれた幸手一色家関連の文書には、「直氏、応永六年三月、足利満

     兼の命を得て父の遺領である総州田宮荘薩智手村に一城を構える。」の記録がある。)


     また、氏兼の子である一色氏宗が尾張国丹羽庄に定着したことから、丹羽氏を称し、斯波氏の家老であった織田家の家臣となる。


     さらに、一色範氏の三男範房は旧領である三河国吉良荘一色郷に帰還したと思われるが、文書等に記録はない。 後に子孫の

     詮貞が尾張の織田家家臣の久松家を相続し、この家は徳川家康の生母である伝通院の再婚先となる。 そして、家康の異父弟

     となる久松兄弟達は徳川家親族として松平姓を許され、松平康元、松平勝俊、松平定勝と名乗る。この両家は江戸時代には大名

     家となる。


     戦死した頼行の子である一色行義も記録が無いが三代九州探題となった畠山治部大輔とともに九州に残ったことも考えられる。


     一方、父の一色範氏は次男範光と共に京室町府に残り、範光は二代室町将軍足利義詮のもとで功績をたて家勢を回復し、三河

     ・若狭の守護大名となる。同時に幕府の侍所頭人(所司)に任じられる特別な家となり、赤松氏・京極氏・山名氏と並び四職家とな

     る。 息子の一色詮範はそれに加え尾張の知多・海東2郡の守護に任じられ、さらに孫の一色満範には丹後も加えられ、加佐郡

     八田に守護所を置き、この後背にある建部山に建部山城を築き、実質的な3カ国と尾張二郡を統治する丹後一色氏の最盛期を

     築く。



     2、諸家に分裂

     この一色家は満範の代で3人の息子により分裂する。長男の持範が嫡子であったが、父満範が応永16年(1409年)正月に没す

     ると、その後継を巡って弟義貫と争うが、義貫側が幕府の支持を取り付けたがため和睦。  次男の義範(後の義貫)に惣領(丹

     後・若狭守護)の地位を譲り、三河・伊勢へと退いた。 3男の持信は後に幕府に出仕して活動、子の教親も幕臣として6代将軍

     足利義教に従事した。持範の子の時代に、持範の家は更に分かて一色式部少輔家と一色右馬頭家が興った。式部少輔家と右

     馬頭家は、かつての守護家として、時には将軍家より国持並の外様衆として遇され、三河にも所領を許され、主に将軍家の側近

     として京都に在住した。



     3、繁 栄

     しかし、丹後一色氏は力をつけすぎたためか当主義貫が将軍義教の密命を受けた武田信栄に殺害されてしまうと、義教の近習

     であった持信の子の教親が丹後守護となり、三河・若狭は細川持常・武田信栄に奪われ、一時期勢力を縮小させてしまうものの

     、教親が死ぬと義貫の遺児であった従兄弟の一色義直が八代将軍足利義政の信任を受け丹後・三河の守護として勢力を盛り

     返す。応仁元年(1467年)に起こった応仁の乱において西軍に属してしまった義直は、講和の条件として三河を放棄した。乱後、

     義直は隠居。 嫡子一色義春の時代には再び隆盛し、丹後に加え伊勢・志摩の守護職も得る。 本国の丹後においても治世は

     安定して守護代の延永氏はじめ丹後の国人は一色氏の号令に皆従った。


     4、衰 退

     しかし、応仁の乱で細川勝元の東軍に与した若狭武田氏の侵攻や国人の離反により、次第に衰退の一途をたどるようになる。

     文明16年(1484年)に義春が亡くなり、弟の一色義秀が継承したが明応 7(1498年)に国人の反乱で義秀が自殺した後の一色

     氏の動向ははっきりとしない。一説によると分家である知多一色家の一色義遠の子である一色義有が丹後に入り宗家を継承し

     たとされる。しかし、一色家と敵対関係にあった細川家の政略で丹後守護の名目が若狭武田家に奪われたことにより、一色家の

     求心力が落ちて国人の離反をまねいた。しかし、義有が拠点を与謝郡今熊野城に移したたことにより府中の街は栄えた。


     室町時代末期になると、丹後守護の座をめぐり若狭武田氏との抗争が激しさを増す。一方、国内においては反乱・下克上が続発し

     一色氏の勢力は更に衰退してしまう。中郡・竹野郡・熊野郡・与謝郡は、かろうじて名目上一色氏により治められていたが若狭と

     境を接する加佐郡は若狭武田氏の勢力下に置かれ若狭武田氏の武将である白井氏(千葉白井氏)などの居城も出来た。


     そんな混乱の中で、一色氏一門の庶家のうちから一色義幸が宗家を継承した(義幸は一色教親の末裔ともいわれている)。義幸

     は若狭武田家の勢力を若狭へ押し返し加佐郡の八田守護所および建部山城をとりかえして一色氏を中興した武将である。守護

     代延永氏との仲も良好に保ち、若狭武田家家臣である逸見氏が丹後に亡命した際には、これを保護し領地を与え家臣に加えた。


     5、戦国時代

     しかし、義幸の子である一色義員の時代には、信長が追放した足利義昭を匿うべく田辺城にて籠城、織田信長の命令を受けた

     明智光秀・細川藤孝に攻められ、拠点を加佐郡中山城に移すが丹後の国人の離反が相次ぎ、天正8年(1580年)一色義員は

     丹後中山城で切腹して果てる。


     6、織田時代

     父義員と行動を共にしていた子の義定は義員の切腹により信長に許され、後に実力を認められ一色氏を復興させた。但馬の山名

     氏政と共に旧守護家出身でありながら織田政権を構成する一員となり、丹後の北は一色氏、南は長岡氏(細川藤孝が称した姓で

     後の肥後細川家)の二氏に分割統治され長岡領との境にある弓木城を改修し一色氏は武威を誇っていた。


     信長亡き後、豊臣政権下になると義定は豊臣秀吉に明智光秀と通じた嫌疑をかけられ長岡氏の居城にて密命を受けた長岡忠興

      (後の細川忠興)に謀殺された。その後、叔父の一色義清が一色氏を継承し長岡軍と戦ったが天正10年(1582年)に殺され丹後

     における一色氏は滅亡するも、義定の兄弟達は、旧四職家の一つである近江の京極家(佐々木判官の末裔)や四国伊予の青木

     家を頼り、後に近江国大津の船代官や四国伊予郡の代官及び庄屋として続いた。

     一方、関東における一色氏は2代九州探題を勤めた一色直氏の嫡子、氏兼の娘が3代足利満兼の正室となり、孫となる幼い持氏

     が4代鎌倉公方に就任したこと、また3代将軍足利義満の次男足利義嗣の長子(幼名は不明、鎌倉にて元服して一色直明)を養子

     とし鎌倉公方の御一家として関東管領の上杉憲実をしのぐ権勢を有して鎌倉公方奉公衆の筆頭となった相州三浦郡逗子葉山領主

     一色直兼の鎌倉一色家・武蔵国田宮荘幸手領主一色長兼・持家親子の幸手一色家をはじめ、関東一色家の兄弟等が鎌倉公方足

     利持氏の近習を勤めていた。


     この一色氏は後に鎌倉公方の足利持氏と共に永享の乱で一度滅亡する。しかし、8代将軍足利義政の頃、幕府による鎌倉公方家

     の再興がなされると、戦死した一色直明の長男で、鎌倉五山第一位の建長寺の僧侶となっていた一色蔵主は5代となった足利成氏

     の命により、還俗し鎌倉一色家を再興、翌年、幕臣として九州に下向していた三男一色直清により幸手一色家が再興される。この一

     色家は古河公方の終焉まで仕え、鎌倉・古河公方家の奉公衆筆頭家から江戸時代には喜連川家筆頭家老家へ、古河公方家宿老

     の幸手一色家から徳川将軍家の高家旗本(寄合)として続いた。



     なお、一色氏の一族は各地に点在しており、戦国時代、甲斐守護武田氏に仕えていた一色土屋氏は武田氏滅亡後、土屋忠直が徳

     川家康に召出されて上総久留里藩主となる。 織田氏・豊臣氏両家に仕えた一色丹羽氏の丹羽氏次は、江戸時代に三河伊保藩の

     藩祖となる。また、同姓で同時代に有名な丹羽氏である丹羽長秀とその一族は平氏であり、家系も異なる。


     また、徳川家康の側近として仕えた金地院(以心)崇伝も一色氏の末裔であり、崇伝の従兄弟の一色範勝の一族は徳川家旗本とな

     った。 しかし寛文5年(1665年)には無嗣断絶となるが旗本榊原家、片桐家に養子を、正室として大橋家、野田家、三宅家、根岸家

     に女子を嫁がせるなど子孫を残している。




     7、一色氏の一族


      創成期人物


      一色公深 足利七郎 一色太郎 三河国吉良荘地頭

                  戒名:宝持寺殿孝巌相公庵主



      一色頼行 太郎 政所関東廂結番四番人

      一色公深の子。異母弟に一色範氏がいる。範氏の母親が今川氏の娘ということもあって嫡子とされ、頼行は庶子とされていた

      ようで、正慶2(1333)年 4月に足利高氏が丹波・篠村八幡で討幕の挙兵した時、今川範氏と共に「一色右馬介」なる者が高氏

      ・直義の矢の奉献を進める役を勤めたと今川了俊の『難太平記』にあり、これが一色頼行のことではないかと推測されているが

      実際には頼行は右馬権頭であり確定できない。

      建武政権では足利直義に従って鎌倉に下り、関東廂結番の四番としてその名がある。尊氏が建武政権に背いて挙兵すると

      それに従って京都を攻め九州への敗走にも同行した。建武3(1336)年3月 2日に尊氏が多々良浜の戦いで菊池武敏を破って

      九州を平定すると、同月13日、頼行は豊前・豊後・肥前の武士たちを率いて南朝方の大友貞順がこもる豊後・玖珠城を攻略、

       8ヶ月に及ぶ戦いの末10月12日に陥落させている。尊氏は東上するにあたって、一色範氏を初代の九州探題に任じて九州

      統治にあたらせ頼行は範氏を助けて各地に転戦した。翌建武(1337) 4年、範氏と頼行は肥後の南朝方・菊池氏を攻略すべく

      兵を進めたが、4月19日に菊池武重・ 阿蘇惟澄に犬塚原の戦いで大敗、頼行は戦死する。頼行の跡は子の行義が継ぐ。



      一色範氏 二郎  宮内少輔 九州探題

      一色公深の子で、母は今川国氏の娘。出家して「道猷」と号した。「一色二郎」の通名があり、一色頼行は庶兄であったらしい。

      生年は不明だが、建武政権期に武蔵守護となった足利尊氏の代官として武蔵国の統治にあたる。 尊氏が建武政権に反旗を

      翻して挙兵すると、これに従い建武3(1336)年には尊氏の九州落ちに同行。3月2日の多々良浜の戦いに勝利した尊氏は東上

      するにあたり、範氏を九州平定の大将として九州に残したことをもって、範氏が室町幕府最初の「九州探題(鎮西探題、鎮西大

      将軍)」となったとみなされる。本拠地とした博多は鎌倉幕府滅亡時に焼かれたので探題の館はなく、聖福寺を仮の館とした。

      しかも範氏による九州平定の道は険しかった。


      範氏は兄弟の頼行や仁木義長と共に各地に転戦して、菊池氏など南朝勢力と戦ったが一進一退を繰り返し、建武4(1337)年

      4月19日に犬塚原の戦いで菊池武重・阿蘇惟澄の軍に大敗。 頼行は初め多くの部将を戦死させ、範氏自身も川尻から海路

      筑前へと撤退する。 範氏が頼みとするのは北朝方である「九州三人衆」、少弐・大友・島津の有力守護達であったが、彼らは

      九州探題の支配下に置かれることを嫌ってか独自行動をとりがちであった。  また範氏自身が九州に持つ直轄地はそもそも

      わずかなもので、部下たちを養う経済力もなく、多くの外様の部下は逃げ出し、直接指揮下にある部下は、たった二十数名で

      あり、さらに自身が守護として号令をかけられる国は、事実上あるわけもなく、九州平定は至難の業だった。


      こうした状況を範氏は何度となく幕府に訴え、暦応3(1340)年に記した範氏の悲鳴のような手紙は、探題をやめさせて九州から

      引き揚げさせてほしいとすでに九回も願い出ては、都度却下されていたことが知られる。 幕府はあくまでも範氏に九州平定の

      任務を強制し、貞和2(1346)年には範氏の子の一色直氏・一色範光を九州に派遣した。この年から公式の九州探題は嫡子の

      直氏が引き継いだが、範氏が実質的司令官であり続けた。


      後に幕府内の内戦であった「観応の擾乱」が始まると足利尊氏の長子であり、足利直義の養子となっていた足利直冬が九州

      上陸した。少弐頼尚がこれを旗頭にかついで尊氏派の範氏に対抗、さらに同じころ、肥後に入った懐良親王が菊池武光に

      奉じられ、九州は探題方(尊氏派)佐殿方(直冬派)、宮方(南朝)の三者鼎立の複雑な情勢となった。 そして、直冬の勢力が

      増してきたため観応元(1350)年に範氏は京の尊氏に九州への出馬を要請し、将軍尊氏もこれに応じて出陣したが、その隙に

      直義が南朝と結んで挙兵したため引き返したため、範氏の苦境は変わらない。


      翌観応2(1351)年2月に尊氏と直義の戦いは直義の勝利に終わり、結果として直冬が正式な九州探題となると、今度は範氏

      が懐良親王ら南朝側と同盟を結んで共同で直冬を攻めた。  さらに翌文和元(1352)年になると鎌倉で直義が急死し、尊氏と

      南朝の和睦が破れたため九州では直冬の勢いが一気に衰え、この年の暮れには範氏の攻勢により直冬は拠点大宰府を失

      い、直冬は九州を捨てて長門へと逃れる。 直冬をかついでいた少弐頼尚は一色軍に古浦城を攻撃されて窮地に陥り、懐良・

      菊池勢に援軍を求めた。そして、文和2(1353)年2月2日、筑前の針摺原の戦いで一色軍は懐良・菊池軍に大敗、よって懐良・

      菊池勢の優勢が始まる。 文和4(1355)年10月、ついに懐良軍に博多を攻め落とされると、範氏と息子たちは長門へ撤退した。

      範氏はそのまま京都へ引き上げ、およそ20年にわたる苦闘の九州統治に終止符を打つことになる。  以後、息子たちが九州

      奪回をはかるも失敗し、範氏はそのまま京で隠居、応安2(1369)年 2月18日に死去。 戒名:天正寺殿廓翁道猷大居士






 
     一色直氏   孫太郎 宮内少輔 右京大夫 九州探題 肥後守護 肥前守護 筑前守護 日向守護

     貞和2(1346)年8月に直氏は幕府の命で苦戦する父を助けるため九州に渡り、同年12月に父に代わって二代目の九州探題とな

     る。やがて、幕府内の内戦「観応の擾乱」が起こると、九州は一色氏の「探題方」、足利直冬を奉じる弐頼尚らの「佐殿方」、南朝

     の懐良親王を奉じる菊池武光らの三者が鼎立し、中央の情勢と呼応して、複雑な離合集散を繰り返した。  直冬が優勢になると

     一色氏と懐良軍が手を結び、直冬が没落して一色氏が優勢になると少弐氏と懐良軍が手を結ぶといった状況であった。


     文和元(1352)年11月、直氏は範氏の命を受けて少弐頼尚を古浦城に包囲して 窮地に陥れた。頼尚は懐良・菊池武光に救援を

     求め、翌文和2 (1353)年に懐良・菊池軍はこれに応じて援軍に駆けつけた。 慌てた直氏は古浦城の包囲を解いて撤退し、2月

     2日には大宰府の南、針摺原の戦いで懐良・菊池軍に大敗を喫した。  このことで、九州では南朝勢力の優勢が確定的となり、

     二年後の文和4(1356)年10月に懐良軍が博多を攻め落とすと、範氏と直氏は九州を追われて長門へ撤退した。


     翌延文元(1356)年(正平)9月直氏は弟の範光と共に長門から豊前にわたり九州奪回を目指したが筑前麻生山の戦いで菊池主

     水正に敗れ、また長門に撤退させられ、そのまま九州に渡ることもできないまま、延文3(1358)年春に京へ戻った。 このとき尊氏

     自身が九州へ出陣しようとしたが病を発して断念 、4月30日に尊氏は死去。 同年、二代将軍足利義詮の将軍宣下に直氏は参列

     している。その後、直氏は家督を弟の範光に譲り以後、直氏の消息 を示す公的記録はない。

     永徳元年卒 戒名:観音寺殿即翁是心大居士


     直氏の嫡子氏兼の子孫は鎌倉公方足利満兼の下で、関東一色氏として仕え、「永享の乱」に て四代鎌倉公方足利持氏と共に滅

     ぶも、五代鎌倉公方足利成氏と共に再興され、後の「永徳の乱」でも成氏に従い鎌倉から古河、そして古河公方の終焉から喜連

     川へと、一貫して 関東公方の側近として従った喜連川一色氏、古河公方の終焉から徳川家の旗本となった幸 手一色氏、尾張に

     地盤を固め織田信長の家臣となった尾張丹羽氏などにつながっていく。





     一色範光 五郎  修理大夫 兵部 四職 京都所司 肥前守護 若狭守護 三河守護

     肥前守護を拝命し、父の範氏と九州探題を継いだ兄の直氏に従い宮方の勢力と長年対陣を 続けたが、幕府方の勢力を糾合しきれ

     ずに苦戦して敗退するが将軍足利義詮、義満には引 き続き信任され重用され延文2(1357)年、九州からの帰還後は三河・若狭の

     守護となる。

     応安2(1369)年から応安4(1371)年にかけて一色氏支配に頑強に抵抗してきた若狭の国人 し、四職の一家としての一色氏の繁栄

     の基礎を築いた。貞治6(1367)年以降に出家、信伝 と号す。嘉慶2(1388)年1月25日に死去、

     享年64歳。 戒名:慈雲寺殿徳翁伝公大居士





     一色詮範 左京大夫 兵部  四職 侍所頭人 若狭守護 三河守護 尾張知多分郡守護

     永徳元(1381)年、足利幕府の侍所頭人に任じられ3年間同職を務める。 嘉慶2(1388)年、父・範光の死により家督を継ぎ、三河・

     若狭両国の守護となる。明徳2(1391)年、山名氏が幕府に対して挙兵した明徳の乱で幕府方に与して武功を挙げ尾張国知多郡・

     海東郡の分郡守護職も追加される。応永2年(1395年) 3代将軍足利義満の出家に伴い剃髪し信将と号 する。応永6年(1399年)

     に大内氏が挙兵した応永の乱でも幕府方に属して武功を挙げ同 年8月、若狭国守護代の小笠原明鎮を解任する。

     応永13年(1406年)6月7日死去。  戒名:長慶寺殿大勇信将大居士




     <丹後一色家>

     一色満範 修理大夫  兵部 四職 丹後守護 若狭守護 三河守護 尾張知多分郡守護

     父詮範とともに明徳の乱で軍功を挙げ、幕府内での一色氏の地位を高め、一色氏の重代の 領国である若狭守護・三河守護に

     加え明徳3年(1392年)正月には丹後守護職にも補任さ れた。丹後の守護所である加佐郡の八田の館に居住したが、父ととも

     に守護館の背後にあ る建部山に建部山城(舞鶴市)を築城する。応永の乱では、大内弘茂を打ち滅ぼし、幕府中枢の地位をも

     確固たるものとし、畿内周辺 の三ヶ国を有する有力守護大名として、一色家の最盛期を築いた。

     没年応永16年(1409年)1月6日。法号:慈光寺殿



     一色義貫 五郎  四職 丹後守護 若狭守護 三河守護 山城守護 尾張知多分郡守

     応永16年(1409)、父・満範の死により家督を相続。四代将軍足利義持に仕え、侍所所司を 務める。永享6年(1434)には山城の

     守護にも任じられ三河・若狭・丹後、さらに山城の4 カ国(他に尾張海東郡・知多郡分郡守護)を兼ねる有力守護大名となる。

     武功においても伊勢の北畠満雅を討ち、応永34年(1427)に出奔した赤松満祐を討伐している。その功績によ り、四職の1家と

     なって幕政に参与したが、6代将軍足利義教の代になると、供奉を放棄す るなど次第に対立し、一時は幕政から遠ざけられた。

     その後、管領の畠山満家。 その後、 管領の畠山満家らの仲介もあって、義貫は再び幕政に復帰する。 しかし、永享12年(14

     40) 義教の命により大和の越智氏を討伐のために出陣する(大和永享の乱)と、永享の乱で幕府 に対して挙兵した足利持氏の

     残党(同族の一色持家)を匿ったことや土岐持頼と共に南朝と密通していた疑惑を問われ土岐持頼と共に義教から追討を受ける。

     越智氏討伐後の祝杯の陣中にて義教から密命を受けた武田信栄に腹背を攻められて敗北。 同年 5月15日、大和国信貴山の

     竜門寺で一族と共に自害した。          享年41歳。法号:安養寺泰雲



     一色義直 修理大夫 左京大夫  丹後守護 伊勢半国 三河渥美郡地頭職 丹後守護 伊勢半国

     永享12年(1440)に父義貫が大和の陣中で6代将軍足利義教の命を受けた武田信栄により殺 害されると、一色氏宗家を義教の

     寵臣であった従弟の一色教親が就く。義貫には7人の子 がいて、3人は父と共に討たれ、2人は教親に預けられて流罪となり、

     残りの2人は室町 幕府政所執事伊勢貞国に預けられる。義直が4人のうちいずれかは不明。  宝徳3年(1451年)、教親が33

     歳の若さで没し、嫡子は幼年のため、義直が家督を継ぐこ ととなる。 義直は享徳2年(1453年)までに元服、教親の領国のうち

     丹後・伊勢半国・尾 張知多郡を受け継ぎ(尾張海東郡のみ外される)、同じく旧守護国の三河渥美郡、若狭小 浜も知行地として

     手に入れる。幕府の御相伴衆となり8代将軍足利義政の信頼を得て永録元年(1457年)と寛正3年(1462年)に発生した土一揆

     を他の諸大名と共に鎮圧、寛正年 間は毎年2月17日に義直の京屋形に義政が訪れるのが慣例となる(『蔭凉軒日録』)。


     また、丹後の領国支配に取り組み長禄2年(1458年)に段銭を課し、翌3年(1459年)に 丹後国内の全荘園と所有者を記録した

     『丹後国諸荘園郷保惣田数帳』を編纂して丹後領内 を把握、寛正4年(1463年)には小浜に到着した船の積荷を巡り、若狭守護

     武田信賢と争う。しかし、応仁元年(1467年)に始まる応仁の乱では信賢との確執と若狭・三河を復旧する 目的から山名宗全が

     率いる西軍に味方したため、細川勝元側の東軍を支持する義政により 丹後・伊勢守護職を解かれる。 それまで義政の側近と

     して花の御所の側に邸宅を与えられ ていた義直は、東軍の本拠となった花の御所(将軍義政邸)や勝元ら東軍諸将の邸宅に

     取り囲まれる形になり、義直邸が真っ先に攻撃対象にされ、同年5月26日に東軍の奇襲に遭い 屋敷を奪われる(上京の戦い)。

     10月3日と4日の相国寺の戦いでは占拠していた相国寺 を東軍に奪還される。  文明6(1474)年4月、細川政元と山名政豊の

     間で和議が成立すると義直は東軍に帰順・隠 退し、5月に嫡男義春を幕府に出仕させる。幕府は丹後守護職を義春に戻したが

     信賢の弟 武田国信は引き渡しを拒んだ。 しかし、勢いづいた丹後の一色勢は同国に駐屯していた武 田勢を破り、旧領回復に

     成功する。 三河では文明8(1476)年一色勢が細川成之の守護代、 東条吉良国氏を自害に追い込み、成之はこの事件を契機

     に幕府出仕を拒否、文明10(1478)年2月義直が三河を放棄する旨を文書で表明して三河の一色軍は撤退した。

     文明16(1484 )年義春が19歳の若さで没し、丹後守護職のみ義直が相続した。しかし、文明18年(1486) 8月、禁裏の意向により

     義直の知行地である小浜が武田国信に与えられると抗議のため、丹後へ下向、翌長享元年(1487)の9代将軍足利義尚による

     六角高頼攻め(長享・延徳の乱)に も参陣せず、代理に次男の義秀を参陣させる。 延徳2年(1490) 6月に武田国信が死去した

      ことを機に幕府に復帰し、延徳 3年(1491)の10代将軍足利義材(後の義尹、義稙)による2 度目の六角攻めには自身で参陣し

     義材に代わり首実検を行う。明応元年(1492)12月、義材 の帰洛に従いしばらく在京していたが翌明応2年(1493)正月、丹後で

     伊賀次郎左衛門の叛乱勃発、鎮圧のため下向したが以後、明応6年(1497)に丹後在国の記録が妙立寺に残され 、明応9(150

     0)年5月に義材の家臣伊勢貞仍が書いた歌集『下つかさ集』で、慶誉入道の出家名で貞仍と対面した記事を最後に記録なし。





     一色義遠 兵部少輔 式部少輔  尾張知多分郡守護

      文亀元年3月(1501)武田元信の軍勢を丹後から撃退した義遠は、丹後在住の重臣たちと 相談の上、三河の国に止まっていた

     義有を呼びもどして本家の跡を継がせ丹後の国主とし 、与謝郡の府中一の宮(宮津市)の近くに館をつくり、重臣の延永修理進

     (のべながしゅ りのしん)を陣代として丹後を支配させ、義遠はその8月、吉原城(中郡峰山町)から石川 城(与謝郡野田川町)に

     移って後見人となる。



     一色義春 五郎  左京大夫  丹後守護 伊勢半国守護

       同年閏5月、義春は応仁の乱以来若狭武田氏・細川氏に奪われていた丹後守護職を取り戻 す。丹後では武田氏・細川氏配下

      の武将が所領返還を拒んだため合戦となったが、若狭守 護武田国信は4月に交わされた和議があり、援軍を送ることができず

     、9月に丹後に在った武田軍の主将逸見真正が自害して、一色氏の丹後での旧領回復は順調に進んだ。

      文明9 年(1477年)5月、室町幕府は北畠政郷に与えていた伊勢北半国守護職を没収して義春に 与えたが、義春は伊勢における

      北畠軍との合戦で敗れる。文明10年(1478年)父義直の幕 府出仕が認められ、その後見を得て幕政に参与。文明12年(1480年)

      に将軍相伴衆に任じ られ義尚の側近となり、犬追物や和歌の贈答を通して義尚と親密になっていったが文明16 年(1484年)9月

      4日に病死した。享年19歳。慈観寺殿



     一色義秀 五郎 丹後守護 伊勢半国守護

      文明16年(1484)の兄義春の急死により急遽一色氏の家督を継ぐ。若年のため、丹後守護職 には父義直が就いている。

      文明18年(1486)8月、父は禁裏の意向により知行地の若狭小浜 を取り上げられ、同地は同国守護武田国信に与えられた。これに

      激怒した父義直は直ちに 丹後へ下向し、翌長享元年(1487)の9代将軍足利義尚の六角高頼討伐(長享・延徳の乱)に も参陣しな

      かった。代理として9月25日に義秀が上洛・参陣した。この時の上洛を機に元 服し「義秀」と名乗る。明応2年(1493)丹後で伊賀次

      郎左衛門の叛乱をうけ上洛していた 父も急を聞いて丹後に下向、親子で鎮圧に当たる。その後も丹後では国衆の叛乱が相次ぎ 、

      明応 7年(1498)5月29日、義秀は丹後国普甲山で国衆に攻められ自害して果てる。



     一色義有 左京大夫 丹後守護

      丹後本家の一色義秀が戦死しため、その跡を継いで丹後一色氏の当主となる。しかし、国 が丹後に攻め入るなど混乱を極めていた。

      永正 2年(1505)に丹後守護に補任されたが翌永 正 3年(1506)には幕府の管領細川政元により解任される、政元の命を受けて丹後

      に侵攻し た細川澄之、細川澄元、細川政賢、赤沢朝経、三好之長、香西元長および武田元信らと合 戦を繰り広げた。義有は今熊野

      城に、延永春信は阿弥陀ヶ峰城に、石川直経は悦城にそれ ぞれ籠り防戦する。

      翌永正4年(1507)にも戦いは継続され、府中(現在の宮津市)が戦火に遭うなどの被害があ ったが持ちこたえた。その最中に政元が

      4月に京都へ戻り細川澄之と香西元長も5月に石 川直経と和睦して京都へ引き上げ、6月に管領細川政元を暗殺する(永正の錯乱)

      事件が発 生する。細川軍は義と和睦を結び撤退を図ったが、直経がその隙を突いてこれを撃退、赤 沢朝経らを討ち取り武田軍を打

      ち破った。永正5年(1508)に義有は丹後 守護に再任、永 正7年(1510)に将軍足利義尹(後の義稙)に太刀・馬を送り、永正8年(1511)

      には上洛して 義尹に軍忠に励んだが永正9年(1512)に病死、

      享年26歳  龍勝寺殿



     一色義清 五郎 左京大夫 丹後守護

      丹後の守護を務めたが若狭武田氏の介入や守護代延永氏の下克上にあい国内は混乱した。 永正13年(1516年)から翌年にかけて

      同族と思われる一色九郎と争う。義清は加悦城主石 川直経と、一色九郎は守護代延永春信と結び互に戦いを繰り広げたが、直経の

      加悦城を攻 め落とされ一時没落したこともあったらしい(『東寺過去帳』)。義清の動静は永正16年 (1519年)まで判明している。義清

      をもつて一色義貫流の血脈は絶える。また、土岐頼芸の側室で其の後、斎藤道三の側室となった深芳野の父ともいうが、詳細は不詳。

      なお、深芳野の生ん だ斎藤義龍は一色左京大夫と称し一色氏を名乗っている。



     一色義幸 丹後守護

      一色義有と次代の義清(左京大夫)が亡くなり一色氏本家(一色義貫流)の血筋が絶えたため、一色教親の子(末裔)である義幸が

      これを継承した。幕府より丹後守護職に任命され若狭武田氏から丹後を脱還。さらに若狭武田氏の勢力を追い、加佐郡の丹後守

      護所(八田守護所)および建部山城(八田城)に入った。守護代の延永氏との関係も良好で、若狭にもたびたび攻め入り若狭守護の

      武田元光と丹後・若狭の領有をめぐって争った。驍将であった義幸も永禄元年(1558年)には隠居し、一色氏宗家の家督を吉原家の

      義道(義員)に譲る。



     一色義員 丹後守護 一色義幸の嫡子(義道)

       天正3年(1575)織田信長の越前一向一揆攻めに水軍で参戦して信長公より丹後国を安堵されたが、追放した将軍・足利義昭を匿

      った為に信長の怒りを買い天正7年(1579)細川藤孝・忠興父子に明智光秀の加勢を受けた軍勢に、籠城していた田辺城を攻め陥

      された。 将軍義昭は義員らの田辺城籠城軍に対してこの功を賞している。 天正8年(1580)一色義員は籠城の責任をとって丹後

      中山城で切腹して果てる。



     一色義定   五郎 左京権大夫 丹後守護

      天正7年(1579)父である一色義員に従い籠城したが、義員が切腹し責任を取った為、許され織田信長配下の大名となり二万石を

      知行され天正9年2月、織田信長が催した「天覧京都御馬揃え」に出馬、同年5月に明智光秀の仲介で細川藤孝の娘伊也を娶る。

      同年8月因幡国鳥取城攻めに参戦。天正10(1582)年2月武田勝頼討伐の為織田信忠に従い信州高遠城攻めに参陣したが、6月

      2日に本能寺の変があり信長が明智光秀の為に討死。義定は秀吉から、光秀加担の疑いで切腹を命じられ、細川藤孝の宮津城

      三の丸米田屋敷で切腹して果てる。



    一色義清 越前守 丹後守護

      丹後の吉原城を領し、当初は姓を吉原と称していたが、1582年、甥の一色氏の当主であった一色義定が細川藤孝に謀殺された。

      ために、弓木城において一色氏の家督を継ぎ再興した。しかし、すぐに細川の追討軍が現れて一色軍は壊滅し、義清は細川軍の

      本陣に斬り込みをかけ下宮津の海辺で壮烈な最期を遂げた。



    一色義政? 治兵衛 一色義定の実弟

     兄の義定は天正10年(1582年)の山崎の戦いで上司である明智光秀に味方する(細川氏は上司である明智光秀に背く)。戦後、

     天下を掌握しつつあった羽柴秀吉は義定による謀反企図の報を聞き、南丹後の細川氏によって長岡氏の居城である宮津城内で

     謀殺された。その際、城内の家臣や城下の雑兵100人も松井康之、米田求政率いる軍勢に討ち取られ、一色義定の本城、弓木

     城は降伏した。

     定の実弟、義政(治兵衛?)は越前、越越を流浪後、天正12年(1584)の近江京極家再興を聞   き、近江国大津に移り豊臣政権で

     の再興を待つも願はかなわなかったが、慶長3年(1599)琵琶湖の船代官として徳川家に仕え、慶長19年(1615)には徳川家康・

     秀忠親子が治兵衛邸にて休憩し琵琶湖を渡る。

     また、治兵衛は時の膳所藩主本多俊次の鷹狩りに共し、芝田山の山深い所にあった寂れた稲荷神社の「西出の森」への移動と、

     その地を一色家の神領として鎮守するよう命じられる。治兵衛は次男太郎左衛門の所有地内に、この稲荷神社を移し神職を呼び

     鎮守させた。

     この時、治兵衛の嫡男清蔵(船代官)と次男太郎左衛門は膳所藩主本多公より神社があった芝田山に因んで芝田姓を賜る。(本多

     俊次は元和 7年(1621) 2月、父の死去により家督を相続し膳所藩主となる。また、本多俊次は同 7月、5000石加増の 3万5000石

     で三河西尾藩に移封となるため、元和 7年(1621)春のことと思われる。)これより、芝田清蔵家が累代の矢橋船代官であり、芝田

     太郎左衛門家が累代、この稲荷神社神官(矢橋稲荷神社神職)となる。



     一色範之   右馬三郎 一色義定の実弟(重之)

      羽柴秀吉の命に従った細川氏による宮津城内での一色義定謀殺後、義定の弓木城も降伏し た。右馬三郎範之(後に青木一重

     の諱を拝領し重之)は母方の外祖父河野通泰の縁をたよ り、伊予国の新居郡に向けて子の重直、重次(6歳双子)、家臣赤澤某、

     伊藤嶋之助、佐和子口郎等十人余と共に海を渡った。後の「大阪冬の陣」にも船で瀬戸内を渡り、大坂城に詰めるなど、伊予一色

     党として勢力をふるい、後の徳川の時代には伊予国青木家の郡代となって子孫は大きく木屋、三津谷、明理川、周布村の4軒の

     庄屋となり伊予一色党は続く。



     一色義長?





     <兵部一色家>


     一色持信 兵部少輔 左京大夫 小侍所別当 三河国高橋荘地頭

      第6代将軍・足利義教の寵臣として御供衆を務め、子の教親も義教より1字を受けて重用された。永享2年(1430年)病のため

      剃髪し出家。同年6月21日に近江国竹生島宝厳寺に雷雲蒔絵鼓胴を奉納している。永享3年(1431年)9月、義教から近江国

      高島郡内新荘地頭職を充て、永享4年(1432年)9月の義教の富士遊覧にも随行。同年11月には小侍所別当に任じられた。



     一色教親  五郎 左京大夫 四職 丹後守護 伊勢半国守護 山城守護

      将軍足利義教の側近として重用され、その偏諱を賜って教親を名乗る。永享12年(1440年)5月15日に将軍足利義教の命を

      受けた武田信栄によって大和で義貫が誅殺されると、翌日早朝、手勢を引き連れて京の義貫邸を襲撃、放火した。この騒動

      で義貫の家臣数十人が討死、自害している。この功績により一色氏の家督を継ぎ、丹後・伊勢北半国の守護となる(尾張国

      海東郡・知多郡の分郡守護でもあった)。翌年6月24日の嘉吉の乱の際は義教に供奉していたが、いち早く逃げ出し難を逃

      れた。文安4年(1447年)から宝徳元年(1449年)の間、山城国守護及び侍所頭人を務める。宝徳3年(1451年)11月28日

      急死、享年33。嫡男がいたが、幼少であるため丹後一色家の家督は一色義貫の実子である義直が継いだ。嗣子が無いまま

      没したという説もあるが、戦国期に丹後を支配した一色義幸は教親の後裔(『大日本辞書』では息子)とされる。





     <式部一色家>

     一色持範  二郎、式部少輔 右馬頭

     室町時代の武将。一色満範の庶長子。弟に一色義貫、一色持信がいる。一色式部家の祖。子は一色政照。将軍足利義持の

     一字を貰い持範と名乗る。父の満範が応永16年(1409年)正月に没すると、その後継を巡って弟義貫と争う。持範には旧若狭

     ・三河守護代で満範に滅ぼされた小笠原氏の残党が支持勢力として付いたが、義貫側は幕府の支持も取り付け、結局和睦す

     ることになった。『若狭国守護職次第』では和睦の時期を応永18年(1411年)6月の事とする。ただし、和睦の結果、丹後守護

     職は持範、若狭守護職には義貫がなったという『系図纂要』の記述は誤りで、持範は終生守護職に就くことはなかった。

     持範の系統は一色宗家の守護国であった三河・丹後の分郡守護や代官を務めていたが室町幕府将軍家直属軍である奉公衆

     も兼ね室町御所にも出仕した。



    一色政照  七郎 式部少輔

     応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こると政照は渥美郡の軍勢を率いて上洛し、西軍に属 して戦った。しかし、一色軍の留守中

     、渥美郡には東軍である伊勢氏被官の戸田宗光が進 出、一帯を押さえてしまった。 文明9年(1477年)頃に政照は田原に帰還

     するが、戸田 氏の勢いを見て争わず和解の道を選ぶ。宗光を猶子分とし、大草村(田原市大草町)に新 たに邸宅を構え退隠。

     文明13年(1481年)4月1日病死した。



    一色政具  七郎 式部少輔

     長享3年(1489年)に兵部少輔に任じられ、明応10年(1501年)に式部少輔に転じる。将 軍の義政や足利義澄より領地を拝領

     する。法号は宗岳



    一色晴具  七郎 式部少輔

     天文2年(1533年)に従五位下に叙され、式部少輔となる。室町幕府将軍の足利義晴の偏 諱を賜り、「晴具」と改名する。また、

     将軍足利義輝より領地を賜る。法号は玉雲院。な お『断家譜』では法号を宗春。



    一色藤長 式部少輔

     天文6年(1537年)に式部少輔に任官され、同13年(1544年)に将軍の足利義藤(後の義 輝)より領地をもらう。奉公衆となって

     いた一色式部家の当主として京都に召され、細川 輝経らとともに義輝に近習した。天文21年(1552年)に従五位下となり、足利

     義藤より偏 諱を賜り、藤長と称す。 永禄の変で義輝が殺害されると、三好三人衆らに興福寺に幽閉された足利義昭の脱出に

     貢献する。 元亀4年(1573年)に足利義昭が織田信長によって京を 追放され備後国鞆へ移った際はこれに同行せず細川藤孝

     を頼っている。 以後の動静の記録は、細川家で催された能会に出席したことに関する記述が大半で、合戦の参加記録などはな

     い。後になって義昭のもとへ挨拶へ向かっている。



    一色範勝 七郎 式部少輔 左兵衛尉 官位は従五位下

     江戸幕府旗本にして一色氏式部家当主。父は一色藤長。以心崇伝は従兄弟。通称は七郎、  法号は天岩宗清。石高は2000石。

     子は2男1女で長男は一色 範視、次男は一色範尚。 慶長16年(611年)に徳川家康に拝謁し家康に仕える。 元和2年(1616年)、

     駿府での饗宴 の配膳の役目を申し付けられたが、その際永井直勝に「位官の無い者が諸大夫(従五位下) ・ 侍従と並んですべき

     ことではない」と言上される。 これに対し家康は「一色家が名家 であることは周知のことであるから現当主に現在官位が無くても

     この役目に就くことは問題ではない」とし、範勝は役目を務め上げた。 その後、範勝は江戸城の書院番の番士となり、寛永9年(1

     632年)には御使番の番士となる。 また同年、従五位下式部少輔に叙任さ れた。 寛永10年(1633年)53歳で死去。



    一色範視 通称は右馬助

     父は一色範勝。妻は榊原照久(越中守)の娘で、後妻は片桐貞隆(主膳正)の娘。実子は 諸説あり、『断家譜』では一色則重(又

     十郎。元禄15年死去) 娘(根岸直利の妻)の1 男1女だが、『寛政重修諸家譜』では片桐之晴(片桐貞晴養子)、榊原範武(榊原

     久通養子 )娘(榊原照清養女、三宅康永の妻)、娘(野田勝成の妻)、娘(根岸直利の妻)の2 男3女である。家督は養子で義弟

     の一色範風(範供)が継承。元和8年(1622年)に徳川 家光に拝謁した後、書院番士となる。寛永10年(1633年)、父範勝の死去

     に伴い家督を継 承する。慶安3年(1650年)、42歳で死去。



    一色範風 長七郎、左兵衛

     大和国小泉藩主片桐貞隆の三男。養父は一色範視。諱は初め範供、後に範風。通称は長七 郎、左兵衛。養父の後妻は範風の

     姉妹であった縁で一色家の養子となる。妻は安部信之の 娘。慶安 3年(1650年)に養父の死去に伴って家督を相続し石高2000

     石を継承。  明暦 3年(1657年)に死去。  法号は法厳院秋山良知。家督は実子の一色範長が相続。



    一色範長 長七郎 一色氏式部家最後の当主。諱は範長。父は一色範風で母は安部信之の娘。

     明暦 3年(1657)、父の死去により生後間もなくして家督及び石高2000石を相続するが、 寛文 5年(1665)に夭折。嗣子が無かった

     ため一色持範以来続いた一色氏式部家は無嗣断絶 となる。法号は正覚院花影雲夢。



    <式部一色家分家>


    一色秀勝 以心崇伝  俗姓は一色氏。 法名が崇伝  南禅寺金地院に住し、金地院崇伝。

     徳川家康のもと幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受け、黒衣の宰相の異名を取った。 起草した武家諸法度は崇伝

     により諸大名の前で読み上げられた。永禄12年(1569年)室町幕府幕臣の一色秀勝の次男として京都に生まれた。足利将軍家の

     側近として将来を約束されていたが、元亀4年(1573年)足利義昭が織田信長に追放されて室町幕府が滅亡すると、官寺中最も格

     式の高い南禅寺にて出家し266世玄圃霊三の弟子となる。鷹峯金地院の靖叔徳林に嗣法、更に醍醐寺三宝院で学ぶ。 文禄2年

     (1593年)10月に24歳で摂津福厳寺、11月には相模禅興寺の住職。 慶長10年(1605年)37歳で鎌倉五山第一位の建長寺住職と

     なり3月には臨済宗五山派の最高位・南禅寺270世住職となり官寺の頂点に立ち、後陽成天皇から紫衣を賜る。


     家康は当初貿易を優先し朱印船貿易を行うため、秀吉が発令していたバテレン追放令に反しキリシタンを黙認していた。しかし、本多

     正純の与力でキリシタンの岡本大八が同じ、キリシタン大名有馬晴信から金品を搾取していた事件(岡本大八事件)が慶長16年(16

     11年)に家康の耳に入ると、 慶長18年(1613年)12月家康からキリスト教禁教の起草を命じられた。崇伝の書き残した異国日記に

     よると崇伝は「鶏鳴より曙天に至り文を成す」とあり、一晩で起草をおこない翌日には献じている。 これが伴天連追放之文である。

     「それ日本 は元これ神国なり」で始まる同令はキリスト教の禁教を決定づけた法令で、これにより慶 長19年(1614年)には棄教に

     応じなかった高山右近、内藤如安ら多数キリスト教徒が国外追放となり、以降幕末まで幕府の宗教政策の中心に据えらる。 その

     法令を一晩で起草した崇伝の立案能力の高さにより、家康の庇護のもと、側近として存分に手腕を発揮する。 キリスト教の禁止や

    、寺院諸法度・武家諸法度・禁中並公家諸法度の制定に関わる(以上 の 3法令を起草したと言われる)。





    <金丸一色家>


     金丸光重  右衛門尉  武田信重の十二男。



     金丸藤次  伊賀守 一色詮範の孫範次の子である一色藤直の子。

      光重の養子となり武田信昌・信縄に仕える。武田一族を称することを許され、秋山姓を名 乗った。後に金丸姓に改める。

     長盛院『寺記』には「金丸伊賀守光信開基」とある。



     金丸虎嗣  若狭守  金丸藤次の子。

      武田信虎に仕える。信虎から一字を賜っている。


     金丸虎義  筑前守  金丸虎嗣の子。

      武田信虎・信玄に仕え、軍中使番十二人のうちの一人。200騎の侍大将。信玄の傳役を つとめたという。躑躅崎の城を預かり、

     伊那攻め、佐久攻略戦に参加。某年に没した。法名「存九」。子は平三郎、昌次、景詮、昌義、昌恒、正猶、景氏。


     金丸昌直  平三郎 金丸虎義の長子。
 
      武田信玄奥近習。武田信廉の被官落合彦助に殺される。享年二十一歳。



     土屋昌次  平八郎 右衛門尉 金丸虎義の次男。

      土屋直村の跡を嗣ぐ。武田信玄・勝頼に仕える。永録四年(1561年)8月の川中島合戦で 初陣。信玄の奥近習に属した。素養を

      信玄に愛され、信長からの贈り物の猩々緋の笠を与えられる。 これは足利十五代将軍義昭が入京した際、信長が義昭に贈った

      もので、大変な名誉だった。1569年10月の三増峠の合戦で浅利信種が討死したため、その同心70騎と駿河先方衆30騎を付され

      侍大将となる。元亀3年12月22日の三方が原の戦 いでは徳川家康の家 臣鳥居四郎左衛門を討ち取った。信玄の命により上州

      和田業繁と共に上野を転戦。天正3年5月21日、長篠合戦で戦死。



     秋山景詮  左衛門 金丸虎義の三男。

      秋山信友の跡を継ぐ。甲斐大崎城主。29歳で病死。



     金丸定光  助六郎・昌義   金丸虎義の四男。(1554〜1582年 29歳没)

      虎義の跡を継いだ。武田信玄・勝頼に仕え、侍大将。1582年武田滅亡時、小原丹後らと共 に勝頼の妻子を介錯。亡骸を葬り、自ら

      も自刃。天正十年三月二十一日、二十九歳没。 法名「道助」。天目山で戦死。



     土屋昌春  左馬助 金丸定光の子。

      土屋氏を称する。結城秀康に仕え、越前大野城代3万5千石。1607年秀康に殉じた。



     土屋忠次  主殿助   土屋昌春の子。

      父殉死後5千石を加増され家督を継ぐ。



    土屋昌恒  惣三 右衛門尉  金丸虎義の五男。

      昌恒は今川家との宇津房合戦に出陣。十三歳にして岡部忠兵衛の部下を討ち取る。後に、この岡部忠兵衛は駿河先方衆

     として武田家に属し、信玄より土屋姓を賜る。さらに忠兵衛は昌恒の武勇に惚れ込み、信玄を介して養子とする。このことに

     より、昌恒は土屋 忠兵の婿養子となり、跡を継ぎ土屋氏を称した。武田勝頼に仕え侍大将。長篠合戦による兄土屋昌次の

     戦死後、この土屋氏も継ぎ土屋家惣領となる。1582年天目山で戦死。



    金丸惣八郎(正直)正猶   金丸虎義の六男。

      武田信勝の小姓頭。武田家滅亡後徳川家康に仕えた。



     秋山源三  景氏   金丸虎義の七男。

      兄秋山昌詮の跡を継ぎ、秋山氏を称した。武田勝頼に仕える。1582年天目山で戦死。



     土屋直村  五郎右衛門。土屋昌次の子。

      武田滅亡後、武蔵八王子に移る。徳川家康に仕官を求められるが、これを固辞。天正十九 年二月一日、徳川家康の命

      により関東紺屋頭となる。以後、土屋家は紺屋頭の家系となり 、当 主は五郎右衛門の名を名乗った。



     土屋貞直  右衛門。 土屋昌次の子。

      武田滅亡後、武蔵八王子に移る。徳川家康の招きにより、家臣となる。文禄元年二月、兄 直村と同じく関東紺屋頭の

     御朱印を賜る。後に駿河忠長に仕えた。後に職を辞し、甲斐恵 林寺にて働く。



     土屋忠直 平八郎 民部少輔 土屋昌恒の子。

      母は岡部丹波守女。武田家滅亡により忠直は母に連れられて駿河国清見寺へ落ちる、1589 年徳川家康に見いだされ、

      阿茶の局に育てられる。その後、徳川秀忠の側衆として仕え、秀忠から一字を与えられ忠直と称した。関ヶ原合戦に従軍、

      1602年上総国久留里城2万石を与えられる。



     土屋利直  平八郎・民部少輔 土屋忠直の嫡男。

       父の跡を継ぎ久留里城2万石。



     土屋直樹  伊予守 土屋利直の嫡男 延宝七年(1679年)8月7日、狂気を理由に改易され断絶。
 
       延宝9年(1681年)6月30日に死去した。



     土屋逵直  旗本3000石  土屋直樹の嫡男 



     土屋数直  辰之助・采女・定直 大和守 但馬守 1608-1679 土屋忠直の次男。

       母は森川金右衛門氏俊の女。元和ニ年(1616年)徳川家光の小姓となる。元和八年(1622年) 近習、翌年御膳番、寛永元年

       (1624年)従五位下大和守に任じられ、500俵を受ける。慶安元年(1648年)小姓組番頭、但馬守となる。 明暦三年(1657年)

      常陸国宍戸に5千石を与 えられ 、寛文ニ年(1662年)若年 寄となり、武蔵国越谷で5千石加増、 寛文四年(1664年) 武蔵 ・

      相模両国内で5千石加増された。翌年老中に進み従四位下となる。 寛文六年(1666 年)常陸・上総・武蔵・下野国内で2万

      石加増、寛文九年(1669年)には土浦城主となり常陸 ・ 武蔵国内で1万石を加増され合計4万5千石を領す。 翌年には侍従

      に進み、検地・地溝 開発・耕地改良など領内経営に励み、また古学・兵学をも通じ山鹿素行と親交があった。  子の政直は

      30余年老中を勤め9万5千石を領した。



     土屋政直 左門 土屋数直の長男 

      父の死後に家督を相続。その後、駿河田中藩を経て土浦藩に復帰。漸次加増をうけ、最終的に 9万5000石となる。奏者番、

      大坂城代、京都所司代を経て老中に就任、元禄11(1698)  年に老中首座となり 4人の将軍に仕える。側用人政治を展開し

      ていた新井白石と間部詮房 には内心反対し、七代将軍徳川家継の後継者争いの際、側用人の廃止を条件として徳川吉宗

      の擁立に尽力する。吉宗は将軍になると老中達に口頭試問をしたが、なんとか恥を掻か ずに済んだのは三問中ニ問を答え

      ることができた政直のみだったとされる。享保 4(1719) 年老中を辞任・隠居して四男の陳直に家督を譲り、三年後に82歳の

      高齢で亡くなった。隠居後も特に前官礼遇を受けていた。茶道を嗜み、小堀遠州流の門人の一人でもある。また、赤穂事件

      の関係者であった従甥の土屋逵直の次男好直を養子とした。




     土屋之直  兵部少輔  土屋忠直の三男。

      旗本となる。



     土屋陳直  左京亮、但馬守 土屋政直の四男

      兄の昭直、定直が早世したため嫡子となり、享保四年(1719年)5月28日、父が隠居したた め家督を継いだ。6月9日に紅葉山

      三の丸火の番に任じられ8月16日に大手御門番に任じられ る。 享保八年(1723年)3月25日に奏者番に任じられる。享保十

      一年(1726年)2月16日に 西の丸大手御門番に任じられる。 藩政では新田開発(森沖新田・下沼新田)や城下町の拡大 など

      に尽力する。 しかし、享保十五年から翌年にかけて洪水により領内が大被害を受けた ため、享保十六年(1731年)12月には

      岩間領で強訴が起きている。享保十九年(1734年)1月16 日に死去。    享年40。跡を次男の篤直が継いだ。



    <宮内一色家>

     一色教貫 宮内少輔、足利義教より偏諱を賜う

     一色視冬 宮内少輔、足利義視より偏諱を賜う

     一色材延 宮内少輔 足利義材より偏諱を賜う

     一色昭辰 宮内少輔、足利義昭より偏諱を賜う、実父は一色義幸




    <尾張一色家>

     一色範房  左馬助 右馬助 一色範氏の三男

     一色詮光  左馬権頭 宮内小輔 一色範房の嫡男

     一色満貞  兵部小輔 一色詮光の嫡男 尾張知多荒尾城主

     一色満氏  刑部大輔 一色満貞の嫡男 尾張知多荒尾城主

     一色満重  左衛門尉 一色満氏の嫡男 尾張知多荒尾城主

     一色貞範  一色満重の嫡男 尾張知多荒尾城主

     一色光貞  左馬助 中務大輔  一色貞範の嫡男 尾張知多荒尾城主

     一色氏勝  式部大輔 一色光貞の嫡男 尾張知多荒尾城主

     一色範重  右衛門尉 一色氏勝の長男




     一色範直  左衛門太夫 一色氏勝の次男

      大永三年(1523)十二月二六日尾張国知多郡知多城主一色式部太夫氏勝の次男として生る。 兄は範重と云ふ。

     天文一七年(1548)二五歳の時上洛し足利将軍に拝謁従五位下左衛門大夫  に任ぜられ義輝将軍に股従江州

     (滋賀県)、丹波に奔り同二二年帰洛す。弘治三年(1557)正月二七日三四才の時知多の旧領を長子詮勝に譲り

     上京、加茂神社の斎院大夫となる。永 禄十年(1567)二月、四四歳の時将軍義昭の側近の実力者梅仙軒霊超の

     仲介により伊予守河 野左京大夫通宣の招きに応じ垣生加賀守盛周、来島出雲守通康等に迎へられ伊豫に移住

     湯築城の西の方桑原将監藤原正広の旧領三五〇貫の地を宛行はれ以後此処に居城を構え斎院 太夫と称せられ

     この地を斎院邑と称すと云う。天正元年(1573)垣生加賀守盛周に従ひ地蔵 嶽城主大野直行を攻め大功を立てた。

     天正一三年(1585)豊臣秀吉の四国征伐に際しては 岳父通康の子通総と共に太閤に属し小早川隆景軍の先鋒を

     勤む。同年九月河野氏滅亡、天 下静穏翌一四年正月二〇日卒去行年六四歳也。公の内室は来島通康の女(実

     は養女)範直 公伊豫移住の砌り妻に迎へ翌永禄十一年十二月二十日範春を儲け嫡子とす。公死去の年十 月六日

     範直の後を追うが如く卒去す。按ずるに当松山の一色氏族は範直を似って始祖とす 。以来子孫繁衍し戸数四百余

     りに及ぶ。



    一色詮勝  一色範直の嫡男 


         
    一色教重  右衛門尉 一色範直の三男

      教重は、尾張知多郡阿久郷草木城主範直の三男也、弘治三年(1557)父に伴われ京都に移り 永禄十年(1587)伊豫

     の太守河野通宣の招きに応じ松山に移住し、湯築城主河野通直の近習 旗本(温泉群衆)となる。 元亀元年(1570)

     阿波の三好氏が来襲するに当たり東予に出陣す 。天正一三年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の砌其の代将小早川隆景

     に攻められ河野通直は降 参、遂に河野家は滅亡し終わる。以後教重は郷士となり斎院邑に隠退す。慶長六年(1601)

      松前城主加藤嘉明が松山城を築くに当たり石手川を改修し湯山川の跡地を開拓するに際し 、代官足立重信の下命に

     より詮勝は里人と共に従事す。然れども工事は難行、そのうえ天候 不順にして連年の凶作続き。且つまた約束の下賜り

     金の交付もなく里人の餓死する者続出 、遂に逃散者まで出るに至る。ここに於いて教重は、私財を抛って里人を救うこと

     苦節二 十一年余。詮勝自身も遂に力つき寛永元年(一六二四)餓死した。実に痛恨の極みなり。墓は 北斎院町一七八

     番地の旧居跡に葬る。因に工事は嫡子文左ヱ門、これを引継ぎ寛永十二年 (1636)ほぼ完成した。此の年久松定行が、

     勢州(今の伊勢)桑名より松山藩主として入封す定行公が文ヱ衛門の功を償し録三百石を與え家臣に登用した。文左ヱ

     門名を田宮と改め忠勤す。教重に三男あり。長男は文左ヱ門、次男は伊兵衛。三男は祐山。
      


    一色範春  一色範直の次男

    林 家次  一色範直の四男             

    一色詮貞  一色満貞の次男 尾張久松氏の女婿に入る

    久松範勝  一色詮貞の嫡男

    久松定光  久松範勝の嫡男

    久松定益  久松定光の嫡男

    久松定義  久松定益の嫡男



    久松俊勝  佐渡守 久松定義の嫡男

      尾張国守護斯波氏に仕える国人領主であった久松俊勝は天文15年(1546年)佐治氏の一族 より長子・信俊の妻を

     迎えることでこれと和睦。これは松平広忠の仲介によるものとする 『寛政重修諸家譜』の記述がある。また古文書な

     どから従来織田方として見られていたが 広忠と同心していた事も明らかになっており、織田方との提携と共に松平氏

     との提携もし ていた。桶狭間の戦い後に松平元康(広忠と伝通院の子、後の徳川家康)に与す。 永禄 5 年(1562)

     今川氏の重臣・鵜殿長照が守る三河国宝飯郡西郡の上ノ郷城(愛知県蒲郡市神郷 町)を攻略した。西郡の領主と

     なった俊勝は、信俊に阿久比を譲り、上ノ郷城には於大と の間に生まれた次子・康元を置く。この時期の発給文書に

     は「長家」の名が見え、また佐 渡守を名乗っていた。後に織田信長から謀反の疑いで水野信元(家康には伯父、俊勝

     には義兄にあたる)が家康を頼ってくる。家康は同盟を重視して信元を自害させる決断をする が、義弟である俊勝が

     信元を助けるのを恐れて俊勝に事情を明かさずに信元召喚の使者を 命じた。後に事情を知って激怒した俊勝はその

     まま西郡城に隠退してしまった。晩年には 三河一向一揆で追放された一向宗寺院の三河復帰に尽力したという。

     墓所は阿久比町大字 卯坂字英比67の洞雲院および蒲郡市清田町門前4の安楽寺。

     法名は陽光院殿前佐州華林崇心大居士。



    久松信俊  久松俊勝の長男 伊予松山藩家老

      桶狭間の戦い後、父・俊勝は松平元康(後の家康)の招きを受けてその家臣となり、於大 ら妻子を連れて三河国に

     入る。織田信長と元康が清洲同盟を結ぶと、阿久比の地は織田氏 の支配下となり、家康と血縁のない信俊が阿久

     比城と尾張国内の久松氏の所領をもって信 長に仕えることになる。石山合戦の際には佐久間信盛の指揮下で石山

     本願寺を攻めていた が、信盛の讒言(久松氏はかつて一向宗を保護していた事を取り上げたと言う)によって 突如

     信長から謀反の疑いをかけられ、憤慨して大坂四天王寺において自害を遂げてしまう 。信俊の死の直後、信盛の

     軍勢は阿久比城を攻め落とし信俊の子供達のうち 2人を殺害し た。しかし胎児であった末子「久松信平」は生母と共

     に保護され、外祖父佐治対馬守の許 で出生したという(「寛政譜」)。またその子「信綱」は松平定勝に仕え、子孫は

     伊予松 山藩家臣となる。



    松平康元  久松俊勝の次男 生母:於大 徳川家康の異父兄弟 下総国関宿城主

     永禄3年(1560年)3月、異父兄・家康と会見して康元と改名、それに伴い松平姓を下賜さ れたという(『寛政譜』他)。

     永禄5年(1562年)上ノ郷城主となる。天正18年(1590年) 落城後の小田原城の守備にあたり、同年下総国関宿藩

     2万石。翌19年には4万石に加増。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、家康の代理として江戸城の留守居役

     を務める。 慶長8年(1603年)に死去。享年52。嫡男の忠良が家督を継ぐ。



    松平康俊  久松俊勝の三男 生母:於大 徳川家康の異父兄弟 駿河国久能城主

     永禄 6年(1563)、家康の命により今川氏真の人質として駿河国に赴く。同11年武田信玄の   侵攻を受けて甲斐国

     に送られる。元亀元年(1570)冬、家康の手配で甲斐から逃れるが、このため両足の指を凍傷で失う。天正11年(1583)

     に駿河国の久能城を与えられるが、同14年 に死去。享年35。その死後、娘婿として水野忠分の子・松平勝政が迎え

     られる。 勝政は 駿府城番で8,000石、子の勝義は下総国多古8,000石を与えられる。子孫は多古藩主および旗本と

     なる。墓所は静岡県浜松市広沢2-10-1の西来院。法名は澄清



    松平定勝  隠岐守 左近衛権少将 久松俊勝の四男 生母:於大 家康の異父兄弟 伊勢桑名城主
 
     永禄 3年(1560)正月、久松俊勝の四男として尾張国阿久居城で誕生する。生後間もなく異 父兄の松平元康(後の

     徳川家康)より、家門に准じて松平氏の称号並びに葵紋を賜う。異 父兄・家康に従い長篠の戦い、天目山の戦いに

     従軍。天正12年(1584年)小牧・長久手の 戦いの蟹江城合戦に際し、二番乗りを挙げる。戦後、羽柴秀吉は家康に

     対して、定勝を羽 柴氏の養子にさせるように要求したが、生母・於大の方の要望により松平家に留められた 。於大

     の方の子達の内、長兄・康元が常に本国を留守にし、また次兄・勝俊も、かつて今 川氏および武田氏へ人質として

     出されていた結果両足の指を失った為であった。於大の方 は自分の側に我が子を置いておけないのを寂しく思い、

     末子の定勝を他家へ出すことを嫌 ったとされる。結局、家康の次男である於義丸(後の結城秀康)が秀吉の養子に

     なった。 このため、定勝はしばらくの間、家康からは疎んじられたとも言われるが、異父弟とはい え親子ほどの年の

     離れた末弟であり家康からは可愛がられた。室は家康の口利きである。

     長篠の戦いの後、家康は娘婿となった奥平信昌から徳川氏に臣従した際、武田氏の人質に なっていた一族を犠牲

     にした悲話を耳にした。人質には信昌の弟の他、一族の娘が含まれ ていた。不憫に思った家康は、その娘に妹がい

     ると聞かされ、供養の為にも異父弟である 定勝の室に迎え入れた。それが二之丸殿である(夫人の入輿に際し、

     夫人の弟・奥平貞由 や外伯父が奥平家から転仕した。)。

     天正15年(1587)3月、父・俊勝が三河国岡崎城で死去、三河国安楽寺に葬る。

     天正18年(1590) 9月、下総国小南(現在の千葉県東庄町)3,000石。慶長 5年(1600年)、 4,000石を加増され、伊勢

     国長島城主となる。後に2万石を加増され、計2万7,000石の領主 となる。同 6年(1601)2月3,000石を加増され、山内

     一豊に代わり、遠江掛川藩主となる。 その 3ヶ月後、従五位下隠岐守に叙任。「隠岐守」の官名は、歴代にわたり

     伊予松山藩松 平家の拝領官名となる。同 7年(1602) 3月、山城国伏見城で家康の十男(後の頼宣)が誕 生。家康

     は、この男子に定勝の幼名である長福丸の名を譲るよう命じる。これにより長福 丸の名は紀伊家の嫡男の名となる。

     同年 8月、母・於大の方が伏見城で死去。同月末、伝 通院の霊柩が伏見城を出立。 その護衛に当たる。 同10年

     (1605) 5月、娘の阿姫(くまひめ) が家康の養女となり、山内忠義と婚約する。家康より化粧料として豊後国山田郷

     1,000石 を阿姫に賜う。

     同12年(1607)、伏見城代に就任する。元和元年(1615)、従四位下に昇る。同 2年(1616)6万石を加増され、伊勢桑名

     藩11万石の城主となる。一説には翌年に家康が駿府城において薨去した際に、死の床で家康から第 2代将軍・秀忠

     の相談役となるように遺言されたと も言われ、後に 3代将軍・家光が大老職を設置した際も生前の定勝の存在を意識

     していた とも言われる。

     家康の死後、甥である秀忠から篤く敬われ、同9年(1623年)7月、秀忠より侍従職を進め られるも固辞。その 2カ月後

     、左近衛権少将に任ぜられる。これにより桑名少将殿と奉称 される。翌年、居城・伊勢桑名城にて卒去。享年65。遺骸

     は桑名照源寺に葬られた。霊牌 は江戸伝通院にも納められ、後に松山大林寺、今治松源院(廃寺)にも祀られる。

     文政 6年(1823年)、11代・定通により息長福玉命(おきなかさきたまのみこと)の神号 を贈られ、松山城に東雲神社を

     勧請し祀られる。神号は後に東雲大明神(しののめだいみ ょうじん)と改められる。



    松平定行  隠岐守 松平定勝の子  伊予松山藩主

      慶長 6年(1601)、伯父・家康に初めて拝謁。同 7年(1602)、従五位下河内守に任ぜられる 。次男であるが近江国

     蒲生郡の内 2千石を賜う。翌年、兄・定吉の早世により嫡 子とな る。同10年(1605) 9月、家康の命により島津忠恒

     (家久)の養女を室とする。慶長12年 (1607)、父定勝より掛川城 3万石を譲られ、大名となる。大坂の陣では父定勝

     とともに伏 見城を警衛する。元和 3年(1617)父定勝の世子になり、掛川を幕府に還付、桑名に移る。

      寛永元年(1624年)、父定勝の卒去により遺領桑名藩11万石を継承。 3年後、隠岐守に転任し従四位下に昇進。

     同11年(1634)従甥・徳川家光の上洛に際し、桑名より供奉、家光の 参内前に侍従に叙任。家光の参内では騎馬の

     供奉をつとめる。同12年(1635年)、家光の 命により 4万石の加増をもって伊予松山藩に移る。中四国へは初の家門

     入部で、外様への 牽制と警戒のための処置であったという。同16年(1639)には松山城の天守を5重から3重に改築。

     正保元年(1644)、長崎探題に就任。異国船との交渉のため、鎖国制度の完成に貢 献する。家光薨去後の慶安 4年

     (1651)、幼将軍徳川家綱を補佐するため溜之間詰に任ぜら れる。同席は保科正之(家綱叔父)、松平頼重(家光従

     弟)、井伊直澄。万治元年(1658) 72歳で隠居。家督を嫡男定頼に譲って松山東野御殿に退き、松山(しょうざん)と

     称した (のちに勝山と改める)。これにより勝山公と奉称された。東野御殿では俳諧や茶道に親 しむなど悠々自適の

     生活を送り、寛文8年(1668年)、東野御殿にて卒去。享年82。

     正室は長男定頼の生母。元和4年(1618年)卒去。長寿院殿月窓貞泉大姉と贈られる。 桑名長寿院に葬られ、定行

     の移封にともない菩提を弔うため松山城下に長寿院(後の法龍寺)を造営、位牌が祀られる。継室は前室長寿院殿

     の養妹。明暦4年(1658年)、江戸で卒去。江戸麻布曹渓寺で火葬、蓮香院殿湖月貞鑑大姉と贈られる。遺骨が松山

     長寿院(法龍寺)に贈られ、浄蓮院殿湖月貞鑑大姉と改めて贈り、埋葬される。



    松平定房  美作守 松平定勝の子  伊予今治藩主

     遠江掛川藩主・松平定勝の五男として生まれる。慶長16年(1611)、初めて伯父の徳川家康 に拝謁する。元和 7年

     (1621)従五位下美作守に叙任される。寛永 2年(1625)伊勢長島7000      石を賜う。同12年(1635)伊予今治城

     3万石を賜う。正保 4年(1647)南蛮船の長崎入港に際 し、兄の長崎探題松平定行に従い長崎へ出向する。寛文 5年

     (1665)江戸城代役(大留守居) を命ぜられ、武蔵・下総・常陸のうち 1万石を加増される。さらに従四位下に昇進する。

     同 9年(1669)鷹司房子入内に際し、 4代将軍徳川家綱の名代として参内し、侍従に昇進す   る。延宝 2年(1674年)

     江戸城代役を辞職し隠居、薙髪し安心軒と号す。同 4年(1676) 6月 28日、今治で卒去する。享年73。松源院で葬儀

     が行われ、実相院殿憲誉安心大居士と贈られる。今治国分山へ葬られる。

     正室・内藤氏は元禄 2年(1689)江戸で卒去した。長栄院殿相誉安貞清憲大法尼と贈られ、江戸深川霊巌寺に葬られる。





     <関東一色氏:鎌倉一色家・幸手一色家>

     一色直氏  八郎 宮内少輔、一色家4代。足利直義より偏諱を賜う。室町幕府2代九州探題。

      一色範氏の長子 嫡子 田宮・高野城主

      足利尊氏の死後、足利義詮の将軍宣下に参列後に家督を弟の範光に譲る。関東に戻り関東管領上杉家領となって

      いた旧領の武蔵国田宮荘幸手の地頭職に戻り田宮(現幸手駅前)と高野(高野台駅西側・天満宮)城を構える。

      永徳元年卒 戒名:観音寺殿即翁是心大居士  幸手戸島、観音寺開祖(廃寺?)



    一色氏兼  八郎 宮内少輔、鎌倉一色家初代。足利満兼より偏諱を賜う。 一色直氏の嫡子 

      男子に満直、長兼、直兼、氏宗があり、娘が鎌倉公方足利満兼の正室となり、嫡子持氏の生母となる。

      元亀二年三月十五日卒 戒名:東照寺殿一翁全心大禅定門



    一色満直 式部大輔、足利満兼より偏諱を賜う。一色氏兼の三男で最初は嫡子。

      当初、満直が氏兼の嫡子であったが病弱であったので五男の直兼に相続する。幸手の新井家系図では直兼は満直

      より先に書かれており、しかも直兼の表記には血族をつ なぐ立て線がないので養子の可能性もある。また、新井家

      の先祖は、氏兼の末弟で幸手領 に残った貞家(新井ノ五郎)であることを記録している。

    大永三年七月十五日 戒名:康景寺殿義鏡大綱大居士



     一色長兼 六郎、二郎 左京大夫、足利満兼より偏諱を賜う。一色氏兼の四男 

      詳細は<幸手一色家>で記載。

 
       
     一色直兼 八郎 宮内大輔、鎌倉一色家2代。足利満兼より偏諱を賜う。一色氏兼の嫡子で五男

      関東一色氏の嫡統を嗣ぐ。直兼は鎌倉公方足利持氏の御一家衆かつ重臣、鎌倉公方持家の 軍事的専制体制を

     構築する奉公衆を束ねる。永享の乱では直兼は甥の一色持家と共に永享 10年 8月15日関東管領上杉憲実討伐の

     下命を請けて上野国平井城に向け出陣したが駿河守 護職の今川氏が幕府方として参戦したため持氏方は劣勢となる。

     直兼も自軍から憲実方へ 寝返りが続出、同9月4日には平井城を打って出た憲実勢の逆襲に追われて、海老名本陣の

      持氏とともに鎌倉を目指し敗走。同11月 1日、持氏が上杉方の長尾忠政(芳傳、長尾忠綱 の子)に相州葛原で投降す

     ると直兼等の持氏近臣達は恭順のため相州金沢の称名寺に入っ たが許されず、直兼等は幕府の差し向けた討伐軍に

     攻められて同年11月 7日に自害した。

     永享10年11月 7日卒 戒名:長谷寺殿観窓覚音大居士



    一色持直 宮内少輔。足利持氏より偏諱を賜う。一色直兼の子息

      父・直兼と共に武蔵国金沢の称名寺にて君主足利持氏の自決の悲報を聞き殉死か?。結城合戦で戦死した一色伊予守?



    一色直明  八郎 宮内大輔。3代将軍足利義満の次男足利義嗣の長子。生母は上杉氏

     養父・直兼と共に武蔵国金沢の称名寺にて君主足利持氏の自決の悲報を聞き殉死。
 
     実父の足利義嗣は上杉禅秀の娘である側室との間に元服前の幼い直明と嗣俊を残して京相 国寺で焼殺される。実兄の

     4代将軍足利義持は長子の直明には母方の叔父である関東管領 の上杉憲基に預けて処刑を命じる一方、次男嗣俊の

     命は管領の斯波義淳に預けて助ける。 後に足利将軍家連枝として鞍谷公方といわれる。しかし、鎌倉公方足利持氏は

     上杉憲基に 密命を下し、幕府には長子の直明の処刑を執行したと報告、実は鎌倉建長寺で育成後に一色長兼の養子

     とした。(注、偏諱は本来、親や目上の者からもらうものであり、直明の為 に養父の長兼が弟の直兼から偏諱をもらうの

     は道理に合わない。よって直明の養父は直兼 の可能性が高い)屋敷は杉本観音の石坂の右側にあり、左側が旧鎌倉

     幕府の将軍の館であ った[1]




    一色亀乙丸 一色直明の次男で嫡子。生母は上杉氏。

     父・直明と共に武蔵国金沢の称名寺にて君主足利 持氏の自決の悲報を聞き殉死。



    一色蔵主 右衛門佐、従五位下。鎌倉一色家3代。古河一色家初代。一色直明の長子。生母三浦氏。

      8代将軍足利義政の時、関東管領上杉憲実等の嘆願もあり幕府は先の永享の乱で自決した4代鎌倉公方足利持氏の

      四男足利成氏をもって鎌倉公方の再興を決定する。この時、5代 鎌倉公方となり鎌倉に帰還した足利成氏の命にて鎌倉

      建長寺の僧より還俗。先の鎌倉公方 足利持氏を追い、金沢の称名寺にて殉死した逗子・葉山領主一色直兼と直明の

      鎌倉一色家 を相続[1] 新鎌倉公方成氏の奉公衆を梁田氏と共に束ねる。 その後、享徳の乱にて足利 成氏と共に古河城

      に移る。古河城代・古河一色家初代



    一色氏義 右衛門佐・刑部少輔、従五位下。古河城代・古河一色家2代。一色蔵主の嫡子。

     天文23年(1554)に古河公方の足利晴氏が北条氏康と戦となった時、三万の兵に、攻められ 一色刑部少輔(氏義)は梁田

     中務大輔(高助)・二階堂・沼田等と古河城から討出て戦っ たが歯が立たず敗れた。公方足利晴氏・藤氏親子は小田原に

     捕らえられ、相州波多野にて 押込められる。 その後、公方晴氏は隠居させられ代わって北條氏康の甥になる幼い足利義氏

     を京の将軍家の許可を得て元服させた。この時、正式な古河公方として鎌倉の鶴岡八 幡宮にて 854人の兵を道の両側に並

     べて武者揃を行った時、梁田中務大輔(高助)が剣を持 ち一色刑部少輔(氏義)が御沓の役を承り吉良左兵衛佐(今川家家臣

     吉良義昭)は御唐笠 を仕る。その他譜代の御家人達が我も我もと従い、三百騎の騎馬武者が打ち込み、その後 を通る。

     千葉県立関宿城博物館史料集一『梁田家文書』[2]



    一色氏久 右衛門佐・下野守、従五位下。 古河城代・古河一色家3代。 古河公方家奉公衆筆頭。 

           喜連川家初代筆頭家老。 一色氏義の嫡子。 通称源三郎。

     古河公方家御一家として足利義氏期の古河公方家の実質的政務を担当。古河城代として後 北條家勢力との折衝にあたる。

     義氏の死後、古河御連伴衆の筆頭として残された足利氏姫 をもり立てる。北條成敗後、豊臣秀吉により氏姫と小弓公方足利

     頼純の嫡子国朝との婚姻 により足利家が再興され、喜連川家が興た時の初代筆頭家老。その後、足利氏姫は古河鴻 巣御

     所にいて生前中、古河と比べて草木も深い未開の喜連川領には一度も足を踏み入れよ うとしなかった。よって、この頃の喜連

     川家当主の初代足利国朝・2代喜連川頼氏も殆ど 古河鴻巣御所にいて、喜連川城の城代家老は次席家老の山名豊前守・

     二階堂下総守等が勤 めた。氏久の墓は古河公方の足利義氏・氏女親子と同じ古河徳源院にある。[3] 

     慶長六年十二月死去 戒名:松香院圭峰周玄居士 (古河徳源院過去帳より)






    一色義久 右衛門佐・刑部少輔・下野守。喜連川一色家初代。喜連川城代・喜連川家2代筆頭家老。 一色氏久の嫡子。

      慶長7(1602)年2月、古河から喜連川の龍光院社寺領50石を与える家老連署書状に二階堂 より先の筆頭に一色刑部義久

      の名が確認できる。慶長10(1605)年に古河から嫡男立花左京 (後の一色崇貞)と三男石堂八之丞(後の一色崇利)他三人

      の家臣をつれ喜連川に入領。 慶安三年七月十一日卒 戒名:□□院長岳宗久居士(喜連川龍光寺一色家墓所墓石より)



    一色崇貞 刑部少輔・立花左京[4]。 喜連川一色家2代。 喜連川城代。喜連川家3代筆頭家老。

      一色下野守義久の嫡子。  慶長十年(1605)頃、古河より喜連川へ、父の下野守義久と実弟石堂八之丞(後の一色五郎左

      衛門)の親子三人で、他の古河公方家系家臣を従えて入領する。

      金地院崇伝より偏諱を賜う。慶安元年(1648)喜連川騒動の時、幕命により藩主の3代喜連 川尊信の狂乱を幕府に隠した責

      を取り、他2人の家老と共に伊豆大島に遠流。一色妻子は 岸和田藩主岡部宣勝に預けられ、長子の相木与右衛門は尼崎藩

      主青山幸利に預けられる。 三代将軍徳川家光の十三回忌に許されるも、既に明暦2年(1656年)7月に崇貞は病死、嫡子一色

      左京は岡崎藩主水野忠善家より招呼、客分二百人扶持にて再興。長子の相木与右衛 門と三男(石堂)八郎もこれに従う。

      しかし、後に一色左京に嫡子無く断絶する[5][6]

       明暦二年七月卒 戒名:翠竹院松山宗貞居士 (古河徳源院過去帳/喜連川龍光寺一色家墓 所の墓石より)

      なを、水野監物忠善の娘が片桐貞房の正室であり、旗本一色家の一色範風は片桐貞房の伯 父片桐範供(一色家への養子)

      であり、片桐貞房の従兄弟となる片桐晴之は一色範風の次男(片桐家への養子)である。喜連川の一色左京への水野監物家

      (家康の生母於大の生家) からの招呼との関係が考察できる。




    一色崇利 石堂八之丞。五郎左衛門。後に根岸丹右衛門。 

     一色下野守義久の三男  慶長十年(1605)頃、古河より喜連川へ、父の下野守義久と実兄立花左京(後の一色刑部少輔崇貞)

     の親子三人で、他の古河公方家系家臣を従えて入領する。

     兄崇貞の伊豆大島遠流により喜連川一色家三代となる。三代喜連川尊信の若家老、四代喜 連川昭氏の実質的な家老首座。

     城下の宿屋根岸丹右衛門店:屋号柏屋の初代当主、喜連川 家2代筆頭家老一色義久の三男。金地院崇伝より偏諱を賜う。

     喜連川騒動の一年後、慶安二年(1649年)6月 9日の幕府が任命した4代喜連川昭氏(七歳) の後見人である榊原忠次(別名:

     松平忠次)の白河藩から姫路藩への転封にあたり兄一色 崇貞に連座して隣領である烏山家の根岸の地で待機、実父で先の

     喜連川家二代筆頭家老の一色下野守義久と共に浪人中であった五郎左衛門は喜連川家からの帰参命令を受け、姓を根岸に

     改め 、幕府が任命した三名の一代家老、黒駒七左衛門・渋江甚左衛門・大草四郎右衛門等を束 ね、兄一色刑部少輔崇貞の

     養女で三代喜連川尊信の側室(欣浄院)が生んだ四代藩主喜連川昭氏(八歳) と幕命により、「狂乱」を理由に蟄居・押込中で

     あった三代喜連川尊信と正室の間に、当年に生まれた喜連川氏信(0歳)の異母兄弟を後見する。

      父の義久は一年後の慶安3年(1650年) 7月11日に死去。[7] 承応 2年(1653年)3月17日 喜連川騒動解決の 4年後、蟄居

     押込中の喜連川尊信は35歳で早死。寛文8年(1668年)に 四代喜連川昭氏は意見が合わない弟の氏信を養子とするが、度々

     隣藩の佐久山城主の福原氏に嫁いだ姉に相談の手紙を度々送っている[8]。2年後の寛文10年(1670年)5月に喜連 川氏信

     (20歳)は早死。代わって古河公方家から分かれた、一門の宮原氏から喜連川氏春 を四代喜連川昭氏の婿養子に迎え嫡子

     とした。その後、五郎左衛門は名を根岸丹右衛門と 改名し、武家でありながら城下の喜連川宿にて三軒の宿屋を営む。幕府より

     公方号を許さ れた喜連川足利家の親族で、しかも足利一門ゆえ町奉行の管轄外となり、他家藩主が泊ま る陣屋は営わない、

     永代において諸役御免の特殊な宿商人となる。[9] 

     墓所 : 喜連川家側室婦女子の菩提寺である少林山欣浄院専念寺内、家老の黒駒・渋江 ・逸見家と並んで四代藩主喜連川昭氏

     の生母「欣浄院殿」の墓所近くにある。 同寺は江 戸時代に二度の大火に見舞われ古い過去帳は焼失により、正式な戒名は不明。

     墓石に 刻まれた戒名は「□□院法暖紹心居士」死去年は延宝七年(1679)十二月廿六日とある。



    一色直房 (根岸)市郎左衛門直房、喜連川一色家4代、根岸(柏屋)丹右衛門店の2代当主。 一色五郎左衛門崇利の嫡子。

      墓所:喜連川専念寺 家老の黒駒・渋江・逸見家と並んで四代藩主喜連川昭氏の生母「欣 浄院殿」の墓所近くにある。同寺は

     江戸時代に二度火事に見舞われ古い過去帳は焼失によ り、戒名は不明。




<幸手一色家>

     一色長兼  六郎、左京大夫、幸手一色家初代。足利満兼より偏諱を賜う。一色氏兼の四男

      元亀三年十一月四日 清泉寺殿林 法樹大居士

 
 
     一色持家  刑部少輔、幸手一色家2代。最初の名は時家、足利持氏より偏諱を賜り一色持家と改名。 (時家) 一色長兼の嫡子

       永享の乱の時、叔父の一色直兼と共に鎌倉軍の大将を勤めたが見方の寝返りが続出し敗走 、三河守護一色義貫を頼り後

       に三河国宝飯郡宮島郷(愛知県豊川市牛久保町付近)に一色城 を築く。文明9年(1477)、家臣と伝えられる豪族波多野全慶

       (俗名、時政)に殺害された。豊川市牛久保町の牛頭山大聖寺にある今川義元の胴塚前にある五輪塔が持家(時家)の墓と い

       われる。



    一色満直 宮内少輔。足利満兼より偏諱を賜う。一色氏兼の長子



    一色直清 宮内大輔、幸手城主、幸手一色家3代。一色直明の三男で母は兄の嫡子一色亀乙丸と同じ 上杉氏。

       9歳の時、嘉吉元年(1441)結城合戦で捕らえられ京に護送され入牢。足利持氏の遺児であ る足利春王丸・安王丸は護送中、

      六代将軍足利義教の命令で美濃国垂井宿の道端で斬首された。この時、同じく護送されていた直清の姉と弟の其阿は二人の

      供養のため美濃国垂井宿金蓮寺の僧侶となりこの寺の住職と尼になる。直清が京に着いた時には将軍足利義教は赤松満祐・

      赤松教康親子に殺されており(嘉吉の乱)ために刑は延期され三年後(1444年)に直清12歳は許される[1]。 その2年後(1446年)、

      京で元服し名を「直清」とし、父直明の官職名「宮内大輔」と官位「従五位下」を室町八代将軍足利義政から賜わり幕臣となり京から

      九州に下向。 関東を離れてから十一年後に帰国の記録あり [1]。よって、文安 4 年(1447)の足利持氏の四男成氏による鎌倉

      公方再興の5年後に鎌倉に戻り、既に鎌倉一色 家は鎌倉公方足利成氏の命にて、兄蔵主が建長寺僧から還俗し相続していた

      ため、武蔵国 幸手の一色長兼・一色持家親子の遺領である幸手領を相続する。[1]



    一色直頼 八郎 宮内大輔、幸手一色家4代。古河公方家宿老、幸手城主


 
    一色直朝 八郎 宮内大輔、幸手一色家5代 古河公方家宿老、幸手城主 一色直頼の嫡子

      天文14年(1545)に関東に下った聖護院道増が古河公方足利晴氏と会見した際に、古河公方 側の窓口になった一色八郎が直朝

     だとされる。続く義氏にも奏者衆として仕へ、後北条氏 によって義氏が古河城から小田原に捕らわれた時もこれに従う。永禄元年

     (1558)4月義氏 が鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮で元服して幕府も認める5代古河公方となり同8月の古河帰還まで 近侍する。その後、出家

     し月庵と号する。そして、後北条氏の勢力が古河公方に浸透して 直朝が幸手城を明け渡し木野崎城へ移ると、その勢力は衰退して

     いく。義氏の死後、義直 は後北条氏の家臣に編入され、北条氏照の指揮下に置かれた。 豊臣秀吉による小田原成敗 が始まると

     直朝・義直親子は岩槻城を攻略していた浅野長吉に内通し[1]。 後に嫡子の義 直が関ヶ原合戦で軍功を立て徳川家に仕えると上総

     国大淵寺にて隠居する。



    一色政良 宮内少輔  小文間城城代

      永禄 4年(1561) 8月、取手の大鹿城を攻め、大鹿太郎左衛門を破ったが、荒木三河守によ って留守の小文間城を攻め落とされ、

      雁金山相野谷で亡んだ。一族は東谷寺の東に葬られ 、その入口には地蔵が建てられる。



    一色義直 八郎 宮内大輔 幸手一色家6代 徳川将軍家旗本初代 一色直朝の嫡子。
 
     後北條家の勢力下となった古河公方足利義氏の頃、幸手城を明け渡し木野崎城へ移る。小 田原の役が始まると義直は岩槻城

     を攻略していた浅野長吉に内通す[1]。天正19年(1591) 徳川家康に仕え、幸手 5,160石を賜り、大身旗本(高家とも)となり旗本幸手

     一色家の祖と となる。慶長年間初頭には隠居し家督は嫡男の照直が継いだ。関ヶ原の戦いの後、養老料 として 1,000石を賜る。

     慶長12年(1607)に照直が嗣子がないまま病死したために、義直は 再び家督に復し、嗣子となるべき血族を探し養うよう幕府より恩命

     を受ける。ために義直 の娘と旗本の杉浦忠次郎直為の間に生まれた長子であった吉十郎を養子にもらい直氏と名 付けた。ただし、

     義直の養老料、照直の加恩分は収公され、慶長19年(1614)、大坂の役で は 、伏見城を守備する。隠居所は知行地のひとつ下総国

     相馬郡木野崎村にあった。



    一色照直 二郎 宮内大輔、幸手一色家7代 徳川将軍家旗本2代 一色義直の嫡子。長子の八郎は 早死



    一色直氏 吉十郎 宮内大輔 幸手一色家8代、徳川将軍家旗本3代、旗本の杉浦家からの養子

    一色照直 一色義直の嫡子 

       嫡子を残さず早死。やむおえず、先代の義直が一時再相続した後、娘(養女説 もあり)の嫁先である杉浦忠次郎直為の長男、吉十郎

      を養子にもらい直氏と名付けた。[1] その後、直氏があまりにも幼少の為、杉浦直為も一色姓に改姓し親子共々養子となる。旗 本幸手

      一色家は残ったが源姓足利一色の男系血統は完全に絶え、杉浦氏は三浦系和田氏の 諸家なので平姓一色氏?


     
     一色直房 宮内大輔、幸手一色家9代、徳川将軍家旗本4代、一色直氏の嫡子。




     その他の幸手一色

    一色信茂(徳之一色城主:後年の田中城)



     <美濃一色氏>

      斎藤道三の子・斎藤義龍が将軍足利義輝より認可を受けて母方の縁戚にあたる一色姓を称したことに始まる家柄である。 義龍の母・

      深芳野は母方の祖父が一色義遠或いは実の父が一色義清とされ一色氏の血を引く人物である。 また、義龍の母・深芳野が道三に嫁ぐ

      前、土岐頼芸の愛妾であった時に、すでに義龍を身籠っていたとするが説がある。仮に頼芸は義遠の実子・土岐成頼の孫であるため、

      この落胤説が正しい場合、義龍は女系を介さない形でも一色氏の血統となる。 また、龍興にいても一色龍興を用いていた。

       斎藤義龍(一色義龍)- 左京大夫、美濃斎藤家2代、美濃一色家初代。

       斎藤龍興(一色龍興)- 刑部大輔、美濃斎藤家3代、美濃一色家二代。





     8、系 図

                一色家系図





     9、一色氏の庶流

      秋山氏 - 清和源氏流一色氏の一族が武田氏の庶家であった秋山氏を継ぎ称した。

      丹羽氏 - 戦国大名織田氏に仕えた清和源氏流一色氏の庶流。尾張国丹羽庄に土着。

     10、主要家臣団

      延永(のぶなが)氏(丹後守護代)

      三方(みかた)氏(若狭守護代)(のち山城守護代)

      石川(いしかわ)氏(北伊勢守護代)(丹後石川山城代)

      小笠原(おがさわら)氏

      小笠原長房

      小笠原長春

      小倉(おぐら)氏

      日置(ひおき)氏

      松田(まつだ)氏

      成吉(なりよし)氏

      稲富(いなとみ)氏

      稲富祐秀

      稲富祐直

      矢野(やの)氏

      竹藤(たけふじ)氏

      片岡(かたおか)氏

      国富(くにとみ)氏

      三富(みとみ)氏

      佐野(さの)氏

      榎並(えなみ)氏

      氏家(うじいえ)氏

      下山(しもやま)氏

      刑部(おさかべ)氏

      河島()こうしま氏

      伊賀氏(丹後国熊野郡代・竹野郡代・若狭国小浜代)

      佐治氏(尾張知多郡代)


     11、一色氏縁故社寺・菩提寺

      鑁阿寺  栃木県足利市 足利泰氏が出家後に暮らした寺、一色公深が生まれた場所 足利家屋敷内 の寺

      平石八幡宮 栃木県足利市 足利泰氏(平石殿)が建て住んだ寺である智光寺の跡。一色公深はここで 育つ。

      宝持寺   埼玉県幸手市 一色公深の墓所

      慈雲寺 愛知県知多市岡田太郎坊 一色範光開基

      長慶寺   愛知県知多市北粕谷 一色詮範開基(廃寺)

      慈光寺   京都市宮津 丹後一色家の菩提寺

      金地院   京都市・東京都 一色崇伝(金地院崇伝)

      龍光寺   栃木県さくら市喜連川 喜連川一色家墓所 喜連川足利家墓所

      専念寺   栃木県さくら市喜連川 喜連川根岸家墓所 喜連川足利家側室婦女子墓所

      建長寺   鎌倉市 一色直明・蔵主が育った寺 鎌倉五山第一位

      金蓮寺   岐阜県垂井町 鎌倉公方足利持氏の遺児、足利安王丸・安王丸の墓所 一色其阿が住職と なり、姉が庵主職



     12、脚 注

       1.^ 幸手市教育委員会発行『幸手一色氏』の系図と系譜のP147

       2.^ 千葉県立関宿城博物館史料集一『梁田家文書』平成14年(2002年)12月1日発行 七四 梁田家由緒

       3.^ 茨城県古河市発行『古河市史』の「古河徳源院過去帳」の一色下野守を参照

       4.^ 東京大学史料編纂所所蔵「喜連川文書」(足利嶋子の婚姻・足利国朝・頼氏・尊信の喜連川入りに伴って移動した

         家臣名の覚書)

       5.^ 筑波大学中央図書館文書館所蔵の『及聞秘録』「喜連川右兵衛督尊信の事」

       6.^ 栃木県さくら市発刊『喜連川町史』第三巻 資料編3 近世の第三章喜連川家、62喜連川義氏家譜   P219〜P220

       7.^ さくら市喜連川の龍光寺内、喜連川家墓所正面の一色家墓所にある義氏の墓石の左面に彫られた死去年を参照、

         墓石の正面には「□□院長岳宗久居士」右面には「二代頼氏公直臣」と「大禅勘平胤栄」と彫られている。一色五郎

         左衛門が浪人中、山本勘平と名乗っていたことが小林家代々日記には記録されている。)

       8.^ 栃木県さくら市発刊『喜連川町史』第五巻 資料編5 「喜連川文書上」

       9.^ 栃木県さくら市発刊『喜連川町史』第三巻 資料編3 近世 第五章 第二節 町の仕組みと運営

         町人由来書上帳:小林家代々日記のP482〜P483

       10.^泰氏は幕府への初出仕以来、将軍に近侍し、寛元二年(1244)に頼経がその子頼嗣に将軍職を譲ってからも変わらず

          頼嗣に近侍していたので前将軍頼経を中心とする陰謀にまき込まれる危険性があり、これを避けるために出家したと考

          えることもできる。これにより泰氏出家後の父義氏の筆頭御家人としての公的生活はかわらなかった。翌四年〔1252〕

          三月の宗尊親王の下向に際し三河国守護として同国矢作宿・宮路中山の宿所の経営にあたって、同親王の鎌倉下着

          後、四月三日の将軍宣下にも椀飯を献じた。この年には執権である北條時頼の妹を母とする嫡孫三郎利氏(頼氏)も

          出仕するようになり、十一月には将軍の新御所移徒に太郎家氏や長氏の子上総三郎満氏らと供奉している。栃木県

          足利市発刊『足利市史』第一巻P161〜162


       13.参考文献

         1.堀田正敦等編 『新訂 寛政重修諸家譜 第二 』 続群書類従完成会、1964年。

         2.『日本歴史地名大系 23 - 愛知県の地名 』 平凡社、1981年、ISBN 4-582-49023-9。

         3.豊橋市史編集委員会編 『豊橋市史 第1巻 - 原始・古代・中世編』 豊橋市、1973年。

         4.今谷明・藤枝文忠編 『室町幕府守護職家事典(上) 』 新人物往来社、1988年、ISBN 4-404-   01501-1 C1521。

         5.佐藤進一『南北朝の動乱』中公文庫

         6.松本尚雄『菊池氏三代』吉川弘文館

         7.瀬野精一郎『足利直冬』(人物叢書)吉川弘文館、2005年 ISBN 464205233X

         8.宮津市編『宮津市史 通史編 上巻』宮津市、2002年。

         9.今谷明・藤枝文忠編『室町幕府守護職家事典〔上〕』新人物往来社、1988年。

        10.石田晴男『戦争の日本史9 応仁・文明の乱』吉川弘文館、2008年。

        11.福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』吉川弘文館、2009年。

        12.阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典』新人物往来社、1987年。

        13.山本大・小和田哲男編『戦国大名系譜人名事典 西国編』新人物往来社、1986年

        14.梅本政幸『丹後守護 一色氏 代々控』あまのはしだて出版

        15.今谷明 『室町の王権』足利義満の王権簒奪計画 中公新書 1990年 ISBN4-12-100978-9

        16.井沢元彦『天皇になろうとした将軍』それからの太平記、足利義満のミステリー 1998年ISBN4-09  -402301-1

        17.山下昌也『日本一小さな大大名』たった五千石で、徳川将軍家と肩を並べた喜連川藩の江戸時代  

          グラフ社 ISBN978-4-7662-1182-5